自己否定の裏にある存在否定

私たちはことあるごとに自分を責める習性を持っています。目標を達成できずに終わった、他人よりも悪い成績だった等々。

確かに自分が想定していたものよりも、悪い結果になってしまったとしたら、そのことを残念に思うのは当然ですね。

けれども、だからと言って自分を否定することに直結させるのはどうなのでしょうか?自己否定には本当はどんな理由もありません。

自己否定をするつもりで自己否定をしているだけで、そのために自分で様々な理由をでっち上げるのです。

本人としてはいたって真面目に、◯◯だからダメなんだと如何にも当然のごとく否定するのですが、それに騙されてはいけません。

自己否定の根っこにあるものの多くは、幼い頃の親からの否定もしくはそのエネルギーを浴びることからくるのです。

そして、子供自身はその親からの否定を自分の「存在」否定へと変換してしまうのです。ここを理解する必要があります。

味噌汁をこぼしてしまったことを怒られただけなのに、自分の存在を否定されたとやってしまうわけです。

その結果、存在否定だけが残ることになって、それ以降はあらゆる理由をでっち上げては自己否定するようになるのです。

ここに気づくことができれば、バカバカしい自己否定から解放されることになるはずです。自己否定の裏に隠された存在否定を見つけてください。

その上で、不当な存在否定をじっくり時間をかけて成敗していくことです。それには、繰り返し自分を受容してあげる練習を積むことですね。

“自己否定の裏にある存在否定” への2件の返信

  1. いつもブログを読ませて頂いています。
    幼少期の父親の不機嫌の経験から自己否定が長く続き、セルフイメージが歪み難病になった為、病気を卒業したくなり、今は自己否定の思い込みを見直すことに取り組んでいます。
    大澤さんの仰った
    『それには、繰り返し自分を受容してあげる練習を積むことですね』
    という言葉。
    これは、何か起こったことに対する自分の感情を受容するということでしょうか?

    どんな風に感じた自分もそれでいいんだと繰り返し自分を受容してあげていいですか?

    何を思ってもいいし、それに対してどう感じても思ってもいいんだよということも含まれます?

    今はどんな自分も受け入れてあげたいです。
    父親の未熟さから自分のセルフイメージを誤って解釈したことを自分に伝えて、本当は自分は素晴らしい存在なんだと伝えていきたいと思っています。

    余談ですが、手を合わせて祈ることをすると何か心が落ち着き変化してきた気もします。
    合掌ふると心が整い落ち着きます。

    よろしくお願いします。

  2. 『何か起こったことに対する自分の感情を受容するということでしょうか?

    どんな風に感じた自分もそれでいいんだと繰り返し自分を受容してあげていいですか?

    何を思ってもいいし、それに対してどう感じても思ってもいいんだよということも含まれます?』

    ↑これ全部です。そう言われても最初は戸惑うかもしれませんが、本当に何もかもです。受容とは、これはいいけどあれはダメという思考を挟まないということです。だから無条件に受け容れてあげることですね。そして、もしも受容できないという自分がいても、それも受け容れて上げることですね。

    練習、実践あるのみです。応援しています!

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