社会の強者は癒しにくい

人生の中で、優位になれるような技術や、知識、資格や立場、人から高く評価されるような実績、こういったものを持ってしまうと、その人は非常に癒しが難しくなる傾向があるのです。

それはなぜかというと、そういうものに気づかぬうちにしがみついてしまうからです。本人はしがみついているなどとは決して気づくことがありませんが…。

例えば、「先生」などと呼ばれるような職業や立場だったり、アカデミックな知識を身に着けて、それを仕事にしているような場合などですね。

そういったものは、すべてがその人にとってのかけがえのない自己防衛の手段として使われてしまうために、本人の自覚のないままに執着が起きてしまうのです。

何かにしがみついている人は、そこから抜け出すことができないために、癒しを邪魔されてしまうのです。かえって、社会の弱者だと感じている人の方が、素直にセラピストの声に耳を傾けやすいのです。

それは当然のことですね。自分が変わっていくための最大の要因は、万策尽きたと感じるときや、何をやっても八方塞がりだと思えるようなときです。

自分には、「これ」がある限りは、社会の弱者なんかではないという自負があると、これまで培ってきた自分の正しさや信条、主義などを簡単には捨て去ることが難しくなるのです。

あなたの問題は、外側からやってくるのではなく、あなたのど真ん中にその種子があったのだということに気づかなければ、どうしようもないのです。

しがみついてきたものを捨て去ることはとても困難なことですね。それでも、不可能なことではありません。自分の奥深くに隠している本当の惨めさに気づいてあげることです。

その傷から目を逸らさずに、徹底的にそれを見てあげることです。

旬なときがある

若い頃に、映画を観るのが結構好きだったのですが、その頃に観て何だかつまらないなあと思っていた映画を最近になって再度観たときに、意外に面白く観ることができたということがあります。

映画の微妙なニュアンスだったり、淡々として刺激が少ない部分などはきっと、若い頃には退屈なものと感じてしまっても仕方がなかったのだと分かるのです。

映画そのものは何も変わっていないのに、自分の内面の変化によってどう反応するかが大きく変わってしまうということの表れですね。

またかつては、よくテレビでドラマを観ていました。今でも沢山思い出せるくらいですので、相当に興味を持って観ていたのだろうと思うのですが、最近は全く観なくなってしまいました。

全然食指が動かないというのか、大方予想がつくし、登場人物が病んでいればいるほど面白いということが透けて見えてしまうということもあるのかもしれません。

また、本にしても同じですね。会社員のころから、本屋さんに行って osho の本がずらりと並んでいるのを見かけていたのをよく覚えているのです。

それなのに、何度か手に取ってパラパラと見た記憶もあるのですが、結局買って帰ることは決してなかったのです。きっと、あの頃たとえ読んだとしても今のように心の奥深くに響いてはこなかったのだろうと思います。

タイミングというものがあるのでしょうね。セッションにおいても、似たようなことを感じることがよくあります。セッションを受け初めの頃のクライアントさんと回数を重ねた後のクライアントさんでは雲泥の差があるのです。

私自身は、いつも同じようなことを繰り返しているにも関わらず、クライアントさんはあたかも初めて聞いたとでも言わんばかりの反応をされることがよくあります。

そんな時、これ前々から何度もお伝えしてきたことなんですけどね…、と言うのですが、あまり本気にはして下さらない場合もあるくらいですから。

ある人にとって、その瞬間にのみ、ベストで響く言葉だったり経験というものがあるのですね。それこそが、本当の宝物なのです。誰にとっても、どんなときでも一定の宝物というものは存在しないということです。

何にでも、旬なときがあるということですね。

徹底的に受け止める

私は来る日も来る日も、セッションの中で「自分を受け止めること」を繰り返し提唱しています。それを是非とも実践して下さいと言い続けています。

それを実践することの効果には、本当に計り知れないくらいのものがあるからです。マインドを直接変えようとすること自体がエゴであり、マインドから抜け出ることこそが真の救いなのです。

