問題行動は報われない

このブログを以前から読んでくださっている方なら、もう何度も繰り返し聴いていることだと思いますが、また「問題行動」について書きたくなりました。

ここでいう「問題行動」というのは、自分のことを問題視して欲しいという気持ちが原動力となった何らかの行動のことです。

幼い頃に、自分の気持ちを伝えたくて、分かって欲しくて、でもそれを表現できなかったか、あるいは表現しても取り合ってもらえないでいると、その不満が潜在意識の中に蓄積されるのです。

その不満のエネルギーが、本人の意思(理性)とは無関係にある行動(あるいは症状)を起こすことになるのです。

たとえば、オネショは典型的な問題行動の一例です。子供の体質にもよりますが、アトピーや喘息などのアレルギーを利用する場合も多いのです。

その他、様々な具合の悪さや、不登校、摂食障害、強迫性障害、ギャンブル依存などの各種依存症、数え上げたらそれこそキリがありません。

要するに、人生に困った状態を作り上げて、それを親に見せて訴えているわけです。ただ残念なことに、元々分かってくれない親なので問題行動は効果はないのです。

そればかりか、親はそれを否定的なこととして見てしまうので、子供は自分を責め続けることにもなるのです。

こうなると、無限ループにはまり込むことになってしまいます。そこから抜け出すためには、まずは問題行動であることを認めることです。

その後、問題行動を起こさざるを得ない苦しい胸の内を見て、そこを自分自身で受け止め続けることです。

親に期待している限り、癒しは進まないことも覚えておく必要があるでしょうね。

「無」の境地から見る

私たちはみんな「無」からやってきて、かりそめの肉体をまとって人生を送り、その後また元の「無」へと帰っていくのです。

無限である「無」と比べたら、ほんの一瞬の取るに足りない生を生きるだけの存在なのです。

それなのに、どうしたわけか必死になって何かを求め続けてしまうのです。何とかして不安と恐怖と孤独から逃れようとするのです。

すぐに終わってあとは帰還するだけの身の上なのですが、それが分かってはいても、ゆったりとはしていられないのです。

戦い、強欲、必死、呪い、嫉妬、こうした思考に乗っ取られて、一瞬の人生を終えることになるのです。

自分がいつ死を迎えるのかは知りませんが、何となく分かっていることがあるのです。それは、死の間際に一生はあっという間だったと思うだろうことです。

過ぎ去った過去はどこにもないので、今死に直面しているという事実だけを見れば、人生はほんの一瞬なのだろうと。

それならすることはたった一つ。「無」の境地からこの生を眺め続けること。そうなったら、この生も「無」の一部だと気づくことになるのでしょうね。

内側の不安を小さくする方法

あなたが幼い頃、どんな毎日を送っていたのかをよく思い出してみることです。どのくらい安心させてもらえていたのか、それも思い出すといいかもしれません。

どの時代であれ、家族の一人ひとりは必死に生きているのです。誰も悪者はいないのですが、その必死さからは本当は誰も救われないのです。

あなたの周囲にゆったり寛いで、おだやかな気持ちでいる家族がいなければ、子供のあなたは安心することができません。

安心が足りないばかりか、怖い目にあったり寂しい思いをしたり、そんな中子供は何とかやりくりして生きていくのですが、それにも限界があります。

大人の自分が、そうした過去の自分の生活の中にイメージで戻っていき、幼い自分に寄り添ってあげてみるのです。

自己表現ができない自分であれば、その気持ちを汲み取ってあげて、できるだけ受け止めることを繰り返してあげるのです。

過去には大人の現在の自分はいませんでした。でも今はいるのですから、その自分を使わない手はありません。

理想のお父さん、お母さんになったつもりで、様々な場面に戻っていって、そこで生きている子供の頃の自分をしっかり受け止めてあげること。

そういった癒しの作業が普通にできるようになれば、そこから自然とあなたの内側の不安が小さくなっていくはずです。

癒しは蓄積し、いつか開花する

この仕事を始める少し前のことですが、まだ会社員だった頃に生まれて初めて癒しというものに出会いました。

週末の二日間のグループワーク的なものだったのですが、ワークが終わった日曜日の夜、ああなんだか凄く楽になれたなあと感じたものです。

もうこれで大丈夫と思って、次の日の月曜日にいざ会社へと向かうのです。仕事を終えて帰宅すると、20%くらい元に戻ったかなという感覚がありました。

そして火曜日の夜は、50%くらい戻ってしまったかもしれないと感じ、案の定水曜日に帰宅すると、残念なことにグループワークの効果がほとんど残っていない感じでした。

そして1ヶ月後にまた週末のグループワークを受けたときに、よしこれでまたスッキリすることができた。きっともう大丈夫と思ったのです。

