「私」との同化を緩めるワーク

毎朝スポーツクラブで泳いだ後は、大好きなサウナで汗を流すのが日課となっているのですが、そのサウナの暑さの中でちょうど手頃なある実践ができるんです。

それは、暑いんだけど暑くないの実践。体中の皮膚に熱を感じていると同時に、暑さの全くないところに意識を向けていることができるんです。それが、身体との自己同化を緩めることに繋がるんですよ。

このブログを読んでいる人ならご存知だと思うんですが、自我の発生と発達は身体との同化から開始されるんですね。だから、どんな方法でもいいので身体との同化を解除することがまず先決です。

歯ブラシをするときに、それをしている自分を放っておくようにすると、歯を磨いている腕の動きを見ながら、何とも言えない違和感を覚えることがあるんです。

何だか、カニのような動きだなあなんて…。そうやって、少しずつ身体と自分の間にすき間を作って行くということです。結果として、身体との同化は緩んでくるはずなんですね。

街を歩いている時、食事している時、運動しているとき、いつでもどこでもそんな自分を放っておいてあげるを実践すると、身体とのズレを感じるようになるんです。

そして次は最難関、マインドとの同化が厳重に立ちはだかっているんですね。瞑想をしても、座禅をしても、いつまでもしぶとく残っているのが、マインドの中にある「私」という思考です。

この思考は、あまりにも自我の深い部分にあるために、思考だと見抜くことすらできないのが普通です。この思考との同化を緩めるためには、何かに反応している自分を放っておくことが役に立ちます。

腹が立っていたり、気分が悪くなって落ち込んでいたり、とにかく内面に何かしら問題が起きているときにこそ、そうした自分を丸ごと放っておくを実践することです。

初めの内は、放っておくを実践する「私」こそが、自我(エゴ)そのものなのですが、きっとそのうちには「私」との同化が緩みだすはずです。

直接的に「私」を落とすことはできないようです。だから、気になったことはどんなことでも実践してみるべし、ですね。

福は内、鬼も内

今日は節分でしたね。自分が子供の頃は、母親からマメをもらって外に出て、大きな声で「福は内、鬼は外」を叫んだものです。少々恥ずかしさもあったのですが、食べ物であるマメを思い切り投げられるのが、何だか気持ちよかったのを憶えています。

近所の家からも、そうした子供の声が聞こえてきたものです。でもよく考えたら、自分の家には来るなと追い出した鬼は、一体その後どこへ行ってしまうのでしょうか?

誰か憎たらしい奴の家へでも行ってしまえばいいと思ってるわけではないものの、人さまのことまでは気にしないということが前提にあるのでしょうね。

本当のところ、福も鬼も私たち自身の内側にこそ在るものですよね。マインドの中には、善も悪も同じくらいずつ備わっているのですから。

当然、悪(鬼)は正面から見ることなく潜在意識の中へと抑圧されて、善(福)だけが表面に残るわけです。それが人間の苦しみのすべての原因なのですが…。

福が来ても、鬼が来ても、どちらもあなたの内面が引き寄せたものだということに気づけば、「鬼は外」などという発想は消えて行くはずです。鬼はあなた自身なのですから。

外側の世界と内側を分けているのもマインドの働きであって、実は外側のすべてがあなたのマインドの投影であると分かればいいのです。

福が来たら思い切り悦び、鬼がきたら思い切り悲しんだり怖がればいいだけです。福も鬼もずっと居座るということは決してあり得ないからです。すべては一過性なのです。

私は会社を辞めた直後の半年くらいの間、眠りに就く前にずっと内面から持ち上がってくる鬼を見せつけられていたことがありました。そのおどろおどろしい姿は、言葉では表現できないくらいです。