生きてきたあらゆる局面で訴えたかった想い、自分自身にも隠そうとしてきた本音、そうしたものがマインドの中には無数に渦巻いているのです。

表面にあるものだけでも沢山あるのに、抑圧されて隠されているものはその何十倍もあるはずなのです。それをできる限り、丁寧に一つひとつ拾い上げてあげるのです。

受け止めるためには、そうするしかありません。それは、他の55言い方をするなら、それらの存在を見てあげるということになりますね。存在していることを認めてあげるのです。

どんな惨めな想いであろうと、どんな卑劣な考えであろうと、決して認めたくない恥ずかしい自分であろうと、なんであろうがただ見て、それを受け止めるのです。

問題となる部分を直接改善しようとする代わりに、ただその存在をありのままに見て、受け止めるだけでいいのです。その間接的な方法こそが、問題を解消する最大の方法なのです。

問題を解決しようとするエゴの努力の代わりに、問題が自動的に解消していくようにするということです。そのためには、マインドから出ることしかありません。

マインドから出て行くというのではなく、ただ見て真に受け止めるなら、自動的にマインドの外にいることになるということです。

徹底的にこの実践を続けることです。あなたの意識が、マインドの中よりも外にあることの方が増えて来れば、痛いのに痛くない、暑いのに暑くないという経験をすることも可能になってくるのです。

そうしてこれまで人物としての自分が100%で生きていたものが、人物(マインド)とそれを見る側(無思考)に別れて、その間にすき間ができてくるのです。

その結果、間違いなく深刻さを持ち歩かなくなるでしょうし、人生を物語として見ることが本当にできるようになるはずなのです。

これ以上エゴに餌をやらない

あなたという人物が、あなたの人生の主役として、その中心的存在であるのなら、あなたのエゴは常に活力あふれる状態であると言って間違いありません。

あなたが人生をリードしているということが、あなたのエゴにたっぷりと餌を与え続けることになるからです。あなた独自の思想、生き方、社会での活躍などが、正にエゴを成長させているのです。

さらに言えば、あなたが闘っていれば、そして自己防衛に終始していれば、その結果あなたが苦しめばそれだけエゴは肥え太ることになるのです。

エゴが左うちわで余裕しゃくしゃくの人を時々見かけます。どれだけ、エゴにとって都合のいい生き方をされているんだろうと思わずにいられません。

実在しないエゴは、とにかく自分が存在するということを証明したいのです。うかうかしていると、やっぱりいなかったということがバレテしまうからですね。

もしもあなたが本当に満ち足りて、心から晴れやかで幼い子どものように無垢な気持ちで生きるなら、それこそあっという間にエゴは餓死することになるでしょう。

今日からエゴの言いなりになることをやめて、反対にエゴが衰えていくような生き方に変えるつもりはありませんか?もしもその覚悟があるのでしたら、いくつか方法があります。

その一つは、行動型の生き方を少し見直すことです。大した用事でもないクセに、あれをしなければいけない、これをやっておかねばならないと言って、常に動いてしまうことをやめてみるのです。

本当にしなければならないことなど、そうそうあるものではありません。何かをしなければという思いがやってきたときに、そのことに気づくことです。

そして、その思いに巻き込まれずにただそれを見ているのです。ただ見ていることがとても大事なのです。そうやってエゴの誘いを無視するのです。

相手にされないと、その分エゴは餌をもらえないことになるのです。それができるようになったら、あなたは退屈するようにもなるはずです。

退屈がやってきたら、これも次のステップへのチャンスだと思って、その退屈をただただ見ているのです。誘いにのって何かをしないでいるようにすることです。

徹底的に退屈を感じきればいいのです。それができたときに、退屈という感覚がエゴの仕掛けた罠だったのだということを理解することができるでしょう。

これだけで、あなたのエゴは半分以下の勢力に減退していくはずです。それに比例して、あなたはそれまでと比べられないくらいに、自分の内面に気づけるようになるはずです。

そうしたら、瞑想三昧できるようになりますね。

苦しみの種はどこに…

日々のセッションの中で、クライアントさんは様々な訴えをされるわけですが、そのうちでも一番多いのが自分の身に起きたこと、特に他人にどうされたかというお話しが多いのです。

