放っておきましょう! その2

昨日のブログの「放っておく!」実践というのは、実は「ただ見る」ということと同じなのです。遠いものを放っておくと、その存在すら気づかなくなってしまいますね。

けれども、すごく近くにあるものを放っておくことにすると、それを見ずにはいられません。私に最も近いのは、私ですので、その私を放っておくということは、それをただ見ることになるというわけですね。

そのただ見るというのは、能動的に見るということではなくて、受動的に見るということです。このニュアンスが少々微妙なんだと思うのです。

最も密接にくっついている私を放っておくようにすると、それまで気づけなかった感情の移り変わりや、その時々の私の心の反応などにより敏感になるようです。

今日は、甥の結婚式&披露宴があって出席していたのですが、やはりというか当然というか、「放っておく」実践を忘れてしまう時が多くなってしまいました。

それでも、放っておく感覚を思い出せたときには、不慣れなところで若干緊張している自分のことを、とても素直に感じることができたりしましたね。

この「放っておく」実践、すごくお勧めですよ~!

放っておきましょう!

う~ん、最近自分のブログを読み返してみて感じることだけど、何だかえらく真面目くさっていて面白味に欠けるし、どうもどこかに深刻さのスパイスが効いている節があるなと…。

人間というのは、どうしたらリラックス(安心)できるのかと奮闘努力している矛盾に満ちた存在ですが、このブログを読んでリラックスできるようには、どうも思えない。

究極は勿論リラックスへの道というつもりで書いているのですけれど、ちょっとこのテイストは飽きてきた感じがしているのです。

ということで、これからはもっと軽~い気持ちで読めるものにしたいと思うのですね。さて、気分が軽~くなってくれるためには、どうしたらいいのだろうか?

それはきっと、すべてを放っておくということ!なるようになるに任せるってことです。結果を心配する自分を放っておきましょう。

結果を喜ぶ自分のことも放っておくし、結果を残念がる自分のことも放っておくことにしませんか?トイレに行きたくなった自分も放っておきましょう。そのうち、どうせ行くし(笑)。

というより、トイレに行きたくなったのでトイレに行く自分を放っておくということですよ。

そしたら、放っておかれた自分の身体、自分の思考、自分の気分、それが全部自分ではなかったとどこかで分かることになるような気がします。

みんなで、放っておく練習をテキトウにやりませんか?

本当に「知る」とは…

私たちのマインド(エゴ)は、ものごとの知識を得ることによって、いくばくかの安心を手にすることができるのです。逆に知らないという状況は、不安を覚えることになるのですね。

だから、内面に大きな不安を抱えている人は、それを何とかして安心に変える一つの手段として、知識というものを利用しようとするのです。

ところで、私たちの知識というものが、本当の意味で「知る」ということとは大いにかけ離れているということはご存じでしょうか?

たとえば、あなたが知らない花を私があなたに見せたとすると、あなたは「これなんていう花?」と聞いてくるでしょうね。特にその花が綺麗で興味を持てば…。

私が花の名前を「○○という花ですよ!」と伝えたら、あなたはもうすでに知らない花ではなくなったと感じることでしょう。つまり、名前を知っているということだけで、知らない花ではなくなってしまうのです。

どれだけ名前を覚えたとしても、それは単にその花に名札をつけたことにしかならないのです。この自然界には、どんな名札もついているわけではありません。

後々、あなたがその花に興味を持って、図鑑などで調べてみるかもしれません。○○科といった分類のことや、そこに書いてある詳細な説明をこまかに覚えたら、それで知ったことになるでしょうか?

それもただの知識に過ぎないのです。そんなことで、その花の存在そのものを知ることにはまったくならないのは当然のことですね。

本当に「知る」とは、マインドの範疇ではなくて、ハートによるものだと理解することです。もしも、あなたが街でその花を見つけたときに、何の解釈も判断もなしに、その花のあるがままを見るのです。

そのとき、生はあなたにその花を「知る」ことを、少しだけ許してくれることになるはずです。あなたがハートを開いて、その花を受け容れた分だけ、あなたはその花自体を「知る」ことになるのです。