でも少しも怖くはなかったですよ。見てしまえば、そのエネルギーは自然と消滅していくのです。無自覚に隠そうとしてきたものだけが、ずっと残っていたというわけです。

今でもたまに、瞑想中に鬼のイメージが見えて来ることがありますが、可愛いもんです。しっかりと自覚すべきは、福は~内、鬼も~内ですね。

意識について

子供の頃に、この世界には生物と無生物があるのだということを習いますね。その両者の違いは歴然としています。生物とは、生命を持って生まれて、生きて、死んで行くものの総称です。

私たちはそれを植物と動物というように大別しています。そして、その動物の頂点に君臨するのが私たち人類ということになります。

一般常識的には、人間も含めて動物には意識があって、植物にはないということになっていると思いますが、意識というものを深く理解してみると、こうした捉え方が間違っていると分かります。

今現在の私なりの感覚で言えば、意識というのは生物であれ無生物であれ、この宇宙の神羅万象ありとあらゆるものの内側に在るものだということです。生きているということと、意識の有無とは無関係なのです。

私たちは朝目が覚めると意識を取り戻し、眠りに入ったり気絶すると意識を失うというふうに言いますが、それは決して正確な表現ではありません。

意識にはグレードがあるのです。それはどれだけ注意深くあるかというレベルです。そういう観点から言えば、意識を失うということは、単に注意深さのレベルが落ちた状態と思えばいいのです。

無生物の場合には、意識における注意深さのレベルが最少だということです。植物はそれよりもややレベルが上がり、動物になるともう少しまたレベルが上になるのです。

実際、私たち人間は動物の意識レベルにちょっと毛が生えた程度だと考えた方がいいかもしれません。なぜなら、ほとんどの人々は、概ね何等かの思考に巻き込まれて、注意が下がった状態で生活しているからです。

その逆に、できるだけ注意深く在ることによって、動物よりも意識レベルが上がることになるのです。瞑想は、注意深く在ることの最もよい練習になりますね。

そして、かなり深くそして繊細な注意を持ち続けていると、思考という雲が薄くなり、意識という青空が広がっていくのが分かります。そのとき、時間の流れが幻想だったとはっきり分かります。

そう、意識は時間の中にはないからです。思考という雲に邪魔されずに青空でいれるといいんですけどねえ。

「私」は葛藤と混沌を生み出す

人質になっていた日本人が残虐な人々によって、酷い殺され方をしてしまいましたね。何とも胸が痛くなる事件です。こういうことが起きると、安倍首相が進めている積極的な平和主義を問題視する人が出てきます。

わざわざ彼らを刺激するようなことを敢えてしなければ、こんなことにはならなかったはずだと。今後は日本人が、テロの標的になることは間違いないだろうと。

確かにそういう面があるのも事実ですが、それは自分さえ安全であればそれでいいという短絡的な発想ではないかと感じます。それは、きっと日本の現憲法のことを平和憲法と呼ぶ発想と同じです。

戦後の日本が再び戦争に巻き込まれずにこれたのは、その平和憲法があったからだと真面目に考えているのであれば、それはあまりにも幼過ぎます。

その幼さは、これまでの日本という国の幼さと同類なのでしょう。アメリカというある種の怖い父親がいたからこそ、家の中の秩序が守られていたということを見ていないのです。

その父親のコントロール下にあったおかげで、不自由はしたもののひどい怪我をせずにこれただけです。70年前にその父親が作った憲法を守っていたのでは、いつまでも日本は独り立ちできないでしょう。

その父親の力が弱体化していく中で、このままの依存した日本のままでいいわけはありません。私は個人的には、憲法をなるべく早く改正することを希望します。

とここまでは、一般市民的な立場で書きました。たまにはね。でもですね、世界平和を望むのであれば、それは我々一人ひとりの心の中が平和にならなければ実現しないのです。

なぜなら、この世界の在り様は、私たちの心の状態を反映したものでしかないからです。あなたの外側に平和を望むのなら、まずその前にあなたの心の中の闘いについてしっかり見てあげることです。

