所有と非所有のどちらでもない

自我というのは、所有することによって安心を得ようとする性質を持っています。そこに気づいていますか?

持っていないことが不安であり、持っていることで安心できると信じ込んでいるのです。その安心も一過性のものに過ぎないのですけれど。

いつかこのブログで書いたことがあったと思うのですが、小学生の頃に牛乳瓶の蓋でおはじきみたいなことをして、勝ったら相手の蓋を自分のものにするというゲームが流行ったのです。

思えば、物凄い数の蓋をみんなが持っていて、その枚数を互いに競っていたのです。自分は結構上位の方だったと思います。

それが行き着くところまで行った時に、突然ああもうこういうの嫌だなというのがやってきて、自分の所有する蓋を全部友達にあげてしまったのです。

そして、自分は一枚だけ持っていれば、それで勝負はできるし、万一負けてそれを取られてしまったとしても、その時は借りればいいのだと。

そうなった時の清々しさは忘れることができません。こんなに身が軽いという気持ち、守るべき財産がないという快適さ。

けれども、今思うと所有するという欲望と、それへの反発である非所有という自由さのどちらでもないということが大切なのだと気づいたのです。

所有することになったのならそれはそれでいいし、所有しないことになったのなら、またそれはそれでいいという中立の感覚。

これこそが不二一元論、つまりは中道を生きるということなのですね。