花についての知識と花そのものを知ることの違いを理解することですね。

気づきは言葉で表現できない

自分なりには充分に分かっていたつもりでいたのに、何かの拍子にそれまでとはまったく異なる理解がやってくるということがありますね。

それは理解の深さが違うというのか、それこそ気づきがやってきたということなのかもしれません。実は自分にとって、とても嬉しい一つの理解がやってきました。

言葉で表現すると、なんだそんなことか、それなら前々から知っていることだと言われそうなのですが、それでもそのことで私の場合には確実に楽になれたのです。

幼い無邪気な子供が、突然恥ずかしがるようになるということがよくあるのですが、それはそれまではエゴがまだなかったり、発達不足であったために自覚が曖昧だったのです。

ところが、エゴの発達のある地点から自分という存在がここにいるという明確な意識が芽生えることによって、自分は周りから見られる存在なのだと感じ出すのです。

ずっと周りを見るだけの存在だったからこその無邪気さだったものが、見られる自分というものを意識するようになってしまったからこそ、無邪気ではいられずに恥ずかしがるようになったわけです。

そこからが人間の苦しみが始まるということです。見られる自分というのは、常に他人からの評価の対象として存在するようになるため、心理的な自己防衛が開始されるのです。

恥ずかしさとは恐怖から来るものです。愛の表現であった無邪気さは、あっという間に恐怖という防衛へと変遷していってしまうということです。

今日の私の理解とは、エゴとは見られる存在であり、真の自己とはただ見るだけの実在だということです。この違いは決定的なのです。

あなたの肉体やあなたのエゴは見られたり、評価されたりする対象としてビクビク生きているのですが、その一方であなたの本質は、誰かから見られるという対象には決してなり得ないということです!

いいですか、本当のあなたは決して対象にはなれず、常に主体であるということです。

あなたの本性とは…

あなたは、あなたという存在について誰かに説明しようとするとき、あなたが所有しているものや、あなたが所属しているもの、つまりあなた自身ではないものを省いてあなた自身をどう説明するでしょうか?

あなたが所有しているものとは、あなたの財産やあなたの保持しているあらゆる記憶、あなたの家族やあなたの趣味なども広い意味ではあなたの所有しているものですね。

あなたの性格や信念信条など、あなたの人格だって最終的にはあなたが所有しているものということになります。あなたが所属しているものとは、国籍や仕事などであって、当然それもあなた自身ではありません。

さて、そうしたものをすべて脇へ置いてみて、あなた自身を誰かに説明するならどのようになるでしょうか?このようなことを一度でも、突き詰めて考えてみたことはあるでしょうか?

もしもあるのでしたら、自分自身とは一体何かを表現することはほとんど不可能だと気づいているはずです。あなたは人類に所属しているので、人間だと言えますが、それもあなたそのものではありません。

確かにあなたには身体がありますが、その物理的な肉体ですらあなたが所有しているものに違いないのです。残るあなたの正体とは一体何なのでしょうか?

余分なものをそうやって剥ぎ取っていくと、最後には何も残らないという結果になるのです。本当に何もありません。瞑想すれば、自分が人物ではないということもはっきりしてしまいます。

人物としてのあなたは、表面的なもの、他人から見えるもの、評価されうるものでしかありません。その内奥には、あなた自身もまったく知ることのなかったあなたの本性が隠れているのです。

隠されているものとは、何も無さであり、だからこそ時間や空間からもかけ離れた何かであるのです。何も無いということは、生まれもせず死にもせず、何も無さとしてただ在るのです。

それがあなたの本質、本性なのですね。

真の自由とは?

この世界には何の問題もありません。つまり、完全完璧であるということです。ただし、それは真実を見抜く洞察力を持って見ればということです。

残念ながら私たちの見方では、常にマインドがしゃしゃり出てきてストレートに世界を見ることができないために、問題だらけのように錯覚させられてしまうのです。

つまり、問題があるとしたらこの世界自体にあるのではなく、私たち自身のマインドにこそあるということです。マインドこそが、唯一の問題児なのです。

それこそが、私たちを一人の人物だと思わせ続ける張本人なのです。人物としてのあなたがいなければ、この世界は真に完璧だと悟ることになるはずです。

いやいや、自分は本当に自由気ままに気持ちよく生きている、だから自分には問題など何もないと思っている人だっているかもしれませんね。

けれども、あなたが感じている自由とは所詮まやかしの上のものでしかありません。なぜなら、本当のあなたとは今あなたがそれと信じているようなものではないからです。

それなのに、あなたは小さな肉体の中から出ることすらできずにいるのですから。それを牢獄と呼ぶ人もいるくらいです。あなたを狭い牢獄の中に押し込めているものこそエゴなのです。