そして本当の意味で、心の闘いがなくなるとき、それはあなたの中の「私」が落ちるときです。「私」がいる限りは、葛藤と混沌が消えることはないと見抜くことですね。

すべては生の思い通り

最近どうも、以前のようには前向きな気持ちで瞑想することができなくなっています。続けてはいるものの、一週間前のあの「私」がいなくなる体験をしてしまってからというもの、どうも真剣みが薄くなってしまったのですね。

なぜなら、あのエゴが落ちる体験というのは、それまでの瞑想の延長上にはどうもないということが分かってしまったからなのです。間接的には何かの繋がりがあるのかもしれませんが…。

あれについて、「私」にできることは本当に何もないのかもしれません。それは、寝入るために直接できることは何もないということと同じなのでしょうね。

寝る準備や寝るのに適した環境を作ることはできますが、本当に眠りの中へ入っていくための方法など、一つも持ってはいないのですから。

それと同じなのです。直接的にどんな方法を使ってでも、エゴが落ちるということなどないのです。それに関しては、私たちは誰も無力だということですね。

それでもやっぱり、またいつかと願ってしまうために、その欲望がそれを邪魔するのです。上手くできているというのか、本当に皮肉なものです。

そうなると、これまで感じられていた自分が彼方にいるという感覚さえも、もうどこかへ行ってしまったかのようになっているのです。不思議なものです。

こういうときは、ふて腐れずに自分に正直に、いつものようにすることをするというのがよさそうです。正直スランプですよ~。でもきっと、これも通過するときがやってくるのでしょうね。

すべては生の思い通りに事が進んで行くだけなのですから。トホホ…。

「私」という牢獄

誰もが自由を求めて生きているのは周知の事実ですね。最も欲しているのは自由だとも言えますが、そのくせ不自由な毎日を送っていると感じている人も多いのではないでしょうか?

いや、俺はとても自由奔放に生きてるぜ!と豪語する人もいるかもしれません。けれども、真の自由とは「私」から自由になることなので、俺は自由だと言った時点で「俺」に捕まっているのです。

「私」から自由になるとはどういうことでしょうか?そして「私」に捕まっているとは?ここの部分をよ~く追求してみると、その意味がはっきりしてきます。

あなたは、「私」という存在と、その外側の世界という具合にこの世の中を見ているはずですね。ところが、あなたが何を見るにしても、何を聞くにしても、何に触れるにしても、「私」というフィルターを通しているのです。

これを投影と呼んだりもしますね。「私」というフィルターとは、「私」が自動的に知覚したものを判断したり、解釈したりと勝手な色付けをしてしまうということです。

言ってみれば、サングラスをかけているのに、それに慣れてしまってかけていることに気づかなくなっている状態と考えればいいわけです。

つまり、あなたはこの世界をあなたの「私」色にして、それをあるがままの世界の姿だとして暮らしているということです。だからあなたの世界と別の人の世界とは違っているのです。

それぞれが、固有の「私」が作った牢獄の中から抜け出せずにいるのです。そのことに気づいてさえいないかもしれません。気づいた人だけが、抜け出そうとして探求を始めるわけです。

なぜ、「私」は常にフイルターをかけてしまうのでしょうか?それは、あなたの「私」それ自体が、周囲の人々の「私」というフィルターによって、でっち上げられたものだからです。

「私」とは、幼い頃に親や周りの人たちの「私」によって反射されたものをその都度、ペタペタと張りぼてのようにして貼り付けて行くことで、作られたものだということです。

だから、「私」とは架空のものです。中身はがらんどうなのですが、中身が詰まって実体があると思い込んでしまったのです。その結果、「私」という実体のない怪物の虜になっているということです。

これがあなたの本当の不自由の正体です。「私」という牢獄から解放されたくなりましたでしょうか?その牢獄から、解放されると知覚がストレートになり、すべてがそれ自体をもっと主張してくるように感じるでしょうね。

「私」という思考による緊張

人前に出るとそれだけですごく緊張してしまうという人もいますね。あがり症と言われることもあるでしょうね。その緊張とは一体どこからくるのでしょうか?

