正常なマインドなどない

残念なことに、わが国ではカウンセリングやその他心理療法などのセッションを受けることがまだ一般的なことではないという認識なのですね。

カウンセリングを受けるなんて、あの人はどこかがおかしいのではないか?などの見方がいまだに根深く残っているのかもしれません。

私は、セラピストの仕事をするようになって、つくづく分かるようになったのですが、私たちのマインドというものはすべからく、良く言えば夢をみているようなものであり、悪く言えば狂っていると言ってもいいかもしれないのです。

誰の心は正常で、誰かの心は狂っているという具合に私たちは往々にして考えがちですが、それは単なる程度の問題に過ぎないのです。

誰の心もおかしな状態であることは間違いありません。仮に私が自覚している精神的な症状を、もしも精神科の医師に訴えれば必ず何がしかの病名をいただけるはずです。

この社会にそこそこ適合して生きて行ける場合を正常と言い、不適合者の場合を異常としているに過ぎません。一般的なセラピーでやっていることは、社会生活に不自由さを感じている状態から、ある程度改善するようにお手伝いしているに過ぎません。

そのことは、それなりに価値のあることかもしれませんが、どれほどセラピーを繰り返したところで、依然として人のマインドが満たされることにはならないのです。

このことは、私自身が身を持って体験した事実です。そして、その理由もはっきりしているのです。私たちのマインドとは、何から何まで信じることで保っているのです。

そのネタは社会やそれに毒された親などの大人から幼いころに譲り受けたものです。マインドは、間違った情報を心底信じることで、それを真理だと思うようになってしまったのです。

誰もが同じように信じているのですから、社会もそれを基盤として成り立ってしまうのも当然のことなのです。けれども、何をどうやっても満たされないなら、そもそも何かがおかしいと気づくのです。

そして勇気ある人たちは、自分が信じているものの一切合財を一度脇へ置いて、真実とは何なのかという探求の旅に出るのです。

そうすると、次第にそもそもマインドを正常な状態に戻すなどということは在り得ないことだと理解することになるはずです。マインドとは、狂った思考の塊りだからです。

そしてもしも、あなたがあなたの本質に気づくことになったなら、その時はマインドの中身は空っぽになり、個人としてのあなたの代わりに、本来のあなたが姿を顕わすことになるのでしょう。

心の奥は深海のようなもの

意味のないことだと分かっているのですが、実は瞑想をする上での密かな楽しみのようなものがあります。それは、体中の知覚が一点に集中してしまったかのような感覚になることなのです。

それは、あくまでも身体の感覚のことなので、単にそれがやってくるとそれを楽しんでいたのですが、残念ながら最近は瞑想をしてもそれがさっぱり起きなくなっていたのです。

つまらないなと思っていたのですが、自分の努力でそれを起こすことができないので諦めていたところ、久しぶりにそれがやってきました。そして、それがやってくる条件のようなものが少し分かった気がするのです。

瞑想中に気が付くと、眠ってしまったという経験を時々するのですが、そうした明らかな睡眠の場合はもう全く瞑想が中断されてしまうので、その場合には一度仕切り直しをしてから再度瞑想をするようにしています。

けれども、その眠りがどうにも微妙過ぎて、寝ていたとは気づかぬレベルの状態があるようなのです。そして、目覚めているのと、眠りとのちょうど狭間のギリギリのところに意識があると、あれが起きるようなのです。

そして記憶にある限り初めて、強烈なのがやってきました。あっ、久しぶりに来てくれた!と思った瞬間、目の前にしっかりと中心が見えるのです。

それは渦巻の中心のようなものなのですが、別に渦を巻いているわけではないのです。それを凝視した瞬間、ものすごい勢いでその中へと吸い込まれたような気がしたのです。

好奇心と恐怖が混じりあったまましばらくすると、ゆっくりとその中心は消えて行ってしまいましたが、今思い返すと、あれはきっと意識下への通路のようなものだったと思うのです。

