罪悪感をそのまま受け止める

敗戦後の日本という国家が抱えている最大の問題とは、私たち日本人の中にこそ反日的思想を持っている人がたくさんいるという事実です。

反日とは、日本という国が戦争を通して、他国を侵略して、残虐に無実の人々を殺戮したというように、歴史の事実を顧みずに思い込むことです。

国を代表する新聞社、放送局、日教組、あるいは多くのマスメディアによって日本人に自虐史観を与え続けています。

戦後に生まれた私たちは誰もがそうした教育を受けてきたことは確かですが、それでもほんの少し歴史を調べてみれば、それが間違いだったと気づくはずなのです。

戦後70年近く経とうとしている今でも、合いも変わらずに、私にしてみれば国をあげて自国を責め続けているというのは、どうにも解せない話しです。

そのことに関する明確な説明を今までに聞いたこともありません。他国の思想が国内に入り込んで、気づかないうちに情報操作されているとでもいうのでしょうか?

私は何となくですが、日本人が特有に持っている自責の念というものが、原因の一つなのではないかと思っています。

歴史上初めて大きな戦いで負けてしまったという事実が、その罪悪感とリンクしてしまい、国をあげて駄目な国のイメージを作ったのではないかと思うのです。

GHQのやった徹底した日本国民に対する洗脳も要因の一つであることは間違いありませんが、それがこれほど長く続くはずがないと思っています。

敵は外にはいないのです。私たち自身の内側にこそ、自分を滅ぼそうとする強い欲求があるのではないかと思います。そのことに気づくことがどうしても必要です。

それには、私たち一人ひとりが自分の中に隠し持っている自己否定感、罪悪感をそのまま受け止めることしかありません。

完全な一人称の本質

もしも今あなたの心が、時間の流れをゆったりを感じる余裕を持っていると感じるなら、次のようにしてみてください。

今していることを短い時間でいいですから中断するのです。歩いている人は立ち止まり、耳を澄ましてみるのです。

パソコンに向かっているなら、キーボードを叩く指を止めて、ディスプレイを見ている目を宙ぶらりんにさせるのです。

目も耳もあらゆる知覚はその機能を止めることはありませんが、それらからやってくる信号には注意を払わないで、今この瞬間に息を潜めるのです。

そうすると、鎮まりかえっているもっとも身近なものに気づくかもしれません。それこそが、本当の自己の姿です。

自分を客観視するのではなくて、敢えて言えば内側から直接それを体験するのです。それは対象物ではないからです。

完全なる一人称の本質に気づくと、それまで使って頼りにしていた知覚が、まやかしだったという気になってくるかもしれません。

知覚と思考によって捉えられるすべての現象が、鎮まりかえった私たちの本質によって支えられているということに気づきます。

知覚と思考をいくらフル稼働させて本質を隠そうとしても、誰もが例外なくいずれは本当のことに気づくことになるはずです。

それがいつになるのか、早いのか遅いのか、そんなこともただの思考のゲームに過ぎないことも明らかですね。

なぜなら、昨日の今も今日の今も、今この瞬間と一つものだからです。

深遠な仕掛けに気づく

私たちが映画館に行って映像を見ているときに、それが人工的に作られたものだということを忘れてしまうくらい、のめり込んでしまうことがありますね。

仮にそれが壮大なスケールで描かれる、リアルな歴史物語であったとしましょう。その物語の中で生きて死んでいった大勢の人物たちが、決してできないことが一つあるのです。

それは何だと思いますか?ヒントは、その物語がリアルであればあるほど不可能なことです。映像がリアルであればあるほど、できないことです。

当たり前のことですが、その映画の物語の中で、「この世界、この時代に起きているすべての事象が今スクリーン上に映されている」ということに気づくことはできません。

それは、あなたが睡眠中にみている夢の中にいて、その夢の中のあなたがこの夢を創作しているあなた、眠りこけているあなたのことを思い巡らすことができないのと同じです。

万に一つ、夢の中でそのことに気づいたとしても、その夢の製作者である自分自身を、その夢の中で探すことはできませんね。

もうお分かりだと思いますが、それと似たようなことが今この瞬間にも起きているということです。この現実という世界は、知覚できない無限のスクリーン上で展開されているある種の映像のようなものなのです。

私たちの知覚を使っていては、決して分からない奥深くて驚嘆に値するこの仕掛けに気づくことはできません。

知覚と思考は1セットです。その思考から離れた意識の地点があるということに気づくことができれば、この壮大で緻密な仕掛けにも気づくことになるということです。

誰もがそのことに気づいたら、みんなで一緒にこの物語を思い切り楽しむことができるようになるでしょうね。

本当に求めているものは?

自分が求めているものって一体何なのだろう?と考えたことのない人はいないはずです。誰だって、自分の欲していることに興味を持っているからです。

自分が本当に必要としていること(もの)、心の底から望んでいること(もの)、あなたの場合それは物理的な何かですか?それとも目には見えないものでしょうか?

