人生と闘わない

もう何度も繰り返し、このブログでお伝えしていることですが、やっぱり言わずにはいられないのです!人生と闘うことを是非止めていただきたい!

やめたくてもやめられないという気持ちは、充分に分かったうえで、再度言いたいのです。『闘っている人は、必ず負けることになり、闘いをやめた人だけが勝利する。』ということです。

このことを肝に銘じて欲しいのです。闘って、どれほど勝利を収めたとしても、それは一時のことであって、それで満たされるということは決してありません。

あなたが闘っている限り、それが勝っても負けてもどちらにしてもエゴの最高の餌になるということを憶えておいて欲しいのです。

闘っている限り、あなたのエゴは安泰であり、逆にあなたの人生は消耗していくことになるのです。闘いの人生には、愛の要素がひとかけらもありません。

なぜなら、恐怖が闘いのエネルギー源だからです。あなたが、闘うことから足を洗うことができない理由は一体何でしょうか?そこを明らかにする必要がありますね。

この社会は戦場だという表現がありますが、それこそが闘っている人々にとっての言葉なのです。それはお金のためですか?闘わずして豊かになれないと思い込んでいるのかもしれません。

闘っている人の内面が豊かではないことは、きっと誰もが知っていることですね。なぜなら、彼の心には余裕がないのですから。安らいだ気持ちでいることはとても難しいことなのです。

あるいは、闘いの目的は自分の価値を見出すためでしょうか?頑張って結果を出して、誰かに認めてもらうことでしか、生きていけないと思い込んでいるのかもしれません。

まず勇気を持って、少しずつ闘いに使っていたエネルギーを緩めて行くことです。始めは恐怖がやってくるでしょうけれど、そのうちには思ったほどではないと気づくはずです。

あなたが闘いに使っていたエネルギーのうち、半分でも楽しみに使うことができるなら、人生はすっかり変わってしまうでしょう。

闘う分だけあなたには敵が現れるはずです。その逆に、闘いをやめて、無防備になればそれだけ周囲はあなたに微笑んでくれるようになります。本当ですよ。

まずは力を抜いて、この生を信頼してみることです。結果など放っておいて、それこそ let it go ですね!

「気分」を見つめる

誰でも不自由な状態よりも、より自由でいたいと願っていますね。私たちは幼い頃から自由であろうとしたのですが、残念ながら周囲からの圧力によっていつかは負けてしまうのです。

つまり、自由と安心を天秤にかけて、不自由であっても安心していたいと思うようになるのです。そこから、ずっと不自由さが付きまとう生活となるのです。

勿論、手に入れた安心だって一瞬のものであって、すぐに不安な状態へと戻されてしまうのです。結局、自由も安心もどちらも手には入らないのです。

私はあるときから、自分の自由をできるだけ追及する人生へ変えようとして、ある程度はそれが実現しました。といっても、その自由さとは自分の外側に関するもの、物理的なものに関してなのです。

朝何時に起きるとか、どのような一日を過ごすかなどです。会社員の頃と比べたら格段に自由度が広がりました。その点はよかったのですが、内面の自由さについてはそれほど変化はないのです。

そして、真の自由とは人から見えない部分、自分の内側の自由さにこそあるのだと分かったのです。今私が一番不自由だなと感じているのは、どこからともやってくる自分の「気分」に対してなのです。

この「気分」というのがとてもクセモノで、最終的にはそれの奴隷状態にあるなと自覚したのです。どんな理由にせよ、気分が悪くなるとそれを立て直す気にもならなくなるのです。

例えば身体の具合が悪いのも苦手ですが、それは具合が悪くなると気分が悪くなるからだと気づいたのです。ちなみに、身体の具合が悪くても、ごくたまに気分が悪くない場合があって、その時は自由さがあるのです。

この眼には見えない「気分」というものを徹底的に見ることによって、自分から切り離すことができればいいのですが、長い間のクセで気分が悪い自分というものと同化してしまうのですね。

努力して、気分を変えようとしたこともありましたが、この方法は今は使わないようにしています。なぜなら、それは本質的な解決にはならないからです。

単純に気分との同化を落とすことこそが、唯一の方法だと感じるのです。「気分」が恥ずかしくなるくらいに、凝視し続けてあげることですね。

気づいている訓練

今年一年を通して、是非続けて行きたいと思っていること、それは去年に引き続いて、毎瞬毎瞬に気づいているということです。言葉で言うは易しなのですが、これが実に難しいのです。

難しい理由の一つには、そもそもそのことを忘れてしまうということがあります。テレビを見ている時、本を読んでいる時、誰かとお話しをしているとき、すぐに「気づき」を失ってしまうのです。