しばらくすると、やはり得体の知れないおどろおどろしいものが少しだけ見えてきました。心の奥に隠された怪しい闇の部分が少しだけ見えたのではないかと思います。

心の奥というのは、ある意味深海のようなものですね。私たちは、深海に棲息している生物のほとんどについてまだ未知の部分が多いのですが、それと同じかもしれません。

それにしても、こうした体験をしている自分は明らかに自我(エゴ)なのです。エゴがエゴの隠している部分を暴きに行っているわけですから、何ともおかしなことですね。

想い残しがないか振り返る

子供の頃に、早く一人前の大人になりたいと思っている子もいれば、大人になるのは嫌だ、いつまでも何の責任もない子供のままでいたいと思っている子もいるのです。

そのどちらにも実は問題があるのです。そもそもが、そのどちらの子供の場合も未来に意識が向いているということです。本来、子供は過去や未来のことよりも、今日楽しむことに精一杯でいるのが健康な証拠なのです。

早く大人になりたいという気持ちも、いつまでも子供でいたいというのも両方とも、現状に満足していないと言えるのです。

たとえば、早く立派な大人になりたいと思う子供の場合、それは自分のことは何でも自分でやれるようになりたいと思っているのですが、その理由は次のような場合があるのです。

年齢相応の子供のように、親や周囲に甘えて生きることができないと判断した場合。物理的に親に甘えようとしても、それが叶わなければ、子供は自分を救うためにも相手への願いを断ち切ってしまうのです。

そうして、できるだけ早く大人になって、自立することで本当の辛さを見ずに生きて行こうとするわけです。そうやって、大人になってしまうと、子供らしい無邪気さを十分に使わずに過ごしてしまうために、困ったことが起きてきます。

しっかりしなければ、強い自分にならなければと頑張れば頑張るほど、心の奥に隠された無邪気な子供の意識がそれを邪魔するのです。本当は頑張りたくないんだ。

人は、その年齢に相応しい生き方をしなければ、想い残しをすることになるのです。その残った部分が、いつまでも心の奥に燻っていると、いつかは現実のあなたに牙をむいてくるでしょう。

その時になって、ようやく自分の心の中に何やら得体の知れない強力な力を持った闇の部分があると知ることになるのです。

何かがおかしいと感じたときが、生き残っている昔の自分を救ってあげるチャンスなのです。その時の自分のエネルギーが、まだ正常に成仏していないと理解することです。

残った想いは、未来のあなたに向けて訴えてくるのです。心を静かにして、その小さな声に耳を傾けてあげて下さい。そして、丸ごとその声を受け止めてあげることです。

あなたとその声の主の距離が近づけば近づくほど、その子の気持ちや感情を味わって溶かしてあげることができるようになるのです。

完全に諦めたとき、それはやってくる

仏陀は、何年もの間にあらゆる師のところに出向き、弟子として教えを乞うのですが、師の方からもうお前に教えることはなくなった、頼むから他の師のところに行ってくれと言われ続けたのです。

彼自身もどんな苦行にも耐え抜いて、これ以上もうどんな努力もすることができないというところまでやり抜いたのです。その結果、何も起こらなかったのです。

もう本当にやり尽してしまった彼は、放心状態となって、菩提樹の木の下で寝てしまったのですね。それは、本当の意味での深い睡眠をとったのです。

なぜなら、苦行中の睡眠などというものは、心からの安らぎなどを感じることもできなかっただろうからです。全くの熟睡が終わって、最後の星が空から消えかかった早朝に彼は目覚めました。

その時に、彼は自然と覚醒したのです。もうどんな努力もできない状態になり、どこへ行くことも何をすることもできなくなった正にその時に、それは起きたのでした。

そして、こうしたあらましが、あらゆる難行苦行は無駄に終わった。ただ心静かにしている間に光明を得ることができたというところばかりが強調されたのです。

だから、私も騙されていました。本当は、そうした苦行を経て、あらゆる努力は無駄だったと気づけたことによって、彼は覚醒したのです。

最初から努力などいらないのだと、どれほど理性で理解できたとしても、それは役には立たないのです。う~ん、とても残念なのですが、どうもそういうことらしいですね。

私は努力が嫌いなので、修行せずに覚醒できる道が一番いいと思っていたのですが、あらゆる修行はそれが役に立たなかったと完全に降参するためにこそ、必要なのだということです。

