子供の頃というのは、なぜ?やどうして?をたくさん持っているものですね。その答えは親も知らないということを思い知らされます。
そうしてそのうちには問うことを諦めるのです。私自身もそうだったと思うのですが、どんな疑問にも答えてくれる存在として、神がいるのだと思ったりしていました。
本当は、人間が神の存在を意識するのは死があるからなのですね。死の恐怖をなんとかしてほしくて神に頼ろうとするのです。
話しを元に戻して、全能の神という表現をするくらいなので、どんな質問にも答えてもらえると思っていたのかもしれません。
けれども、それは間違いだったと気づいたのです。なぜ?というのは、思考によって作り出されるものなので、真理とは無関係だと気づいたのです。
真理に対してなぜ?は無意味だということです。このことに対する深い理解というのは、とても大切なのではないかと。
自我は問題を解決すること、分からないことを分かるようにすることで安心しようとするものなのです。
けれども、自我に真理を理解することは不可能です。なぜなら、自我の理解は思考の世界のことだからですね。
なぜ?を解決することで安心することをやめて、ただ在るがままを受け入れることで本当の深い安堵がやってくるのですね。