私たちは、自分のことを一人の独立した存在だと信じて疑うことがありません。夜寝て翌朝起きると、人生の続きがやってきたと考えるわけです。
そういうことをずっとやってきたのが自我なのです。自我は、自分はひとまとまりの持続的な存在だと思い込んでいるのです。
そして、それが本当だということを日夜証明しようと躍起になっているのです。その努力は途絶えることがなく、なかなか凄まじいものがあります。
なぜなら、もしその努力を怠ってしまったなら、ひとまとまりの自分という存在が思い込みの産物だったとバレてしまうからです。
その秘密がバレないようにするために、自我が持ち続けているもの、それが希望なのです。願望といっても欲望と言っても構いません。
とにかく未来へのなんらかの望みを持っていさえすれば、自我はバラバラになることなく、これまでどおりの自我としての毎日を続けることができるのです。
希望によって未来に意味が生まれ、その希望を叶えようとする努力が過ぎ去ったはずの過去にも意味を持たせるのです。
そしてその過去と未来を操るのが思考というわけです。これで自我が思考の塊だという理由が分かってもらえたのではないかと思うのです。
この鉄壁の自我のやり口、一見すると非の打ち所がないようにも見えるのですが、一つほころびがやってくれば、きっと一瞬にして自我は崩壊するはずです。
なぜならニセモノというのは、すべてそんなふうに消滅するときにはあっという間という共通の性質があるからです。