エゴを使ってでも、全身全霊で努力すること。そして、どうもがいても、自分の思ったようにはならないのだと知ったときに、人は完全に力を抜くことができるのです。

すべての努力が実らないと悟ったときに、本当の悟りがやってくるのですね。

真の自由とは

昨日のブログで、「無選択」について書きましたが、少しだけ補足したいと思います。無選択こそが、本当の自由だということを書き忘れたのです。

私たちは、誰もが自由を求めています。そのくせ、何等かの不自由さを感じながら生きているとも言えますね。なぜなら、私たちが願っている自由さを、この社会もそしてかつての親も認めてはくれなかったからです。

自分の自由にしたいといくら願ったところで、それじゃあ生きていけないよというメッセージを幼いころに沢山受け取ってしまうのです。そうやって、親や社会のルールを仕込まれるのです。

自分の自由さと社会的なルールの両方のバランスがうまく取れている場合は問題ないのですが、ルールの方が優勢になりがちなのです。それを自己防衛と呼びます。

そうして、あまりにも自己防衛によるルールを優先するあまりに、不自由極まりない人生を生きることになってしまい、結果は大抵が鬱々とした毎日となるのです。

その不自由さから脱出して、自分らしく自由に生きて行けるようにするのが、セッションなどでやっている癒しなのです。人は癒されればそれだけ、社会や自分が作ったルールから自由になるのです。

けれども、これでまだ終わりではありません。この自由とは、社会や自分が作った防衛というルールから自由になるだけで、まだ本当の自由を手に入れたとは言えないのです。

本当の自由とは、あなた自身から自由になるということです。つまり、それはあなたのマインドからの自由を意味します。私たちは、このままだとマインドの奴隷です。

そのマインドは、思考によって日々選択を繰り返して自分をどこかに導こうとしているのですが、それに騙されてはいけません。

あなたは、あなたのマインドではないからです。マインドと同化している限りは、本当の本当の自由を手に入れることはできません。

そこで、「無選択」という生き方がようやく表れることになるのです。無選択でいると、マインドは衰退の一途をたどることになるからです。

思考すること、それによる判断、あるいは比較、そして選択などをしないでいれば、思考は停止してしまい、動いていなければ困ってしまうマインドは、いずれは静かになっていってしまいます。

その時、あなたの本質が顕われることになるはずです。それこそが、真の自由の状態なのですね。

無選択を心がける

毎日が淡々と過ぎていく人生を生きていて思うのは、自覚があろうとなかろうと私たちは生きるということを選び続けているということです。

死なないように、つまり死を選ばないでいるということが、そのまま生を選択しているということです。ところで、自殺する人の多くが、実は生への強い執着があったということをご存じですか?

生を強烈に選択していたからこそ、その極端な選択がひるがえって、そのマインドが今度は死を選択することとなったということです。

少なくとも、生きていても死んでもどちらでもいいという人が、わざわざ自殺するということはないからです。私たちが何かを選択すれば、それが強ければそれだけ強く真反対を選択する可能性が高くなるのです。

生きていたい、あとどれくらい生きられるのかと思えば思うほど、死というものを間近に感じてしまうのと同じかもしれません。生を選択すれば、必ず死がついてくるのです。

自分の心がいつも平安で安らかであることを選択すればするほど、怒りや恐れがついてくるのです。この二元性の世界では、そういうことになってしまうのです。

快楽ばかりを選択すれば、必ず不快さに苛まれる人生がついてきます。二元性の片一方を選ぶということは、それと対極にあるものを選ぶことと同じだということに気づくことです。

幸福を選択すれば、不幸がもれなくついてくるのです。安心を選択すれば、どこまでも不安がくっついてくることは、もう十分に誰もが知っていることですね。

かつてブッダが言った言葉で、中道を行くというのがあるそうですが、それは両極のどちらかを選択するのではなく、そのどちらでもない間にいること、無選択でいるということです。

無選択でいるということは、毎日無数の選択をし続けているマインドにとっては不可能に近いことのように思われますが、それを心がけるということです。

無選択で生きるというと、なにやら柄にもなく修行っぽい感じがしますが、要するに無選択を心がけることで結局は無思考のマインドに近づいていくということですね。

輪廻を断ち切る

クライアントさんとのセラピーにおいて、自分の人生が満足のいくものになっていない理由を、親その他自分以外の誰かのせいにするのは、好ましく思わないと言われることがあります。