たび重なる不満を訴えたいその気持ちは、充分に分かるしそれなりに受け止めることもできるのです。けれども、どんな目に遭ったのかというところに視点がある限り、癒しを進めることはできないのです。

ご本人の中では、されたことこそが、自分が苦しむことになった原因であると判断しているのでしょうね。誰だって、誰かに理不尽なことを言われたりしたら、傷ついてしまうのですから。

ところが、ここでどうしても気づかねばならない大切な事柄があるのです。他人があなたにしたことが、あなたの苦しみの原因ではなくて、それは結果に過ぎないということです。

原因はどこにあるのかというと、すべてがあなた自身の内面に隠されているのです。その隠されたエネルギーこそが、他人をしてそのような働きかけをあなたに対してさせたと見抜くことです。

そしてそのエネルギーというのは、あなたの過去のどこかで体験したことが原因となって、不当に溜め込まれて解消されずに残っていたものなのです。

つまり、整理するとこういうことです。

1.過去に何等かの理由で否定的なエネルギーが溜め込まれた
2.そのエネルギーが他人を引き寄せて、その人に同じエネルギーを誘導させるような言動を起こさせた
3.それによって、あなたは不快で苦しい思いをすることになった

多くの人々は、事柄の表面部分である、この2.の後半部分だけを見て、自分が被害に遭ったと思い込んでしまうというわけです。

それでは、あなたは他人の奴隷の立場から永遠に解放されることができないということになって、どこにも希望は見い出せなくなってしまいますね。

本当は、1.の部分からすべてが始まっているのです。すべてはあなたの内奥のどこかに、あなたが苦しむ種が隠されているということです。これは、朗報ですね。

なぜなら、あなたさえそのことに気づけば、人生を変えて行けるということになるのですから。

自分(自我)が死ぬまでは…

大したこともせずに、ただ日々を生きてきただけでも少しは気づきがあったりして、その度に何となく自分はダメだなあと思っていたことが少しずつ小さくなっていったのです。

例えば、10代の若いころは、自分はなぜ人を本当に愛することができないのだろう?と思っていました。人としての能力のどこかが少し欠落しているのかもしれないとも思ったりしてましたね。

けれども、自分という人物がいる限りは、決して真の愛に気づくことはあり得ないということが分かって、ホッとすることができました。それで愛のない自分でもOKが出せるようになったのです。

また、大人になって社会人になって、何を成し遂げたとしても、そこからやってくる達成感がひどく乏しくて、せいぜい一晩も経つとどうということもなくなってしまうということが多々ありました。

随分と損な性分だなと思っていたのですが、今となってはそれは当然のことだったと分かるのです。達成感というのは、まだ達成していない過去の自分と現在を比較した時にこそやってくる感覚なのです。

従って、達成感が長持ちするということは、過去を強く引きずって生きていることの証しなのです。過去を忘れた人には決して達成感などないのですから。

そして最後にもう一つ、心の闇をいくら癒したとしても、それでも尚心の中には何かが足りないという満たされない思いというものが残ったのです。

それではセラピーも意味がないのではないかと悩んだこともありました。けれども、結局は払拭できない不安や欠乏感というのは、自分(自我)がいる限りは、決してなくならないのだということに気づいたのです。

勿論そのことに気づいただけで、楽になったわけではありませんが、それでもそういう自分はそれで在る以外には方法はないということが分かって、穏やかな気持ちでいられるようにはなったのです。

