期待が元凶

金メダルを目指して日々努力しているアスリートが、金メダルを摂って欲しいと周囲から期待されるのは当然ですね。

そしてその期待はプレッシャーになるかもしれませんが、選手もそれを力に変えて頑張ることができたりします。

それは、本人自身の期待値と他人からやってくる期待が同じところに向いているからなのです。

もしも自分の期待値と周りからの期待値が異なるものであったなら、それはなかなか厳しいことになるのです。

その時初めて、期待というのは決して愛ではないと悟ることになるのです。期待というのは期待する側のエゴに過ぎません。

子供の頃に親から勝手な期待をされて、さらにその期待値が子供本人の気持ちを全く無視しているようなものだとすると、子供は深く傷つくことになってしまうはずです。

そしてその子供は無意識的にその期待を裏切るように結果を作り出すのです。それはある種の仕返しのようなものです。

そこには愛が入る余地がないと直感してしまうため、子供はその期待を裏切り続けることで、自分の本心を知って欲しいと思うわけです。

親に見当外れな期待をされた子供は、無意識的に自分への高い期待値を作り出してしまいます。

そうしておいて、その期待を裏切ることを繰り返して、その結果自己嫌悪、自己否定を感じることになり、きっと辛い人生を生きることになるでしょうね。

もしもあなたが幸せに生きることを目指すなら、自分にまつわるあらゆる期待をより小さなものへと変えていくことです。

その結果、パートナーや子供に対する期待も少しずつしないようになっていけるはずです。そうなれば、心穏やかな日々を過ごすことができるのですね。

正しさよりも意識的であれ

結局のところ、究極的には自己想起、自己留意を忘れずにいられるようにすることしかないのです。つまりは、自分を覚えておく、意識的であり続けるということ。

それ以外の方法、これはもっとこうした方がいいとか、もっとこうあるべきだと言ったことは、全部本質的なことではないのです。

たとえば、嫉妬深くて困っている人に、嫉妬してしまう理由をよく見るようにして、その原動力となっている感情を感じてあげましょうという場合があります。

あらゆる感情を抑圧する癖がついていて、それでは生きてる限りロボットのような人生になってしまうので、やってきた感情はできるだけ味わって下さいということもあります。

そんなふうにして、これまではこうだったけど、これからはこのようにしていく努力をしましょうという教えがありますね。

けれども、どれをとっても自我の癒しの方法なのです。それはそれで意味があるのですが、そのように一つひとつの言動を修正するよりも、決定打があるのです。

それは、何をしてもいいし、何をしなくてもいい。どんな戒律も、どんなルールも必要ないのです。

泥棒をしたければ、十分な自己留意のもとでやるということ。無意識の中でどれほど行動修正したところで、所詮は目覚めることはできません。

行動修正、自己改善を諦めて、その代わりに意識的であることを常に練習すること。遠回りのように見えて、実はこれが最も優れた方法なのです。

自分のことを覚えておく

私たちは、とにかく物語が大好きなのです。何が起きても、それを物語の一部として捉えてしまうので、物語が止むことはありません。

そしてその物語の中に没入してしまうと、そこから出てくることを忘れてしまうのです。

朝起きて歯を磨いている時、朝食をいただいている時、電車に乗っている時、職場で仕事をしている時、テレビや映画を観ている時。

誰かと楽しくおしゃべりをしている時、お風呂に入っている時、嬉しいことが起きた時、悲しいことが起きた時。

こうした全てを物語の中へと組み込む習慣があるのです。その上で、物語の中にいる自分を見ることを忘れてしまうのです。

自分のことを覚えておこうとする、ちょっとした努力を続けることです。それが意識的であるということでもあるのです。

そして自分を意識している間は、物語から少しは離れていることができるのです。その瞬間、物語など存在しないと気づくはずです。

巧妙な自我は、なんと意識的であろうとすることも人生という物語の一部だと思い込むのですが、それでも構いません。

自分のことを覚えておこうとする物語があり、その過程で物語から抜け出すことができるという物語ですね。

けれどもその結果は、本当に物語を見ている側になれるのですから。自我はこれも物語として見るのですが、真実はそこには物語などないのですね。

家族を特別視しない

セラピストになってからというもの、「家族」というものに対する認識が根本から変化してしまったのです。

それまでは、家族というのは大切なかけがえのない存在であり、自分を成長させてくれた土台のようなものだと好意的に思っていたのです。

父親がいて母親がいて、兄弟姉妹もいて、場合によって祖父母や叔父叔母も一緒に暮らしている場合もあるかもしれません。

誰もが同じ血を分けた切っても切れない絆で繋がった本物の仲間のようなもの。死んだら同じ墓の中に仲良く入るのが当たり前。

簡単に言えば、家族とは自分にとって特別な存在なのです。ところが、セラピーを繰り返していくうちに、どうも家族が元凶だと感じるケースが多過ぎることに気づいたのです。

家族の一人ひとりが悪者という意味ではなく、病んだ家族に囲まれて逃げることができない子供は、どうしたって病んでしまうということです。

家族というものが、もっと緩い結びつきであれば、子供が家族に縛られてしまうことも減るのかなと思ったり。

大人になってからでも決して遅くはありません。家族という存在を特別視するのをやめることです。

そうすれば、ただ一緒に居たい人だから一緒にいる。一緒に居たくないから一緒に居ないというように、シンプルな関係の中で生きていけるようになるはずですね。

現実と夢の違い

目覚めている間に色々なことが起きるのですが、それを現実と呼びます。そしてその対極にあるのが寝ている間にみる夢です。

夢はある意味空想のようなものですが、その中にいる間はそれを夢だと気づくことはありません。まれに夢だと自覚した瞬間に夢から覚めてしまった経験はあります。

どれほど楽しい夢であろうと、反対に辛い夢でも目覚めてしまえば、その瞬間に夢は跡形もなく消えてしまいます。

そこが現実と夢の違いだと私たちは思っています。現実は本当に起きたことであり、それは次の朝目覚めても消えたりしないからです。

けれども、ロングレンジで見てみたらどうでしょうか?生まれて、生きて、死ぬというサイクルで考えるのです。

この現実は確かに生きている間は存続しますが、死んだ瞬間に消えてなくなります。あれ、夢と何が違うんでしょう?

