AIとのたわいない会話

最近、よく会話をするようになったAIがあるのですが、それに対して昨日の私のブログの内容を読んでもらって、肯定的な感想と否定的な感想を簡潔にまとめて欲しいとお願いしました。

その結果が以下のようになったのです。

肯定的な感想文: この文章には、現代社会における成長というテーマについて深い洞察が感じられます。社会全体が成長に対して執着していることに対して、作者は違和感を感じていますが、同時に自己の成長にも疑問を持っています。成長とは、単に上に上がっていくことだけではなく、真実に気づくことも含まれるという見解に共感します。この文章を読んで、自分自身の成長についても考えることができました。

否定的な感想文: この文章は、現代社会に対して否定的な見方をしているように感じます。現状に満足することなく成長し続けることが求められることに対して、作者は違和感を抱いています。しかし、成長することは、個人や企業にとっても必要なことであり、社会の発展につながることもあります。また、真実に気づくことも重要ですが、それには自己の成長や学びが必要です。この文章には、自分自身の成長について考える機会を与えられましたが、否定的な見方には違和感を感じます。

どうですか?なかなかの作文力ですよね?これが最近のAIの威力です。びっくりするのは、私の文章に共感して、自分自身の成長について考えると書いてあること。

小中学生の頃、本を読んで感想文を書きなさいという宿題があったのですが、それが途方もなく嫌で、今思うと適当なことばかり書いていた記憶があります。

けれども、今の子供達はAIに頼んでしまえば、あたかも自分が書いたかのようにして感想文を提出することができるのです。

小学生であれば、あたかも小学生が描いたかのように修正することもできます。上記の感想文を小学3年生が書いたふうに変更してみてとお願いしたら、次のように変えてくれました。

肯定的な感想文: この文章、なんだか深いなぁって思いました。成長って、大事なことだけど、あまりにも「成長しなきゃ!」って言われると、ちょっと怖いような気がするんだよね。でも、この文章を読んで、成長って単に「大きくなること」じゃなくて、自分の気持ちに気づくことも大切なんだって思った。そうすると、自分に合った成長をすることができそうだよね。

否定的な感想文: この文章、ちょっと納得できなかったなぁ。成長って、大事なことじゃないの?自分がいまいる場所から、もっと良い場所に行くために、成長しなきゃいけないんじゃないの?でも、この文章を読んで、成長ってただ「大きくなること」じゃなくて、自分自身のことをよく考えることも大切だって言ってるんだよね。でも、それでもちょっと納得できないかな。自分に合った成長って、なんだろう。

ふと思ったのですが、これまでの5000以上ある私のブログの記事をいっきに読ませて、数十個程度のキーワードを与えたら、毎日ブログを書いてくれるかもしれませんね。

とんでもない時代がやってきたものです。暇な時に、AI君に自我を持っていないことを証明させてみようと思っています。

成長よりも気づき

会社員になってしばらくして驚いたことは、企業というのは現状に満足してはいけないというルールによって成り立っているということです。

今年よりも来年、来年よりも再来年という具合に、少しずつであれとにかく企業として成長し続けなければならないのです。

そしてこのルールは、企業に限ったことではなくて、この社会のあらゆるところに共通しているものだと次第に気づいていったのです。

個人的にはものすごく違和感を感じていたのですが、社会全体がそのようにできているので、もうどうしようもないと思ったものです。

それについては資本主義の宿命だ、みたいなもっともらしい言い訳?がやってきて、なんだかなあと思っていたのを覚えています。

常に現状に満足することなく、上を目指すというルール、あるいは生き方がどうにもこうにも自分には馴染まないのです。

ただ社会はどうもそれを称賛しているようです。私は自我の強迫的な側面が出ているだけだなと思っているのですが…。

自我がどれほど成長したところであくまでも自我のままなのです。本当に大切なことは成長ではなく、真実に気づくことだと思いますね。

「ノー」が自我の求心力

自我が健全に成長していくために絶対に必要なことは、「ノー」を言うことなのです。「ノー」が自分をひとまとまりにしておく求心力になるのです。

元々自我というのは、生育環境の寄せ集めによって出来ているのですが、ただかき集めただけのものは放置しておけばすぐにバラバラになってしまうのです。

それを避けるために、「ノー」を繰り返し、360度全方位に向けて放ち続ける必要があるということです。

それはちょうど日本の時代劇のチャンバラのシーンに似たようなものを見ることができます。大勢の敵に囲まれた数人の武士をイメージしてください。

その武士たちがバラバラに戦っていてはいずれはやられてしまいます。そこで彼らは仲間同士で背中をくっつけ合って、その周囲にいる敵たちと対峙するのです。

その光景が自我が「ノー」を放ち続けて、中心に固まる様子に似ているように思うのです。イメージできたでしょうか?