それもかなり多くの人たちがそのような考えを持つことがあるのです。確かにそうですね、もういい大人になっているのだから、いつまでも昔のことを持ち出して、お前が悪いと訴えたところでみっともないということです。

その気持ちは十分に分かるのですが、そうした理性的な態度が実は隠された感情を味わう時に邪魔になるのも事実なのです。

だから、まず初めはどれほど大人気ないと感じたとしても、それを一旦脇に置いた上で、できるだけ幼いころの自分の気持ちに正直になることが大切なのです。

大人の理性を使わないことです。そうすることで、過去の自分がどれだけ親や周りの大人たちに訴えたい本音を抱えていたかに気づくことができるのです。

そうして、その気持ちや感情を味わうことができるようになったその先に、今度は自分が実は被害者ではなかったという地点へと進むことになるのです。

訴えたい気持ちというのは、自分が被害者だということを言いたいわけです。ここで止まってしまうと、いつまでも癒しは停滞したままとなってしまうのです。

そこで、人生は自作自演なのだという発想を取り入れることが必要となります。私の感覚では、少なくとも小学校に行くようになった後に自分の身に起こることは、すべて自分の書いた台本通りだと思うことです。

それも最初から無理やりにそういう考えを詰め込むのではなくて、もっと軽いノリで、今日はこんなことが起きたけど、これも自分の台本通りなの~?という気楽な感覚を使うのです。

そうやって慣らしていくことで、少しずつ人生は自作自演ということが身についてくるのです。前世や過去世などを考慮に入れるなら、今回の人生のすべてが自作自演だということに気づくかもしれません。

なぜなら、前世であなたが死ぬ直前に持っていたあらゆる思考が、肉体の死によって取り残されて、その思考にとって一番都合のいい新たな子宮へと入っていくからです。

あなたの思考がそうやって輪廻の中を巡ってきたのです。なにが起きたとしても、すべては自分の思考が目論んだことだと認めることができれば、癒しは一気に進むでしょう。

そして、うまくいくとあなたの肉体が滅びる前に、あなたを物語の中に取り込み続けてきたその思考を処分することができるかもしれません。

そのときには、もう次の人生へと向かう何者も消えてしまうことになるのですね。それが無限に続くと思われた輪廻を断ち切ることになるのです。それで一丁上がりというわけです。

内面の成長を支えるのは「満足」

ハングリー精神という言葉がありますね。経済的に何ら不自由のない金持ちのボンボンが、ボクサーの世界チャンピオンになったという話しは聞いたことがありません。

足りないという想い、絶対金持ちになってやるという強力なハングリー精神があったからこそ、激しい練習に耐えてチャンピオンとなることができたのです。

つまり原動力は「不満足」さなのです。我々がよく知っている向上心も、元をただせばこの「不満足」さにあるのです。今のままではいやだという強い想いが、外側の成功へと導く力となるのです。

自分はこんなものではない、もっともっと可能性があるのだから、未来へ向けて頑張っていこうというのが向上心であり、そういう前向きの気持ちがそれなりの努力となって、願いを叶えることになるわけです。

けれども、ここで注意が必要なのは、「不満足」という原動力は、私たちの外側の成長を支えるものだということです。他人から見て、どれだけのことができる人なのか、目に見える成果についての成長のことを言っているのです。

一方で、もしも内側の成長に対して、「不満足」を使うとするなら、決して成功することはありません。もっと自分の人格を磨きたいとか、より崇高な魂の持ち主へと成長したいと願っても、必ず失敗します。

残念ですが、「不満足」のエネルギーは、外側の成長にのみ有効だということです。そればかりか、「不満足」さは内面の成長を阻害することにしかならないのです。

「不満足」さは、自我からやってくるものだからです。もしもあなたが社会で成功者としての地位を確立したいと思うのなら、「不満足」さを徹底的に使い切ることです。

けれども、もしもあなたが内面の究極に到達したいのなら、「満足」が心の中になければならないのです。心を静かにして、何もしないでいることが心地よいなら、あなたはそのことに満足している証拠です。