独りでいて、特別何もせずにいるときには、それを思い出して今この瞬間にただ在ることはできるのですが、それもほんの少しの間だけ。すぐに忘れてしまいます。

その忘れ方といったらもう、本当にいやになってしまうくらいです。毎朝30分程度クルマを運転して、スポーツクラブに行くのですが、自分では絶好のチャンスだと思っていながらも、忘れてしまうのです。

右側通行をしているダメな自転車だとか、クルマを気にせずに道路を横切る歩行者、そうした諸々に少しでもイラッとさせられてしまうと、たちまちのうちに忘れてしまいます。

それでもなおしぶとく続けて行こうと思う理由は、その瞬間に気づいていることによって、より意識的でいられるようにするためです。

注意深くいて、常に意識を保っていられれば、それだけ無意識のマインド部分が少しずつ意識へと持ち上げられていくからです。

動物は完全な無意識であり、光明を得た人は完全に意識的であるため、どちらも苦悩というものがありません。私たち人間だけが、約一割だけが意識的で残りの部分は無意識なのです。

だから常に葛藤を抱えているのです。もしも、人間としての苦悩から解放されたいのであれば、動物に戻るかその反対に光明を得るかのどちらかしかありません。

今年一年かけて、どれだけ気づいていられるようになれるのか、一年後に覚えていられたらこのブログでご報告したいと思います。

ただ「待つ」ということ

よく言われることですが、男性性は攻撃的であって、その逆に女性性は受動的であるということがありますね。これは実際に男性か女性かということではなくて、男性性と女性性の違いなのです。

私たちが持っている五つの知覚の中でも、ひときわ攻撃的なものが視覚です。目力なんていう言葉もあるように、見るということは能動的であり、場合によっては攻撃的でもあるのです。

あの人誰かに似てるなあ、などと思って見ていたら、それがその人に知られて怪訝な顔をされるなんてこともあります。あれは、その人にとって何となく攻撃されてるようないやな感じがしたからなのでしょう。

だから男性の多くは、知覚の中でも視覚がダントツ一位で使われているのです。狩猟が主な役目だった男性が視覚を主に用いるのも当然かもしれません。

その一方で、聴覚、味覚、嗅覚というのはどれも受動的なものです。外側からやってくる刺激を受けとって、それを感じるものだからですね。

そのために視覚のような方向性というものを持たずに、常に自分が刺激の中心にいるのです。例えば、街の雑踏の中にいれば、自分の周囲からやってくるあらゆる方向からの音を聞くことになりますね。

だから受動的な女性の場合は、視覚よりも聴覚などをメインに使っているのです。女性が男性のいい声などに魅了されるのは、そういう理由があるのです。

触覚だけが双方性というか、能動的な部分と受動的な部分のどちらもあると言えます。で、今日は本当のところ何が言いたいのかというと、攻撃性こそがエゴであり、受動的なことこそが覚醒への道に必要だということです。

つまり、女性性が持っている受動性、その中でも「待つ」という特性、それがなければ私たちは自分の本質への気づきを得ることはできません。

エゴ丸出しの子どもや男性性は、「待つ」ことがとても苦手ですね。受動性の行きつくところは、ただ待つということです。実は私は今もって待つことが苦手なのです!

何かを当てにして待つということではなく、ただ「待つ」ということを通してエゴは自然に落ちて行くしかなくなるのです。ただ「待つ」という態度、今年はそれを探ってみようと思っています。

生の神秘

明けましておめでとうございます!

今年も変わらずに、このブログを書き続けて行くと思いますので、お時間のあるときにでも読んでいただけたら、もうそれだけであり難いです。

ほんの数時間前のことですが、久しぶりに家族が集まってみんなで紅白歌合戦を見ていたのですが、耳慣れた大好きな曲が流れてきたので、おお?と思って…。

とはいうものの、本当はそれが誰の何という曲なのかも知らずにいたのです。ただ、Youtube などで泣かせる動画シリーズを見ていると、よく使われている曲がそれだったのです。

で、その曲が中島みゆきの「糸」という曲だったのだと分かったのです。きっとすでにみなさんは、ご存じかもませんね。その曲を聞くと、すぐに泣けてくるのです。

先ほど、速攻でネットからダウンロードしてしまいました。今調べたら、1998年に発売されたもので、結構古い曲なのですね。この曲は、メロディも素晴らしいですが歌詞もいいのです。

なぜ めぐり逢うのかを
私たちは なにも知らない
いつ めぐり逢うのかを
私たちは いつも知らない

だから人生というのは、素晴らしいのですね。どうなるのかが分かっていたら、それこそ興ざめしてしまいます。生はいつだって絶妙なタイミングで、私たちに未知なる人生をプレゼントしてくれるのです。

