真実は見つけられない

真面目な修行僧は、一生をかけて真実を探求するのです。究極の存在である神を探求するといってもいいかもしれません。

それがどれほどバカバカしいことかというと、海を探求する魚のようなものだからです。魚にとっては、あまりにも全てが海に囲まれ過ぎているので、海を探すことができないのです。

どこに海があるのだろうという発想では、決して見つからないのは明らかですね。それと同じように、真実はあまりにもあらゆる物過ぎるので見つからないのです。

神をどこかに探そうとすれば、それが対象物としての様相を呈してくるので、それがどれほどお門違いのことなのかが分からないのです。

真実、神を外側のどこかに見出そうとしても無駄な努力です。私たちの内側にこそそれは隠れているのです。

本当は隠れてもいません。自分自身の本質なのですから。全てであるということは、どこかに見つけることはできないという単純な理屈です。

それは見つけるものではなく、ただ単に気づくことができるだけ。目を閉じてしばらく静かに内側へと入っていけば、フワッと広がる感覚がやってくるはず。

その全体性こそが、神であり真実であり、私たちの本質であるということですね。こんな感覚は、自我が活性化していると邪魔されて分からなくなってしまうものですね。

なので、自我がちょっとお休みしているわずかな間がチャンスです。そのスキを使って、自分の広がりを体感できるといいですね。