そしてとうとう最後に残されたこと、それは自分(自我)が死ぬまでは何をしてもしなくても同じだということ。どんなに腹をくくっても、ここから先はやっぱり難しいのです。

日々瞑想をすることだって、それを自分にさせているのは自我そのものであって、そうやって自己探求を続けることこそが、自我を強めているということも確かなのです。

万策尽きるところまで行くしかないのですねきっと。

どん底に突き落とす

セラピストの立場としては、何であれクライアントさんにはセッションにいらして欲しいというのが本音なのです。なかなか難しいなと感じるクライアントさんであってもです。

けれども、ごくたまにはこちらの方からセッションをお断りするというケースもないことはありません。昨年もありましたし、一昨年もそうしたケースがあったと記憶しています。

それは、激しい依存だったり、こちらの意向を無視して自分勝手な癒しの方法を続けようとしたりと、そのような場合、時間とお金と労力の無駄だからという理由で、ご予約をお断りしたのです。

そして最近では、そこまではっきりとお断りするのではないのですが、暗にこの状態ではセッションをしても効果がないということをお伝えすることもあるのです。

というのも、これまでクライアントさんが培ってきた正しさや信念信条、そうしたものにしがみついている状態では、どうやっても癒しを進めて行くことができないと感じるからです。

それが分かっていながら、何となく来てほしくて曖昧な表現をするのも、正直さに欠けるなという思いが強くなってきたからなのです。

人生の勝ち組であるという思い込みや、競争に勝ち抜いてきた結果などにしがみついている状態では、けっして癒されないと分かるからなのです。

そのような場合には、もっともっととことんまで参ってしまうとか、命に関わるような病気になったり、耐え難いような苦しみがやって来て初めて、ご本人のしがみつきが弱まることでしか、道はないのです。

どん底に落ちていただくためにも、かなり冷たく突き放してしまうということも場合によっては必要なのです。きっと、ご本人に気づきがやってくるまでは、相当に恨まれることになるでしょうけれど…。

最近になって、ようやくそういうことができるようになってきたのです。誰でも長年やり続けていれば、少しは進歩もするものなのですね。

瞑想がカギ

最近どういうわけか、セッションにいらっしゃるクライアントさんの中に、瞑想に興味がある、瞑想をやってみたい、そう言って下さる方が増えています。

時代の流れなのか、何かのウエーブがやって来ているのか分かりませんが、とにかくセッションの最後の方で瞑想の話題が出ることが多いのです。

私としては、願ったり叶ったりのことなので、すぐに自分がセッションをやっている本当の目的は、誰もが瞑想をできるようになってもらうことなのだと伝えます。

少しびっくりされる場合もありますが、すぐその場でじゃあ一緒に瞑想をしてみましょうとなることも増えてきたのです。

瞑想の目的は、いろいろ言えるのですが、一番簡単な表現を使えば、自分の本質に気づくためということになりますね。それがどういう意味なのかは、また少し説明する必要がありますが…。

昨日のブログでもお伝えしましたが、今の自分が人生の主役の座でいる限りは、人は人生を充分に生きることができないのです。

自分を改善しようとするエゴの働きかけから抜ける必要があるのです。そのためにも、瞑想がどうしても必要なのですね。中には、瞑想がいらない人々もいるでしょう。

その人たちは、十全に生きて、十全に愛し、十全に祈ることができる人々です。彼らは、その生き方自体が過去にエネルギーを残さないので、生を完全に生きることができるのです。

けれども、一般的にはマインドにコントロールされた不完全な人生を生きているのです。その場合には、瞑想によって自分の奥深くへと入る必要があるのです。

もしもあなたが、瞑想をしたくてもできないでいるのでしたら、セラピストの力を借りてでも癒しを進めることです。そうして、マインドのエネルギーがある程度治まった時にこそ、瞑想をすることができるようになるのですね。