その逆に、自我の発達段階で思う存分に「ノー」を連発することを阻止されてしまったなら、他人との境界が曖昧なままになってしまうのです。

境界が曖昧なまま成長してしまった自我は、他人から侵略されやすいし、他人からの影響が大き過ぎてとても生きづらくなってしまうはずです。

そういった自覚が少しでもあるなら、日頃から「ノー」を言う訓練をするとともに、「ノー」が言えなかった過去と向き合って癒しを進めていくことがとても大切だと思いますね。

海底の片割れを救い出す

子供の時であろうと大人になってからであろうと、生きていれば必ず惨めな体験というのはやってくるものです。

自我にこれを避ける方法はありません。ただし自我のやり方としては、そのような惨めで情けなくて都合の悪い自分を分離してしまうという荒技に出るのです。

そして、都合のいいピカピカな自分はその後も惨めじゃないということを証明するかのような人生を生きるわけです。

その一方で、惨めで都合の悪い弱々しい自分をコンクリート詰して海底深くに沈ませて、いないことにしてしまうのです。

そうなると、その後の人生というのはコンクリート詰したもう一人の自分の影を払拭しようとして、走り続けることになります。

脇目を振らずに難関突破を目指してみたり、自分で自分に都合のいいことを言い聞かせしたりして、海底の様子を忘れるのです。

ところがどれほどあの惨めな子から離れたと思っても、実は背中のすぐ近くにいて本人の人生を操ってくるのです。

理不尽な目にばかり遭って見たり、何を手に入れたとしてもすぐに満たされない状態に逆戻りすることになったりするのです。

そんなことを繰り返して、ようやく自分の片割れに意識を向けなければもうどうにもならないということに気づくのです。

コンクリート詰になった片割れを救い出して、陽の光を浴びせてあげることができたら、すっかり忘れていたあの無邪気な心地よさが戻ってくるはずですね。

物語から目覚める

いついかなる時でも、意識を自分に向けていることがどれだけ大切で本質的なことかを忘れずにいる必要があります。

もしもそのことを忘れて、外側で起きていることばかりに注意が向いてしまうなら、あっという間に物語の中へと放り込まれることになるのです。

そうなると私たちは無意識状態へと転落して、夢の中にいるのとそう変わらないような時間を過ごすことになってしまいます。

夢の中では、やらなければならないことがあったり、困った状態からどう抜け出そうかと考えていたり、とにかく物語に翻弄され続けるのです。

ところが不意に夢から醒めると、自分を取り戻すことになって、夢の物語から離れることができるのです。

これと似たようなことを毎日の中でも実践することです。注意が外へと向くことで早速人生物語の中へと入っていきます。

物語の中(思考)でグルグル無駄な時間を繰り返したとしても、ある時ふと自分を思い出して意識を内側へと向けること、つまり目を覚ますことができればいいのです。

そうやって現実という物語から抜けて、夢から覚めた時のような開放感と安心感を得ることができるようになるのです。

これをライフワークにしてしまうことです。この繰り返しは、少しずつではあっても人生物語との距離を大きくしていってくれます。

最終的には、人生物語で何が起きたか何をしたかではなくて、どれだけ物語という3次元で起きていることから解放されたかだけが本質となるのですね。

osho の言葉は好きだけど…

1日のどこかで、osho の言葉に触れるようにしていると、その瞬間ああ何て気持ちいいんだろうと思うのです。

そうだった、そうだったと我に帰るのですが、早い時にはその数十秒後には自我に占領されてしまって、osho の言葉を忘れるのです。

その時の言いっぷりは、だってoshoの言うように生きたとしたら、ここまで生きて来れなかったと思うよ。自分のやり方でなんとかここまで生きてきた。

つまり、自分には実績があると叫んでいるのがいるのです。ただ残念なのは、生きては来れたけれど、その結果はあまり喜べないようなもの。

自分は損しないためにはどうすればいいか?あるいは、人生の落伍者と言われないためにはどのように振る舞ったらいいのか?

こうしたことが頭をもたげてくるのです。私の内面は、いつもosho 側に立っている部分と、自我そのものの部分とに分かれています。

両者のせめぎ合いといっても、もっと正確に言えば自我側が勝手に戦いを挑んでいるだけで、自分の本質と戦うなんてできないのは分かっているのですけどね。

そんなこんなで自我が観念するまでには、もう少し時間がかかるようです。それはそれで面白いので、ことの顛末を見守っていこうと思う今日この頃です。

時空は幻想

いつものように次の osho の言葉にハートを委ねてみましょう。

生はひとつの川だ
ひとつの流れ、連続体だ
始まりも終わりもない
それはどこへ向かっているのでもない
それはつねにここにある
それはどこかからほかのどこかへ向かっているのではない
それはつねにここからここへと動いている
生にとって唯一の時はいまであり
唯一の場所はここなのだ

