活躍したいという想い

自分の友人や知人などが、素晴らしく活躍している姿を見ると、ある種の嫉妬心のようなものが湧き上がってくることがあります。小さいのですが、確実にそれはあるのです。

ということは、私の心の中にもまだこの社会で活躍したいという欲求のようなものがある、ということになるのですね。こう書いてしまうと、何だか笑えてくるのですが…。

そこそこ若いころには、そうした気持ちがなくはなかったという自覚もあるのですが、残念なことに自分は何を達成したとしても、達成感がほとんどないために、不幸だなと思っていたのです。

元々全く活躍したいという欲求がなければ、達成感がなくても一向に構わないのですが、そこの食い違いがあったために、常に満たされないという現実を思い知ったのです。

勿論、今となっては自分の外側に何を達成しても、どれほど活躍したとしても、それが自分を満たしてくれることにはならないと、はっきり気づいているのですが、それでも奥の方には活躍願望の残骸がまだあったのですね。

活躍願望とは、エゴそのものです。なぜなら、活躍するということは、何かの成り行きでそのようなことになるものであって、それを目的とするものではないからです。

それなのに、その活躍するということ自体を望む、あるいは目標としてしまうのですから、これこそが手段と目的がバラバラになっている状態なのです。

何かを目指してそれを達成するように生きることと、成り行きとしてそうなるということとでは、天と地ほどの違いがあるということに気づくことです。

本田宗一郎さんが、好きなことに没頭しているうちに、成り行きとして大企業の社長になってしまったことと、初めから起業が目的で会社を設立して、会社を大きしくて当初の目的通りに、大企業の社長になるのとの違いです。

遠くから見ているなら、どちらにしてもそう大きな違いがないように感じてしまうかもしれませんが、そこには大きな違いがあるということです。

しっかりと活躍したいという想いを受け止めながら、寝ることにしようと思います。