ただ見ることに徹する

人生というのは、本当に皮肉なものだと思うのです。これ以上の悪い冗談はありませんね。なぜなら、人は誰もができる限り生き生きと満ち足りて、清々しい生を送りたいと望んでいるのです。

けれども、それを阻んでいるのは唯一それを心から望んでいる自分自身だからです。他には何一つありません。正直言って、真にそのことに気づいてからまだ10年は経っていないかもしれません。

そのことをつらつら思うと、誰もが人生の中で尤もらしく生活しながらも、ある意味悪あがきを続けているということがよ~く見えてしまうのです。

そして残念ながら、そういう私自身もまったくその悪あがきから足を洗うことができないでいる一人なのですから。その悪あがきから本当に抜けるためには、自分が死ぬ以外ないのです。

だから皮肉なストーリーだというのです。あなたが夢も見ずに熟睡した後、何とも気持ちがいいのは、その間あなたがいるという自覚が喪失していたからに違いありません。それはつまり、一時的な死の状態です。

熟睡している間、あなたが居ずに無欲だったからです。無欲とは、マインドが停止している時にしかやってきません。それがどれほど心地いいものかは、誰もが薄々気づいているのです。

けれども、目覚めた瞬間から、またすぐにマインドが立ち上がって、どうしたら幸せになれるのだろうかという欲望の中へと私たちを連れて行くことになるのです。

あなたが幸せに向かって頑張れば頑張るほど、それだけあなたの欲とマインドは成長してしまうのです。これほどの逆説的な現実は他にありません。

それじゃあどうしたらいいのか?どうしたらその悪あがきを止めることができるのか?一つ言えるのは、このどうしたら悪あがきを止めることができるのか?という思い自体が、悪あがきそのものだと気づくことです。

悪あがきを徹底的に注視することです。それをただ油断せずに見ていること、それにしっかりと気づいていること、それだけでOKだし、それ以外はすべてマインド(エゴ)の作戦に巻き込まれることになるだけです。

ただ見ているなら、見られているエゴは次第にエネルギーを弱体化させていくはずです。それは求める結果としてではなくて、成り行きとしてそうなるのです。ただ見ることに徹するのです。

「する人」から「在る人」へ

一般論ですが、人は何か目標になるものを持っていた方がいいと言いますね。その目標を達成するために、頑張ることができるからです。

戦前、そして戦時中は立派な軍人になって、祖国のために闘うということがありました。そうなると、男性はかなりの低年齢から士官学校を目指して頑張るようになったりしたのです。

誰もが認めてくれるような立派な目標があれば、人はぶれずに頑張ることができるということのいい例ですね。でも、今の若い人はそういった国を挙げて目指すような目標がないので、可哀想だという人もいます。

私自身は若い頃から、人生に目標となるものを持ったことが一度もありません。何となく学校を受験して、周りの誰もが働く年齢になったから、自分も就職するというように、ごく普通に生きようとした結果そうなったのです。

自分独自の目標など、一つもありませんでした。なんたって、幼い頃の目標が「楽隠居」だったのですから。もうすでに、そのころから社会を恐れて敬遠していたのでしょうね。

未来に対する明るい希望など、何も持ってはいませんでした。だからといって、暗く沈んだような人生を生きてきたわけでもないのですが…。

ただ、何かを成し遂げるということとは無縁の毎日だったことは確かです。そして今では、マインドの中をいくら探し回っても、やはり目標はないという結論が出てしまっています。

それはもしかしたら、自分にとってはある種の幸運だったのかもしれないと思うのです。外側にやることが何もないのですから。そうなると、「する人」から「在る人」への移行が起こりやすいと思えるからです。

私もまだまだ、「する人」の部分を持ち歩いていますが、少しずつですが、「在る人」へと変わりつつある自分に気づくこともできるのです。

このことは仏陀がずっと言い続けてきたことらしいですよ。あなたの本質は、することではなく、ただ在ることだとね。