観照者としての練習

完全な観照者となって、ただ見ることを実践しようとするなら、きっと全ての記憶との断絶が必要となるのでしょう。

あるがままをただ見ることがどうしてそんなに難しいのかというと、私たちはこれまでに溜め込んだ記憶や作り上げた概念と照らし合わせる習慣があるからです。

目から入ってきた生の視覚情報を元に、自分なりの照らし合わせや判断などが自動的に付加されてしまい、その後にようやく見たと自覚するのです。

そのためにあるがままに見ているという自覚であっても、もうその時にはありとあらゆる認識回路(後処理)を通過した後なのですね。

そこをどうやって切り離すのかを考えてみたのですが、どうもその回路は一つではないようですね。

いくつかの回路が重ね合わさって機能している感じがするのです。最も原始的なものであれば、物体の形を認識する回路。

その次には、たとえば概念化する回路が働き、一番最後には個人的な記憶との連携をする回路があるでしょうね。

このほかにも色々とありそうですが、とにかく細かなことは置いておき、できるところから練習するしかなさそうです。

そしてもちろん見ているときには、同時に見ている自己にも意識を向け続けることを忘れてはなりません。