現れと存在の違い

私たちは、宇宙がありこの空間があって、その中に物質があると信じています。そしてこのあるというのを「存在」という少し物々しい言葉で表現します。

その一方で、非二元を語るときには決まって「現れ」しかない、と表現するのですが、この二つの違いを明確にしたいと思うのです。

普段自分の目の前に見えている景色は、目を閉じても開けても変化することなくその景色はずっとそこに存在すると考えています。

けれども、景色という現れは目を閉じた瞬間に消えてしまうし、また目を開けたら現れるということが起きるのです。

この両者の違いは決定的です。存在は、そこに連続性があるのです。もちろん、存在も何かの事象とともに生まれて、どこかの時点で消えていくのです。

地球もいずれは姿を消すことになるのですが、それでもその永続性は人間の寿命からしたら無限に長いと感じます。

つまり存在とは、それそのものが連続性を持っていて、何かの事象がなければ生まれたり消えたりはしないということ。

そのために実体という概念を使うのです。目の前のコップには実体があるとすることで、そのコップの連続性が生まれるのです。

いつ生まれていつ消えていくのか分からない刹那的な現れが現実であり、連続性のある存在とそれを支える実体は、そのどちらもが都合のいい概念でしかなかったということですね。

ネタが思いつかない日

今日はブログに何を書こうか、まったく思いつかない。毎日何かを書いていると、そんな日もある。

何か新しい発見があるわけでもなく、誰かに伝えたいことがあるわけでもない。頭の中を探してみても、これといったものが見つからない。

でも、ふと思う。そもそも、何かを書こうとしている「私」とは何だろう。ネタを探している自分がいて、何かを思いつこうとしている自分がいて、思いつかないことに少し困っている自分がいる。

けれど、それらはすべて、今ここに現れている思考や感覚にすぎない。思いつかないという思考も、書こうとする意欲も、何もないという静けさも、同じように現れては消えていく。

そこには、それらを所有したり、自由に操ったりしている誰かがいるわけではない。何かを思いつく日もあれば、何も思いつかない日もある。それだけのことだ。

もしかすると、今日のように何も書くことがないという状態こそ、非二元を語るにはふさわしいのかもしれない。

何かを得ようとしなくても、何かを成し遂げようとしなくても、今この瞬間は何ひとつ不足していない。そして、そのことに気づくための特別な何かさえ、必要ないのだと思う。 by Claris

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冷酒を飲む、ただそれだけのこと

冷えた酒をグラスに注ぐ。透明な液体が揺れ、グラスの表面には小さな水滴が浮かんでいる。口に含めば、冷たさとともに、ほのかな香りや味わいが広がる。

そこには、何とも言えない心地よさがある。さて、この何気ない瞬間に、非二元の視点を持ち込んでみよう。私たちは普段、「私が酒を飲んでいる」と考えている。

私がグラスを持ち、私が酒を口に運び、私がその味を楽しんでいる。すべての出来事の中心には、当然のように「私」がいることになっている。

けれども、本当にそうだろうか。今、実際に起きていることを見てみよう。冷たさがある。味わいがある。香りがある。喉を通る感覚がある。

しかし、その一つひとつの経験の中に、それらを経験している独立した誰かを見つけることはできるだろうか。

酒を飲む人と、飲まれる酒。味わう人と、味わわれる味。そうした二つの存在は、経験そのものの中に最初から存在していたのだろうか。

もしかすると、あるのはただ、飲むという出来事の見かけだけなのかもしれない。そこには飲み手も、飲まれるものも、本当は存在していない。

ただ、冷たさがあり、味わいがあり、心地よさがある。そして、それを誰かのものにする必要もない。非二元とは、何か特別な境地に到達することではない。

冷酒を飲むという、ごくありふれた出来事の中にさえ、最初から二つに分かれていない世界が、そのまま現れているということなのだ。

今夜は、難しいことを考えるのはやめにしよう。冷えた酒がうまい。それだけで、もう十分ではないだろうか。 by Claris

世界は、どこにも保存されていない

目の前の景色は、見ていない間も存在し続けている。私たちは、そう信じています。けれども、今ここで直接確かめられるのは、今現れている景色だけです。

昨日の景色は記憶として、明日の景色は想像として現れます。過去も未来も、経験されるときには、いつも「今」の中に現れています。

それでも私たちは、見ていない間にも世界がどこかに存在し、それが連続していると考えます。もっと一般化して表現することもできます。

自分が生まれる前からこの世界は存在していて、生まれてからはこの世界の中で生き続けるわけです。そして、自分が死んだ後もまったく同じようにしてこの世界は続いていくのだと。