答えがもしも物理的な何かであった場合には、それをなぜ欲しているかと問い直せば、必ず最後は目には見えないものであると分かるはずです。

お金が欲しいのは、安心するためかもしれないし、あるいはやりたいことを実現するための資金として必要ということかもしれません。

資金が調達できて、あれこれと思い巡らせていた長年の夢が叶えば、満ち足りた心を得ることができるでしょうね。

最良のパートナーが欲しいのは、孤独や不安から開放されたいためかもしれませんし、可愛い子供を授かりたいということかもしれません。

結局、物理的な何かを求めているというのは、それを手に入れられたときの心の平安や満足感、安心感などを求めていたということです。

ところで、そうした満足感というものが永久的に持続することは決してないということを、残念ながら私たちは経験から充分に知り尽くしています。

ここまで見て来れば、私たちが本当に求めているものとは、永続するものであるということが分かります。そして、それは時間の中には決してないということも明白ですね。

あなたが本当に求めているものとは、時間を越えた「今」という真実にしかないということです。であるならば、それは今この瞬間に手に入っているものです。

そのことに気づくことこそが、本当の救いであり、それは本質の自己に気づくということに他ならないということです。

本当の自己に気づく

私たちは、毎日いろいろな人生を生きています。時間の中を忙しく動き回っている人もいるでしょうし、比較的のんびりとした時を過ごしている人もいるかもしれませんね。

時間の流れを早く感じようがゆっくりに感じようが、時間は過去から現在(今)を通り越して未来へと進んでいくように思えます。

けれども、本当は誰も時間の流れの中になどいるわけではありません。もっと言えば、今このときとは、時間とは何の関係もない本質なのです。

今この瞬間こそが、本当の私たち自身であるということに気づくと、きっとその人の奥深くである明確な信頼が起こるのです。

時間は思考であって、思考こそが時間という空想を作り続けているのです。今この瞬間、立ち止まって、手を止めて、すべてが現象化しているその奥にあるものに注意を向けてみてください。

それが在ることによって、現象化が起きているその「在るもの」に意識を向けてみるのです。何かに集中するのではなくて、穏やかに耳を澄ます感じです。

始めのうちは、これは一体何なのだろう?というのがやってくるかもしれません。どんな質問がやってきても、それをそのままにしておくのです。

そうすると、質問自体が無意味だったということに気づくようになります。そのとき、個人としての自分の意識が、見せ掛けのものだったと分かります。

自己も意識も決してなくなることはないままに、本当の自己である今この瞬間と一つになることができるかもしれません。

本当の自己でなくなることは不可能なことです。ですから、私たちにできることは、ただただ本当の自己に気づくということだけなのですね。

人物として生きることの苦しみ

私たちの誰もがみな同じように、一人の人物として生きていることの苦しみを持っています。それは本来、理屈的には必ず誰にでも当てはまるものです。

人間は、自我が目覚めたときからずっと、自分のことは自分で守らなければならないと言う切迫した恐怖を持つようになるからです。

けれども、その苦しみに全く気づかずにいる人もいれば、心のどこかで薄々感づいている人もいます。そして、もっと明確に表立って気づいてしまっている人すらいます。

気づかずにいる人は、人生で起きることに翻弄されていたり、現実世界で自分の願望や目的を持って、そこにエネルギーを注げるタイプなのです。

そういう場合は、向上心が旺盛であったり、達成感がとても強いということもあるかもしれません。その人なりの人生の目的がしっかり設定されているということもあるでしょう。

いわゆる社会に適合できているタイプの人と言ってもいいかもしれません。したがって、この世界で活躍している場合が多いかもしれません。

ただし、いろいろなジャンルで活躍されている人の中にも、この苦しみをどこかで感じているという人も意外に多いかもしれません。

そういう場合は、何となく見ていてその苦しみが伝わってくるような感じがして、私自身ちょっと切なくなったりもします。

私の場合は、その苦しみをどう対処しているかというと、逆説的になってしまいますが、まずは対処しないということを徹底するのです。

つまり、対処しようとするその思考によっては、決して解決することのできない事柄だからです。この存在の苦しみの生みの親は思考であり、それを何とか解決しようとするのも思考なのです。

その理解をした上で、人生やこの世界のすべてを物語として見る視点を養うことです。自分の本質に気づくことこそが、その苦しみから逃げずにいてなおかつ本当に救われる唯一のやり方なのだと思うのです。

無邪気で無防備な状態に戻る

私たちの人生を、目には見えない心の様子として捉えたうえで、その推移を以下に書いて見ます。必要なことだけに極端に絞っています。

o 無邪気で無防備な状態で生まれる

↓

o 自我(自分がいるという思考)が発生する

↓

o 自己防衛を始める(自分の存在否定)