けれども結果的にはオフィスでの仕事に戻ると、水曜日が終わった頃にはまた元の木阿弥になってしまうのでした。

要するにグループワークによる癒しの効果は、たったの三日間しか持たないという悲しい結果となったわけです。

そのくらい、当時の私にとっては会社で仕事をするということが、正気を失わせる効果があるということを思い知ったのです。

会社で静寂を忘れずにいることがどれだけ難しいことなのか、よ〜く分かったのです。そのくらい人間というのは、環境に支配されやすいということですね。

私の場合は、結果的には会社員を辞めることができたので、その後は内面の静寂を忘れることは無くなりました。

ただ人によっては、そう簡単には環境を変えることができない場合も少なくないはずです。そんな場合でも覚えておいて欲しいことがあるのです。

それは癒しの体験は決してなくならないということです。元に戻ってしまったと感じたとしても、必ずそれは内側に蓄積されていくものです。

それがいつかのタイミングで、あなたの中で炸裂するのです。そうなったら、もう2度と癒された感覚を忘れることはできなくなるはずですね。

オリジナルへ帰還する

生きていると人間とにかく辛いことがやってくることもありますね。でもそれが一時的なものであれば、何ら問題はないのです。

そうではなく、何だかずっと定常的に生きるのがただ辛くて仕方がないという場合があるのです。

そしてその辛さが一体どこからやってくるのかも、本当のところわからない。一つひとつの問題を解決していったところで、その辛さは消えないのです。

実は生はとてもシンプルな法則で成り立っているのです。それは、あなたがオリジナルの自分、あるがままの自分から離れていった分だけ、それに比例して辛くなるのです。

誰もが生まれたままの状態で生きていくことはできません。社会という仕掛けの中で生きていくためには、様々な約束事に順応する必要があるからです。

そのせいで、誰でも少しだけあるがままの自分からは遠ざかることになるのですが、その程度なら問題はありません。

そこからある種必要以上の極端な生き方を身につけてしまうと、オリジナルからも極端に遠ざかることになるのです。

たとえば正しさにしがみついて生きるようになると、自分の良い部分だけを全面に出して、そうでない部分はないことにしてしまうのです。

「嫌い」、「いやだ」、「ノー」などの言葉を言ったり、そういう気持ちを持つだけでもいけないことだと思いこんだりするのです。

こうした生き方を幼いときに学んでしまうと、それがあまりにもバカバカしいことだと気づくまでに、長い時間がかかってしまうことになるのです。

私たち人間の内面であるマインドのことを、しっかりと勉強して深く理解することです。マインドとは良いも悪いもなく、こういうものだと認めるのです。

それによって、遠く隔たったところで生きていたものが、少しずつオリジナルの自分への帰還をしていくことになるのです。

そうなったら、人生は恵みになるのでしょうね。

欲望はなくならない

ほとんど毎日のように通っているスポーツクラブの更衣室、沢山並んでいるロッカーの中で、自分はいつも同じロッカーを使うのです。

習慣になってしまっているからなのか、何も考えずに自動的に身体が動いていつもの番号のロッカーの前に来てしまいます。

不思議なもので、ごく稀に他の誰かにそのロッカーを使われてしまっていると、何だかとても嫌な感じにさえなるのです。

ロッカーは早いもの勝ちで自由に使っていいので、そりゃ誰かが使ってしまっていても何の不思議もないのです。

けれども、心のどこかで納得していない自分がいて、本当に笑ってしまいます。きっと勝手にこれは自分のロッカーだと思い違いしてしまっているのでしょうね。

これもある種の所有欲の表れなのかなと思っています。自我というのは、自分のものだと思いたい習性があるのですね。

それ以外にも人間には無数と言ってもいいくらいの欲望があります。仏教では108つの煩悩があると言うくらいですから。

それを一つひとつ克服することは絶対に不可能なことですね。なぜなら、「私」という自我は欲望でできていると言ってもいいのですから。

それよりも、「私」はいないという真理に気づくことの方が、遥かに要領のいいやり方ではないかと思います。

「私」さえいなければ、欲望を落とす必要もないのですから。「私」がいないと気づけば、あらゆる苦しみは消えてしまうはずですね。

無邪気さが宝物

事務所から少し離れた場所に駐車場を借りているのですが、その駐車場と事務所の間を行き来しているときに、たまに小さな女の子を連れたご家族を見かけることがあるのです。

その子がもの凄く人懐っこい子で、こちらから手を振るとすかさず手を振って答えてくれるのです。

しばらく前からそれが続いていて、最近ではだいぶ成長したのか、機嫌の悪い時には自我が強く出ることがあるのです。

ああ、大きくなったなあと思う反面、その時にはお父さんに抱えられながら泣いて叫んでいたりするのです。