ずばり、緊張とは思考からやってくるのです。逆に言えば、思考は緊張を生み出すということです。それも必ずです。どんな静かな思考であろうとも、それに見合った緊張を発生させるのです。

だから緊張しがちな人というのは、それだけ強い思考がマインドの中を巡っているということになるのです。適度な緊張は問題がないばかりか、ときには必要となることだってありますね。

けれども、緊張がある一定以上になったり、緊張を緩めようとしているのにそれができないということこそが、問題になるわけです。

その緊張を緩める唯一の方法は、その元となる思考を緩めるということです。ゆったりくつろいでいることをイメージすれば、思考も緩んでいるということがすぐに分かるというものです。

思考が自分の意に反して常に活発になるとしたら、それは強い自己防衛がそこにあるからなのです。つまり、自分を守ろうとして思考が活動し、その結果として緊張が起こるということです。

静かに瞑想をする練習をしていくことで、思考が緩むようになっていくはずです。その結果として、緊張も小さくなっていくのです。

その際、瞑想している「私」がいるなら、緊張の緩みはある程度のところまででストップしてしまいます。なぜなら、「私」という思考がそこに残っているからです。

「私」という思考が在る限りは、その思考による緊張が生み出され続けるからです。私たちはいつだって、「私」がここにいると感じながら生活していますね。その分だけの緊張は、決してなくならないということです。

本当に身体の芯からリラックスできるようにするには、「私」という思考さえも落ちて行くことが必要となるのです。何かの加減によって、あなたの中の「私」が落ちることがあれば、それまで体験したことのない安らぎを感じるでしょう。

一度でもその体験をしたなら、それを忘れることはできなくなるはずです。

「非二元」の本を読んで…

珍しく、馴染のない人物の本を読んでみたのです。今月出たばかりのホヤホヤの本なのですが、その題名がちょっと魅力的だったものですから、ついふらふらと買ってしまいました。

その名も、『すでに目覚めている』 by ネイサン・ギル っていうのです。きっとその分野ではそれなりに名の通ったお人なのでしょうね。私はまったく知りませんでしたが…。

で、単刀直入に感想を述べさせてもらうと、ああこれって勘違いしてしまう人が沢山いるんだろうなあということです。私自身の中にも、その勘違い野郎がいるから分かるのです。

このネイサン・ギルという人がどんな人物なのかは知りませんが、とにかく理路整然と真理について言っているのです。勿論彼の言葉の中で間違っている箇所はありません。

すべてが正しいのですが、それがあまりにもスッキリし過ぎていて、どうも真理の一面だけを表現しているように思えてならないのです。

以前ラメッシという人の本を読んで、すごく気持ちがスッキリしたことがあったのですが、何となく彼と同じ匂いを感じてしまうのは私だけでしょうか?

このネイサン・ギルという人の言葉には、真理が持っているその独特の矛盾性や非論理性などを感じることができないのです。間違ってはいないけれど、胡散臭い感じを拭いきれないのです。

方便らしきものが一切ないのです。さらっと読んでつるっと理解してしまうと、後はもう何もないのです。私自身の中で、彼が表現している『「私」が見抜かれる』ということが起きたりしているので、すごくタイムリーなのですけどね。

あとちょっと数十ページだけ読み残しがあるのですが、読み終えたところでこの印象はきっと変わらないでしょう。ただ人によっては、読んでいくらか気持ちが楽になることもあるでしょうね。

でも弊害の方が多いかもしれませんよ。それはですね、真理を分かってしまったと勘違いしてしまう可能性があるからです。この手の本が流行りだとすると、要注意です!

