「疑い」には二種類あると思っています。一つ目は、子供が純粋に持つ問いかけるものであり、ここには否定が含まれません。
そしてもう一つは、最初から否定的なニュアンスを含んだ疑いです。違うんじゃないの?とか、嘘じゃないの?と言ったような疑問です。
前者の方はとても大切なものであり、それは自然なものでもあるのですが、後者の疑問に対してはその取り扱い次第で、結果に大きな違いが出てきます。
後者の疑いに対しては、飲み込まれてしまえばそれまでですが、それと戦わないこと、それから逃げようとしないこと。単にそれに対して無関心であればいいのです。
かつて私の内側が理由のない感謝で満たされたときに、耳元でさまざまな否定的な疑いの言葉が囁かれるのを聞きました。
偽善者だとか、感謝で満たされているふりなどするなとか、くだらない等々、とにかくそう言ったニュアンスの言葉がやってきていたのです。
その時にその言葉に対してずっと無関心を通したのを覚えています。もしも、その言葉に注目してしまったら、それに食糧を供することになってしまうのです。
逆に無関心であり続けることができれば、それへの協力は崩れることになるのです。そしていずれは静かになってしまうはずです。
自分がこれだと思ったものがやってきたなら、それに対してできる限りの信頼を寄せることであり、疑うマインドには無関心を貫いていればいいのですね。