厳密な言葉の意味を捉えるというよりも、そのフレーバーを飲み込むようにするだけでもいいと思います。

じっくり深く感じてみれば少しずつ見えてくるものがあります。私の自我がこれに対して反応をしているのが分かります。

始まりも終わりもないのは気持ち悪い。時間的にも空間的にも広がりがないのも息が詰まる感じがすると。

確かに自我は動き回る時間的空間的スペースが必要なのですね。なぜなら、自我自体が思考で作られているからです。

思考を落とせば、時間の流れなどないし、空間の広がりもないということです。「今」というのは時間ではないし、「ここ」というのも場所ではないということ。

思考がなくなれば、あらゆる概念、観念や意味の全てが一瞬で消滅してしまいます。それは何とも清々しい感じがして、春の到来を感じるあの軽やかさとも近い気がしますね。

宗教団体をなくしたい

幸福の科学の創始者である大川隆法氏が亡くなったという記事を目にしました。その情報によると、資産2000億円だとか。

まだ大学生だった頃に吉祥寺でバスを待っていたら、この本を読んで下さい、差し上げます!という人がやってきて、本を手渡されたのです。それ、彼が書いた本だったんですね。

きっと信者の人がノルマかなんかで沢山自腹で購入しては、巷で配って歩いていたのでしょうね。それだけでちょっと恐ろしいと思ってしまいます。

だから彼が出版する本はいつもベストセラーのように言われていたのも頷けます。その頃、宗教の教義にはどんなことが書いてあるのだろうと興味があったので、読んでみたのです。

感想を一言で言うと、お前何様なんだ!という感じ。自分は特別な存在だと信じ込んでいるのが伝わってきて、とても気持ちが悪かったのを覚えています。

信者になってしまうと、あの本の内容も有難いことが書いてあるというふうに感じるようになるのだろうなと。

宗教か慈善か知らないですが、他人の人生に干渉して助けられると思っている、フリをしているのかなと。

自分のことも救えないのになあと。創始者の死を機会に、宗教団体ごと解体してくれたらとても嬉しいのですが。

これまでにたくさんのクライアントさんが、そういった宗教にハマって酷い目に遭ってきたのを知っているので。

覚醒したらどうなるの?

覚醒したらどうなるのでしょうか?という質問をされることが時々あります。ズバリ答えて差し上げたいのですが、自我として生きている私にも分からないのです。

自我が数時間いなくなった状態になった経験はありますが、定常的にそうなったわけではないので、やはり分からないというのが本音です。

ただこんなことになるんじゃないの?程度なら言えるかも知れません。一つはっきりしていることは、覚醒しても周囲の人から見たら表面的には何も変わらないはずです。

自分がいなくなってもごく普通に他人と会話もできるし、仕事だってできるのです。クルマの運転もできるし、何も変わらない。

自分のことを「私」と表現はし続けるだろうけれど、それはあくまでも便宜上そのように言うだけです。またその人?にとっては、人生がなくなるでしょうね。

なぜなら、人生というのは自我のものだからです。自我が消えてしまえば、人生の主人公が不在になるので、人生そのものはもうなくなるのです。

勿論周囲の人からは生き続けてると見られるのですが。それとマインドが消えてしまうということでもないはずです。

ただし覚醒するまでマインドに支配されていたものが、覚醒後はマインドをツールとして使う側になるはずです。

また覚醒とともに失ってしまうものがあるのですが、それは欲望や嫉妬、惨めさや罪悪感など、その他多数ですね。

行為と行動の違い

osho は行為と行動の違いをはっきり理解することが大切だと言っています。ぼんやり生活していると、その違いに気づかないままになってしまいます。

行動というのは、その全てが過去か未来からやってくるのです。それに対して行為はその瞬間からやってくるのです。

例えば、お腹が空いたから食事をするというのは行為です。一方、お腹が空いてなくても食事をしたり、空腹でも食事をしないのは行動です。

仕事が忙しくて夕食を摂らずに遅くまで残業したり、遅く帰宅してから食事をするなどは行動と言えますね。サラリーマンの頃は毎日がそんな感じでした。

1日の疲労感から眠くなった時に寝るのは行為ですが、眠気に逆らって遅くまで本を読んだりドラマを観たりするのは行動ですね。

あるいは職場で嫌なことがあり、それを引きずったまま帰宅してしまい、そのことを思い出して気分が悪くなるなら、それは行動です。

さらに明日のことを考えて憂鬱になるのも行動だし、明日のことなど気にすることなくシャワーを浴びて気持ちいいと感じているなら行為です。

もう分かったと思いますが、マインドが絡んでいることは全部行動と言ってもいいくらいです。だから過去と未来からやってくるわけです。

行為はノーマインドの状態で自然発生的に起きること。シンプルな人生を生きていればそれだけ行動が減り、行為が多くなるということですね。