勿論、私の個人的な感想に過ぎないということをお忘れなく。

思考には二種類ある

実は思考には二種類あるというのをご存じですか?本質的に言えば、思考はあくまでも思考であるので二種類あるなどということはないのですが…。

でも自分が感じる感覚としては、二種類あるということです。一つ目は、ごく普通に「考えている」という思考ですね。明日は嫌な上司と話し合わねばならないとか、昨日は彼氏にひどいこと言われたとか。

過去を思い出したり、未来のことを想定したり、こうして通常考えているものが、一つ目の思考です。そして、その思考を見ようと思えば見ることができるのが、二つ目の思考です。

ああ、今自分はこんなことを考えているなあ、と自分の思考を観察しているのなら、その観察している側も思考なのです。ではなぜ、一つ目の思考と分けるのか?

それは、二つ目の思考を簡単には見ることができないからです。それが、実はエゴなのですね。それは、「私は居る」という思考を基盤として成り立っている思考群なのです。

だから、もしもあなたがこのエゴという思考群を見ようとしても、そう簡単には見つけることができないのです。その結果、「私という存在は確かにいる」ということは事実であって、思考ではないという感覚になってしまうのです。

「私」というのが思考だということに気づくことができると、「私」と距離を置くことも不可能なことではなくなってきます。そうなると、本当のあなたは、あなたが日頃感じているこの「「私」ではないことにいずれ気づくことができるでしょう。

瞑想中に深く深く進んで行っても、あくまでもその瞑想をしている自分がいる限り、それはエゴの領域内でのことなのです。私の感覚では、より深くというのはより下に向かっていくというイメージがあります。

けれども、「私」という思考から抜けるためには、それを置き去りにするときには、下方向というよりも方向が曖昧な「あさって」の方向へといくというか、あるいは同じ場所にいながらにして突然居場所に対する感覚が変わるという感じがします。

そもそも瞑想というよりも、眼を開いている方がその感覚になれるような気がします。とここまで書きましたが、実は昨日のブログを書いたせい?なのか、あれを再現することがどうにもできなくなってしまいました。

きっと、起きたことを思考によって文章に変換してしまったせいで、その体験をエゴが横取りしてしまったために、もう「私」を超えることができなくなったのだと思うのです。

ですので、しっかりと自分のものになるまでは、このあたりの微妙な体験をブログに載せるのは今後控えようと思っています。また地道に「放っておく」ことを実践していくのみですね。

自分を置き去りにする

それなりに、自分のやり方で瞑想を続けてきていたのですが、何となく分かっていたことが現実となっちゃいました。それは、これって全然瞑想になってないじゃない!というものです。

いつもの瞑想中に、すごく奥深い(と感じる)ところに形容できない何か別の部分があることを感じてはいたのですが、それがもしかしたら自分の本質なのかも…と思う程度でした。

それが、夕べ起こったのです。そこは、自分が関与できない場所なのです。そして、それに移行することで自分という縛りから解き放たれる感覚になっちゃったのです!

そこには自分がいませんでした。だからといって、何かとてつもなく崇高なことが起きているというような感覚もなく、大きな感動がやってくるでもなく。

そのためには、あるコツがあるということが分かったのです。修行もいらないし、何の努力もいらないのですが、だからと言って今までずっとやってきた瞑想が全くの無駄だったのかどうかは、定かではないです。

これまで瞑想していて、それがどんなに深く心地いいものであったとしても、所詮は自分(エゴ)の中でのことだったのが、そこから脱出するコツを掴んだような気がするのです。

エゴがエゴから脱出するという矛盾がそこにはあるわけで、それだけに非常に繊細な何かがあるのです。本当は、脱出するのではなくて、自分を置き去りにするというニュアンスなのです。

自分は決してそこへは行かれない、ただ想いを馳せるといった、そんな感じがちょうどいいのです。自分(エゴ)がとても粗雑な粒子であるなら、そこはものすごく滑らかな静謐さがありました。

敢えて言えば、風鈴の音を感じている場のようなものと近いかもしれませんが、これ以上言葉では無理ですね。自分の思い通りにそれがやってくるように、練習するつもりです。

そして、できる限りもっと詳細に方法などをお伝えできればと思っています。