↓

o 自己防衛の強化、構築(自分は駄目じゃないという証明)

この先は人によって異なってきます。このまま、駄目じゃない自分、より良い自分を作っていこうとし続けるか、あるいはそれ以外の気づきを得るのか。

前者のままで心の癒しを始める場合がほとんどですが、その途中で後者の気づきを得ることになる場合もあります。

後者の場合に限って、自己改善プログラムという自己防衛システムの魔の手から抜け出す可能性が出てきます。

自分を何とかしようとする想いをそのままに受け止めて、その誘いに乗らない生き方をするようになるということです。

そのときに初めて、一番最初のステップのときの自分をしっかりと思い出すことができるのです。それはもう、清々しいことこのうえありません。

時空を越えた何か

私たちの本当の姿というのは、当然のこととして分かっているという知識からあまりにも離れすぎてしまって、すぐには認めることも理解することも不可能に感じてしまうのです。

なぜなら、私たちは何から何まで当たり前のこととして信じてしまっているからです。自分を一人の人間として、個人として、人物としてみていることから離れることができないのです。

それほど、思考によって固く信じてしまったことは、おいそれとリセットすることは難しいことなのですね、残念なことに…。

けれども、それは突然何の前触れも無くやってくるかもしれません。今まであれほど頑なに信じていたことが、どういうわけかあっけなく覆ってしまう瞬間があるのです。

なぜそういうことが起こるのかはわかりませんが、でもきっと一人ひとりの身の上にいつかやってくるのでしょう。

そのときに、気づきに対して戦おうとする思考、気づきを亡き者にしようとする強い抵抗が心の中にあることも事実です。

それをそっとそのままにしつつ、気づきだけに注意を向け続けることができるなら、何も難しいことではなく、ただ単にあ~そうだったのかと分かるのです。

そしてそれは、決して言葉で説明できる何かではありません。その気づきを言葉で表現すれば、「ずっと以前から知っていたよ」というものです。

何も特別なことではなくて、ただそれを受容するかどうかの違いに過ぎないのです。本当の自分は、思考ではなくて純粋な意識だったという、ただそれだけのこと。

思考には、時間も空間も必要なのですが、意識に必要なものは何もありません。だからこそ、私たちの本質は時空を越えていて思考では捉えることのできない何かなのです。

物語を語り続けるのをやめる

私がセラピストという仕事を通して観てきたたくさんの物語の主題の多くは、たいていが以下のようなものに集約されるのです。

それは、

-私は理不尽な目に遭って来た

-私は自分を受け止めてはもらえなかった

-私はひどい被害者にさせられてしまった

-私はいなくてもいい存在に違いない

-上記のようなことを払拭するために、私は頑張らなければならない

このような物語を、あなたは自分自身に対してずっと語り続けてきたという自覚はあるでしょうか?だって、本当なのだから仕方が無いという声が聞こえてきそうです。

けれども、事実というものはそうではなくて、あなたの思考が作り出した物語であるということに気づくことができるでしょうか?

事実はただ起きているのです。あなたが勝手にそれを思考を用いて物語に仕立て上げて、自分に語り続けているだけなのです。

もうそろそろ、あなたの物語を語り続けることから一歩退いてみるつもりにはならないでしょうか?物語を語り続けることから開放されたら、そこには清々しい今があるだけです。

それを体験してみたいとは思いませんか?答えがイエスなら、それをいつやればいいのか?

「今でしょ!」

距離があり、ものの大きさは変わらない、近づくと大きく見えるだけという三つのうそ

肉体を持って、個人として生きていると思い込んでる私たちにとって、自分のいる場所はその時々において決まっており、その外側にこの世界が広がっていると思っています。

肉体というある空間を占有している自分が、外側に広がる空間の中を移動しながら生活していると考えているのです。

したがって、目に見える外側の風景には、距離という概念が生じてきてしまい、自分の位置から遠いものや近いものがあるというように知覚するのです。

けれども、目覚めた意識に注意を向けると、自分には大きさというものがないということに気づいてしまいます。そして、大きさがないということは、全体性とも言えます。

全体であるものは、移動することは不可能であり、それは距離というものは意味をなさないということに繋がっていくのです。

自分の周りに広がっていると感じているこの空間は、思考によるものであって、本当は自己との間の距離というものはないのです。

それは、たとえて言えばスクリーン上に映し出された映像が、どれほど広大な景色であったとしても、スクリーンとの距離はゼロだということと同じなのです。

この3次元の宇宙空間とは、無限に大きな3次元のスクリーン上に映し出された映像のようなものだということです。

そしてその無限大のスクリーンこそが、私たちの本質の姿なのですね。思考によるこれまでのあらゆる概念がひっくり返ってしまいますが、そのことを自分自身で検証することが唯一の自己探求なのです。