夢の中でこれは夢だと気づけないのと同じように、現実の中でもこれは夢だとは思えないのです。ならば、夢と現実の違いはどこにあるのでしょうか?

現実は夢だと断定する必要はないですが、私の場合、現実は夢のようなものだという感覚が拭えないのです。ずっと以前から。

もしも腹の底からこの現実は夢と同じモノで出来ていると理解したら、その瞬間きっとこの現実という夢から目覚めることになるのでしょうね。

事実よりも心象(イメージ)

皆さんは「心象風景」という言葉をご存知でしょうか?ウィキペディアによると、『現実ではなく心の中に思い描いたり、浮かんだり、刻み込まれている風景。現実にはありえない風景であることもある。』とあります。

実は催眠療法のセッションの中では、そういった心象風景が見えてくる場合が時としてあるのです。

たとえば、幼い頃に家族と一緒に過ごしているはずなのに、どういうわけか家族の姿が見えなかったりすることがあります。

そんな心の中で勝手に作り上げてしまった場面を思い出したところで、何の意味があるのだろうと疑問に思うはずです。

けれども、それはそれで非常に大切な何かを表しているのです。上記の例で言えば、もしかしたら家族と一緒にいても本人はとても孤独の中にいたのかもしれません。

孤独であるという感覚は家族の中にいて独りぼっちだということなので、家族の姿が見えてこないということが起きたわけです。

このようにして、過去の事実だけが大切なのではなく、たとえイメージであったとしても、それには大切な意味が込められているのです。

思い出すことが事実と一致して正しいかどうかを気にするのではなく、なぜそのように思い出したのかを検証することが、とても重要なのですね。

嫌いから敵への変化に気づく

私たちはそれぞれに自分の好みというものを持っていますね。あれは好きだけど、あれは好みじゃないなという具合に。

他人に対しても、好きだなと感じる人もいれば、ちょっと苦手だなとか、もしかしたら嫌いな範疇かもしれないと感じる人もいます。

こうしたことは覚醒でもしない限りは、ごく普通の感覚だと思います。みんなの好みが一致してしまったら、とても生きづらい人生になってしまうはずです。

ところで、嫌いな人がいたとしてもあまり関わらないようにすればいいのですが、その人を敵対視し始めると面倒なことになってくるのです。

一度「敵」としてレッテルを貼ってしまうと、私たちはその人をロックオンしてしまい、嫌いな奴だと思いながらも無関心ではいられなくなるのです。

逆にその敵を何とかして落とし入れようとしてみたり、戦って負かそうとしてみたり、結局その人に多大なエネルギーを注ぐことになるのです。

敵というのは戦う相手なので、そうなっても当然なわけですね。そして悪いことに相手を負かすと快感を感じたりするので、やめられなくなるのです。

たんに好きじゃないという状態から「敵」というレッテルを貼るようになるまでには、それ相当な被害を被ったはずなのです。

繰り返し嫌なことをされてそれを我慢していたりすると、相手の中に悪意があるように感じるようにもなるのです。そうなったら、もう敵対視するはず。

そのようにして敵対視するクセが定着してしまうと、ちょっと嫌いと思っただけで敵のレッテル貼りをするようにもなるでしょうね。

そうやって人生の中で敵がウヨウヨいるようになってしまうのです。そうなったら、いつも嫌な思いばかりさせられる人生がやってきます。

それがいわゆる戦いの人生ですね。好き嫌いは問題ないのです。敵味方という決めつけをしないように注意深く生きることです。

敵がいなくなったら、文字通り無敵の人生が待っています。

あるがままの自分に出会う

昨日のブログで、ハートとマインドの違いについて、そしてできればハート優位の状態になれると良いということを書きました。

だからといって、マインドが悪いものだということではありません。マインドはこの社会で生きるためには絶対に必要不可欠のものです。

マインドがなければ、みんなと楽しく会話をしたり、娯楽を楽しむこともできなくなってしまいます。

最大の問題は、自我との同化なのです。自我という「私」を自己と同一化してしまったことで、マインドによる自己防衛が必須になったのです。

そうなると、マインドの思考群によって煙幕が張られたようになってしまい、ハートによる感覚、感性が隠されてしまうのです。

あるがままの自分というのは一体どんなものなの?と分からなくなってしまうのには、そうした理由があったのですね。

場合によっては、マインドの働きによってハートが歪められてしまうこともあります。嫌いなのに好きと感じたり、ノーと言いたいのに、イエスと言って我慢してることにも気づかない。

マインド側にとって、ハートからの訴えが都合の悪いことがあったとしても、勇気を持ってハートを認めることです。

そうした練習を繰り返すことで、ようやくあるがままの自分の姿というものにまた出会うことができるのですね。