真の自由とは、人物としてのあなたから自由になることです。エゴとは、他者との関係性において現れる思考群だと思えばいいのです。

あなたが真に独りになって、内側深くに没入していけば、そこにエゴが入り込む隙はありません。他者がいなければ、あなたのエゴは餌を失うのです。そこには真の自由が広がっています。

そのエゴ抜きの体験をぜひともすることです。それはヒマラヤに行かずとも、自宅にいながらにして体験することができます。それが瞑想です。

瞑想を繰り返していくうちに、少しずつですがエゴが弱ってくるのを感じることができるようになります。その平安を味わってしまったら、それを忘れるのは困難なことになるはずです。

あなたは生の有機的な一部

この生というものは、時々刻々と生まれ変わって常に新鮮なものであるのですが、この世でたった一つだけその生の瞬間に生きることができないものがあるのです。

それが私たちのマインドなのです。マインド(思考)は、いつもいつも過去の中にいるのです。過去の中にいるからこそ、私たちは人物として存在していると感じるのです。

人物としての自分とは、過去の体験の蓄積によってでっち上げられたものだからです。だからこそ、この生の瞬間をとらえることが難しくなってしまっているのです。

片や生の方は今この瞬間の連続であり、そこには時間というものが存在しないのですが、もう一方のマインドは過去から現在までの時間の中に居場所があるのです。

だからこそ、私たちは生をそのままの姿として見ることができないでいるのです。あなたという人物の目には、その歴史によって作られた様々な色眼鏡がかけられています。

その色眼鏡を通してしか、この生を見ることができなくなっているのです。そして、その色眼鏡は、とても個人的なものであるために、各人が見ている生はそれぞれ違うものなのです。

本当の生はたった一つしかないのですが、誰もが独自の生の中で暮らしているのです。あなたの体験と反応による記憶を一時的にも見ないでいられるならば、あなたは自分が人物ではないと気づくはずです。

その時にこそ、真実の生により近づくことができるのです。そして、その感覚によれば、自分そのものがその生の一部であるということに行き当たるのです。

そのときに、本当の自分から孤独というものが消失してしまうのです。あなたは、この広大無辺な生の有機的な一部であるということです。

それがどれほど満ち足りたものであるか、瞑想によってそれを一瞬でも見ることができたなら、必ず何か大きな変化が向うからやってくることになるはずです。

真実は分かち合えない

科学が日々進歩し続けるのは、その理論や法則を誰もが共有できるからですね。ニュートンが万有引力の法則を発見したおかげで、人類は月へ行くこともできたわけです。

それは彼一人の発見を、他の人々によっても検証されて、誰もがその法則を利用できるようになったおかげです。アインシュタインが発見した相対性理論だって、力量のある人ならそれを学ぶことが可能です。

だからこそ、科学は素晴らしいし、そのおかげで益々発展していくことができるのです。ところで、2600年も前にブッダが光明を得たことは有名ですが、一体どれだけの人がその恩恵にあずかることができたでしょうか?

残念なことに、真実というものは科学のように共有することができないのです。だから、ほとんどの人にとって、ブッダの成果を受け取ることができないままでいるのです。

真の宗教とはそのように全く個人的なものだということが分かりますね。今の宗教において、私たちが共有できるものと言えば、聖書やコーラン、ウパニシャッドのような教典の内容でしかないのです。

それは決して真実ではありません。科学が共有できる理由は、それが思考をベースにしているからです。我々は思考を使うことで、言葉や客観的な実験を理解し合えるのです。

一方、真実は思考を遥かに超えているのです。だから、科学のようには分かち合うことが不可能なのです。言葉で伝えられることは、それがどれほど素晴らしい内容であっても思考の領域に留まるのです。

本当の宗教とは、私たち一人ひとりの内奥深くにあるものであって、決して言葉や文章で表現できるものではありません。だから真の導師が弟子に伝えるのも、言葉ではあり得ないのです。

それは、如何に真実を見えなくしている個人個人のバリアを剥ぎ取るかということなのです。そのバリアこそが、昨日のブログで書いた、私たちがこれまで培ってきてしまったあらゆる知識や常識なのです。

知識は思考に活力を与え、その思考が更なる知識を獲得するといった悪循環を生むのです。あなたがマインド(思考)優位の毎日を送っているなら、それだけバリアは厚くなり、真実から遠ざかることになるはずです。