こういう時は、親は大変だなあと思うのですが、それでもいつまでも従順なおとなしい、親にとって都合のいい子のままではいられません。

自我の成長とともに、好き嫌いがはっきりしてきて、気に入らないことがあれば拒絶するということによって、健康な大人になっていくものなのですね。

そんな成長の後、つい先日もそのご家族にばったり会って期待せずにいたところ、すれ違いざまにこっそりその子が手を振ってくれました。

思わず嬉しくなって、こちらも手を振りかえして、小さな声でありがとう!って言ったけど聞こえてなかったかもしれません。

あの無防備な瞳、あの無邪気さは本当に天使のようですね。私たちが大人になるにつれて忘れてきてしまったものです。

だからと言ってなくなってしまったものではないのです。誰の心の中にもそれは必ずそのままに残っているはず。

それがどれほど大切なものか、あの子が思い出させてくれたのです。いつまで手を振ってくれるのか、もう少しだけ期待していたいですね。 

純粋な意識を捉える

私自身も含めて多くの人が、意識と思考の区別がしっかりできていないのです。もちろん知識としてはその違いを知っています。

けれども、実際には何が意識なのかをしっかり識別することができていないのです。瞑想が苦手な人に限らず、大抵は思考が無くなることがないからです。

誤解を恐れずに表現すると、意識とは思考が活動するための空間(背景)のようなものです。その思考の中に「私」がいるため、意識を逃し続けているのです。

Osho はこのように言うことがあります。「すべての努力は全世界を忘れることにある」

全世界を忘れるとはどういうことでしょうか?自分のことや、この世界のことを捉えて離さないのは思考なのです。

だからそれを忘れるとは、思考が落ちる時のことを指していると思えばいいのです。思考が働かなければ、思い出すということがなくなるからです。

思考が停止して残された意識だけになるとき、全く言葉で表現することができない世界に浸ることができるのです。

そしてそれは、ごく普通の生活の中においてもどこかで体感しているはずなのです。それこそが宝物であり、私たちの本質なのですね。

優しさは意識的であることからくる

もしもあなたが、誰かに与えたい(与えられる)と思うものを持っているとき、仮にAさんはそれを欲しいと言い、Bさんは要らないと言ったとします。

その時に、あなたの意識はAさんに向かうでしょうか?それともBさんの方に向かうでしょうか?

それはもちろん、Aさんの方により関心が行くはずですね。それは自然なことだと思います。互いに気持ちが合致したのですから。

ここまでは当たり前のことですが、もしもBさんしかいなかった場合、あなたの与えようとしていた思いは、そこでしまい込まなければならなくなりますね。

与えたい気持ちが強ければ、Bさんの要らないという言葉は都合が悪いので耳に届かなくなってしまうかもしれません。

そうなると、Bさんの要らないという言葉を無視して、自分の好意を優先してもらってもらおうとしてしまうのです。

こうしたことは、誰にでも起こりうることなのです。これが優しさを欠いた人間の反応なのです。

相手の要らないという気持ちを尊重することができなくなってしまうのですから。解決策は何だと思いますか?

それは充分に意識的であるということです。自分に意識が向いていれば、そこでもらって欲しいという自分の気持ちを観照できるので、それに乗っ取られずに済むのです。

その結果、余裕を持って相手の要らないという気持ちに寄り添うこともできるようになるのです。

本当に優しい人というのは、やっぱり意識的である人だということが分かりますね。

言葉が用無しになるとき

1日にたった1度でもいいので、自分1人でいられる時間を作るようにすることです。ほんの5分程度でも構わないので。

外では仕事に追われ、家では家事に追われ、子供の世話に追われていれば、どうしても静寂を見失ってしまうはずです。

それなら寝る前のほんの2、3分でもいいので、心を静かにしている時間を是非作って欲しいのです。

私たちは常にこの世界のあらゆる出来事を言葉で説明しようとするし、言葉で説明できると思っているのです。

これが習慣化してしまっているので、それを一時的に止めて静寂の中に戻ろうとすることを忘れてしまうのです。

どんなイメージも浮かんで来なくなるまで、とにかく静かにしていることで、自分は何も知らないし、何も所有してもいないと分かるはず。

瞑想という言葉を聞くと、どうしても構えてしまって自分には難しくてできないと思ってしまうかもしれません。

だから瞑想という言葉を使わないで、ただ数分間身体の動きを止めつつ、静寂に耳を澄ますような感じでいることです。

そしてこの世界の全てがどれほどの奇跡なのか、自分がどれほど計り知れない神秘の中にいるのかを味わうことです。

全ての言葉が用無しになったと気がついたら、もうあなたは真理の何たるかを体感したことになるのでしょうね。