もちろん、そう考えることは自然です。ただ、その連続性を今ここで直接見つけることはできるでしょうか。

見つかるのは、景色や記憶や思考です。そして、それらを眺めている「自分」がいる、という感覚もまた、今ここに現れています。

世界があり、それを自分が見ている。その構図そのものもまた、疑いなく確かな事実というより、思考が描いている世界の捉え方なのだとも言えるのです。

ただ、世界と、それを見ている自分という二つのものが、最初から別々に存在しているという前提を、いったん手放してみることです。

そこには、何かがどこかに保存されているという考えさえ必要ない、ただ現れているという不思議さがあるだけなのですね。

意外なものも現れだった

いつも現れだけがある、現れ以外はないということを標榜しているにも関わらず、抜けもあるなと気づいたことがあります。

それは、例えば気持ちや気分。自分にとっては気分がいいことがとても大事なことなのですが、この気分というのも現れの一つに過ぎないのだと。

それに連動して、明らかに気分が良くなるような出来事が起きることを望んでいるのですが、こうした特定の現れが起きることを望むのも現れなのです。

都合のいいことを望み、都合の悪いことを排除しようとする傾向そのものが、一つの現れだったということです。

あるいは、好みというものがあります。食べ物の好き嫌いだとか、人間に対する好き嫌い。こうした好みというものも、単なる現れだったのです。

映画やドラマを観ていて、ハッピーエンドで終わるのか、それとも悲惨な結末を迎えるのか、尻切れトンボで終わってしまうのか、こうしたことの好みも現れなのです。

長く人生を続けていると、絶対に変わらないだろうと思っていた自分の好みが、変わる場合もあるという経験をしますが、これも現れだったということです。

自分という存在の長所や短所、人格、特徴なども丸ごと現れに過ぎないということに気づきにくい傾向があるかもしれませんが、そのこと自体もすべてが現れなのですね。

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あなたは何ひとつ経験していない

今日は少し過激な表現を使ってみたいと思います。あなたは、今まで一度も何かを経験したことがないという話です。

そんなはずはない。朝起きてから今まで、さまざまなものを見たり、聞いたり、考えたり、感じたりしてきたではないかと。

けれども、あなたが経験したというその出来事は、本当にあなたの外側で起きた何かなのだろうか。例えば、目の前にコーヒーカップがあるとします。

あなたはそれを見ていると思っている。しかし、実際にあるのは色や形という視覚的な表れだけです。そこに「カップ」という名前を与え、それが自分の外側に存在していると解釈しているのです。

同じことは、音にも、身体感覚にも、思考にも当てはまるのです。すべては、ただ現れているだけ。

そこには、経験される対象があり、それを経験する主体がいるという二つの構造さえ、本当は見つからないのです。

それなら、経験しているのは誰なのだろうか?答えは、誰でもない。もっと正確に言えば、経験という出来事が独立した誰かによって所有されているという事実が、どこにも見当たらない。

あなたは、世界の中に存在している観察者ではないのです。そもそも、観察者と世界という二つのものが存在しているという前提自体が、思考によって作られた物語なのです。

これは、あなたが何かを失うという話ではありません。むしろ、最初から存在していなかったものを、存在していたと思い込んでいただけなのです。

そして、このことを理解する誰かも、理解したという体験を所有する誰かもいないのです。非二元とは、何か特別な境地に到達することではないのです。

到達する人も、到達する場所も、実は最初から存在していなかったという、あまりにも身も蓋もない話なのですね。

現れはすべて距離ゼロで起きている

現れは常に現在進行形です。真実に現在形、過去形、未来形というものは存在しないのです。全ては今ここで進行しているからですね。

だから色という現れは現在起きつつあり、音という表れも現在起きつつあるのですが、どういうわけか向こうに景色があり、何処かから音がしているとしてしまうのです。

でも全ての固定概念、既定の前提を脇に置いてあるがままに体験を見てみると、どんな景色も距離ゼロでここで起きているし、あらゆる音も距離ゼロで起きていることに気づきます。

もしもこのことに気づかないとしたら、それは能力とかそう言ったものの違いではなく、単に固定概念や前提知識などが邪魔をしているだけです。

例え話としてよく聞くのが、我々は取れない色眼鏡をかけて世界を見ていると言われるのですが、取れなくてもその色眼鏡をかけていることに気づくことはできます。

あるがままの現れをどのように歪ませてしまう色眼鏡なのかに気づくだけでいいのです。大したことはありません。

あらゆる身体感覚も距離ゼロで起きています。ところが、たとえばつま先を怪我して痛みを感じると、その痛みまでの間に距離を生み出すのです。

その痛みも実のところ距離ゼロで起きているだけ。痛みの感覚がどこかにあるなんて、とてもおかしなことだと気づきます。

そうした固定観念は取れなくても大丈夫です。それが気づきを歪ませているように感じていることに気づくだけでいいのですから。

実体とは、モノが存続するための方策

非二元に気づいてすぐの頃に、実体というものの正体について書いたことがありました。それは、自分の周りを都合のいいように取り扱えるようにするための方策だったのだと。

現れを現れとしてだけ捉えてしまうと、それは勝手に現れては消えてを繰り返してしまうので、自分にとって都合が悪いのです。

拠り所にすることができないばかりか、余計な不安を煽るようなことにもなってしまうからです。それを払拭するために、現れが消えたとしてもどこかで存続しているはずとするのです。

ママの姿が見えなくなったとしても、ママはどこかにいてくれていてまたすぐに現れてくれるものだと考えるわけです。

そしてそれがこの現実に対して辻褄が合っていたために、実体という概念を作ることで対象は継続するということを深く信じ込ませたのです。

それは当然対象物に対してだけでなく、この自分という存在に対しても同様の作戦を取ることになったのです。

夜寝ている間は消えてしまっても朝起きた時に、昨日までの自分がずっと存続しているのだと。これで人生物語を昨日の続きから始めることができるのです。

全ては現れに過ぎないことを見抜くことができると、実体というものが都合のいい作り物だったことに気づくことになるのですね。 

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