それを非宗教的な人と呼ぶのです。もしもあなたが教義や教典にしがみついて、それを信仰するなら非宗教的な人になってしまうでしょうね。

真実はあなたの外側にはあるのではなく、最も個人的な領域のまたその奥に隠されているのです。隠しているのは、他でもない私たち自身なのですね。

ただ在る自分となる

私たちには、人生の中で様々な教師との出会いがありますね。その沢山の教師たちから、多くのことを学んでいくわけですが、人生最初の教師は一般的には両親であるはずです。

親という教師から与えられた教育の影響は絶大なものです。なぜなら、何も知らない無垢な状態のところに新しいルールなり考え方を教わるわけですから。

真っ白なキャンパスに、親の色付けが進んでいくのです。そこで、自分はどのように生きて行けばいいのかという基本中の基本を描き記されるのです。

その後成長するにしたがって、学校の先生という教師に学業を学び、周囲の友達から人と共に協調しながら生きて行く方法なども会得するのです。

そして、社会という大きな教師からも学ばされていくのです。これらの教育のすべてから、どのようにして立派な社会の一員となっていくのかということを教え込まれることとなるのです。

このようにして、私たちは本当に幼い頃から継続して教えられ、知識を増やしていくということを経験するのです。捨てることよりも、手に入れることが上手になるのも無理はありません。

このような学びは勿論必要なことです。それなしには、誰もが動物のような人生を送ることになってしまうからですね。ところが、誰からのどんな教育も、その根っこにはエゴの策略が潜んでいるのです。

エゴの隠された教育の目的とは、私たちをして闘い続けさせようと目論んでいるのです。闘えば、その人の人生は必ず負けることと決まっているのです。そして苦しめば、それだけエゴは生き生きとなるのです。

人生の中で、こうしたことに早く気づいて、それまで着々と培ってきた教育の中身を捨てて行くことこそが、本当の本当の学びなのです。

捨てるというと印象が強いですが、単にあなたの信念信条、考え方、ルール、正しさ、社会でどう生きるかなどをできる限り脇へ置いて、それにエネルギーを与えないようにするということです。

そして自分自身にできるだけ正直になることです。正直であるがままの自分を、それがどんな自分であろうとも丸ごと受け止め続けるのです。

そうすれば、エゴは自然と衰退していき、生そのものと一体感を持った毎日を生きることになるはずです。これ以上詰め込む人生の代わりに、今この瞬間にただ在る自分となることですね。

技術革新は興味深いけど…

最近、自動ブレーキ機能を搭載したクルマのコマーシャルをやたら見るようになりましたね。要するに、障害物を検知して、自動的にブレーキがかかるシステムです。

更には、ちょっと前でしたら夢のまた夢だったはずの、自動運転システムの技術も、実用の段階に入りつつあるなどという噂を聞いたこともあります。

技術革新というのは、本当に素晴らしいですね。今や、ハイブリット車は当り前になりましたし、今年新しく登場するトヨタの新型プリウスなどは、燃費が JC08 モードで40km/L を上回るかもしれないらしいです。

まだまだ主流にはなっていない電気自動車についても、将来的には道路の下に充電装置が埋め込まれて、走りながらも非接触で充電できるようになるそうです。ガソリンスタンドのようなものが不要になるということですね。

いつまで経っても酒酔い運転が後を絶たないなら、運転席に座ると自動的に運転手のアルコールの血中濃度を測定して、不合格の場合はエンジンがかからない装置などが開発されればいいと思うのです。

こうした技術の進歩が人を幸せにするとは全く思いませんが、それでもより快適により便利になることは間違いありませんし、理屈抜きでどうなっていくのかとても興味があります。

自分自身長生きしたいとは思っていないのですが、今後世界がどのような驚くべき革新を遂げて行くのか、それを考えると生き延びて見てみたいと思ってしまいます。

ただし、自分の経験と照らし合わせて冷静に考えたときに、例えば音楽でいえばレコード盤はいつしかCDになり、そこにMDが加わり、そして更にケータイなどの小さなハードディスクに入れておけるように進化しました。

すごく便利になったのですが、それが今ではごく普通のことになってしまっているのも事実です。そうやって、私たちは何がどれほど便利になったとしても、すぐにそれに慣れてしまうのです。

そのことを忘れないことです。そして、世の中がどれほど進化したとしても、自分の内奥深くに入ることなしには、誰も真の至福の中に入ることはできないのですね。