そこがカギなのです。この場合の「満足」とは、具体的な何かの結果からやってくるものではありません。「満足」とは、自分の全体性と闘わないということなのです。

全体が自分を通して体験したいと思っていることを、あるがままにそのままにさせてあげるということです。それこそが、「満足」であることです。

そして、それだけがあなたを全体性へと導くことになるのです。

四つのマインドの状態

osho によると、人のマインドには四つの状態、あるいは四つの段階があるそうです。一つ目は、ごくごく普通の私たちのマインドの状態である、思考があらゆる方向へと発散している状態です。

この状態でもひどくなると、マインドの中の思考と思考の切れ目を探すのが難しいくらいに、次から次へと思考がやってくる状態になります。

マインドとは、思考を入れておく入れ物、あるいは空間のようなものだと考えることができますが、この状態のマインドには思考がカオスのように乱れて散乱しているのです。

そういうマインド状態にある人物の話しを聞いていると、話しが次から次へと休むことなく続いていくし、きっとそういう自分の状態を決して意識することはないのだろうと感じます。

完全に思考に飲み込まれている状態ということができますね。それほどひどくなくとも、多くの場合に思考をツールとして使うのとは逆に、思考に乗っ取られてしまっているのです。

二番目は、「思惟」という状態であり、思考がある一定の方向へ向かっている状態を指します。思考が主人なのではなくて、思考をツールとしてフル回転させている状態ということができます。

たとえば、科学者や何かの専門家などが、研究に没頭しているような場合には、この「思惟」の状態になっていると考えられます。

そして、三番目は、いわゆる「集中」している状態です。「思惟」が一つの方向に向かうのに対して、「集中」は一点に固定された思考であると言えます。

「集中」することで、思考は一件静かになります。一番目のふつうの思考の状態では、マインドはざわざわ常に動き回っていますが、それが「思惟」になり規則的になるのです。

そして、「集中」になれば極端にマインドは静かになり、ほんの小さな動きしかなくなるのです。けれども、ここでも思考が消えることはありません。

最後の四番目のマインドは、思考がなくなった状態、つまり無思考の状態を指しますが、このことを瞑想と呼ぶわけです。なるべく意識的でいるようにすることで、ごく普通のマインドから瞑想状態へと移行しやすくなるのですね。

マインドは群衆のよう

マインドの中から聞こえて来る沢山の声を聴いていると、それが自分の内面の声とは思えないほど、大勢の人たちの声のように感じるのです。

私は、東京生まれの東京育ちなのに、どういうわけかコテコテの関西弁でしゃべってくる誰かもいるし、ずっと何かの曲のメロディを口ずさんでいる人もいます。

どうも、マインドというのは大勢の人の声の寄せ集めのような気がするのです。マインドとは、決して一人ではなくて群衆のようなものに違いありません。

これまでの人生のあらゆる場面において、完全には生きてなかったその瞬間瞬間の不満の声が、聞こえてきているのです。それだけ、不完全燃焼の毎日だったということですね。

それがあまりにもひどくなってくると、どうやら独り言という形をとって訴えてくることにもなるようです。私は学生のころに、独り暮らしをしていたときに独り言を沢山言っていた記憶があります。

単に自覚がないままに寂しかったというのもあるのかもしれませんが、マインドの奥からやってきた声が実際に自分の口から溢れて出てきていたのではないかと思うのです。

もしもあなたのマインドが静かだと感じるのでしたら、それはあなたがマインドの声を遮断しているということです。なぜなら、静かなマインドというものはないからです。

どんなに小さな声であろうと、マインドという群衆はしゃべり続けているのですから。マインドが静寂になるということは在り得ません。非静寂さこそがマインドの本性なのですから。

本当に静かになれば、マインドは消えてしまうでしょう。どれほど静かに感じたとしても、「しー!」と言っている誰かがいるということに気づくことです。

瞑想中にどれほど静寂を感じたとしても、その後にいつもの意識に戻ってしまうのは、そういうことなのです。私は、マインドが静まり返ったと感じるときに、声を潜めてじっとしている誰かがいるという感じがします。

その静寂さをマインドの中の誰かが感じているのですから。静寂さを感じる誰もいなくなったとき、マインドはもたなくなるはずです。