今年あなたにやってくる生が、たとえどんなものであろうと、それがあなたにとって最も価値のある生であるのです。その気づきさえ起これば、生の神秘を独り占めしてしまうこともできるのです。

激しく生きる

– osho –

あなたは生命を持っているだろうが、生きてはいない。そして、いつか死ぬだろうが、死にはしない。なぜなら、あなたの中のすべてがなまぬるいからだ。生きているって?いや正確ではない。ただ引きずっているだけだ。何となく、ただ何となく自分自身を引っ張っているのだ。

力の限り激しく生きるのだ。生命のキャンドルを両端から燃やしなさい。激しく激しく燃やしなさい。一秒で燃え尽きたらそれでもよい。少なくともそれが何であるかを知るであろう。激しさのみが貫かれる。激しい人生を生きることができれば、異なる質の死を得るだろう。なぜなら、そのとき人は、激しく死ぬからだ。人生がそうであれば、死もまた同じだ。引きずって生きれば、引きずって死ぬ。人生を見失えば、死もまた見失うだろう。力の限り激しく生きなさい。すべてを賭けるのだ。なぜ心配するのだ。なぜ未来のことを心配するのだ。この瞬間こそがそこにある。自分の存在のすべてをそこに持ってきなさい。激しく、すべてをもって、完全に生きるのだ。そうすれば、この瞬間が啓示になる。そして人生を知るとき、死を知ることになる。

これが神秘の鍵だ。人生を知れば、死を知ることになる。人が死が何であるかを問うとき、それは、自分自身が生き抜いていないことを意味する。なぜなら、深層では生と死がひとつだからだ。人生の神秘とは何だろう。人生の神秘とは死だ。愛しているとき、愛の神秘とは何だろう。死だ。瞑想するとき、瞑想の神秘とは何だろう。死だ。

美しい激しいものが起こるとき、それはいつも死を通して起きる。人は死ぬ。自分自身を完全にそこに持っていき、そして他のすべてを背後にして死ぬ。あたかも自分がそこにいないほどに激しくなる。自分がそこにいれば、その激しさは完全になりきれず、ふたつがそこにあることになる。人を愛するとき、恋人がそこにいれば、愛は激しくなり得ない。深く、完全に愛するのだ。恋人が消えてしまうほどに。そうすれば、自分がエネルギーの動きになる。そのとき、人は愛を知る。人生を知る。死を知る。

この三つの言葉には深い意味がある。愛、人生、死。それぞれの神秘は同じだ。もしそれらを理解したら、瞑想は必要ではなくなる。瞑想が必要なのは、これらが理解できないからだ。瞑想とはスペアの車輪だ。真に愛するとき、それは瞑想になる。愛さないとき、そのときは瞑想せねばならない。真に生きるとき、それは瞑想になる。生きないとき、そのときは瞑想せねばならない。そのとき、何か別のものを足さねばならない。

しかしこれは問題だ。深く愛せない人間が、どうして深く瞑想できよう。深く生きられない人間が、どうして深く瞑想できよう。問題は、愛でも瞑想でも、また死でもない。それは、いかにして深みに向かっていくかということだ。深さこそが問題なのだ。

何かに向かって深く進むとき、人生は表面にあり、死が中心に来る。花を見ることでさえ、完全に見つめれば、花を見ることの中ですべてを忘れれば、花の中に死ぬ。同化することを経験する。融合することを経験する。突然に、自分が自分でなく、ただ花であることを感じる。

瞬間ごとに、あたかもそれが最後の瞬間であるかのように生きなさい。誰が知ろう。それが最後かもしれない。

お金にまつわる話し

お金はないよりも、ある方がいいですね。お金を嫌っているという自覚のある人はほとんどいないでしょう。誰だってお金は好きなはずです。

けれども、そうした自覚はともかくとして、各人の無意識の中でお金のことをどう思っているのかということになると、実に千差万別であると言って間違いありません。

それはまさしく、幼い頃からどのようにお金と関わりを持って生活してきたのかということに、強く影響を受けてしまうということなのです。

もしも、あなたの親がお金に苦労をしているところを見てきたならば、いい悪いは別にしても、お金に対して平均以上の関心を持つようになるはずです。

つまり無関心ではいられなくなるということです。場合によっては、お金を敵対視してしまう可能性も充分にあるのです。あくまでも、意識下のお話ですよ。

その場合、たとえば金銭的なことで必要以上に親に対して申し訳なさを持ってしまい、何とかして経済的に親を援助しなければと思うようになるかもしれません。

あるいは、お金への仕返しとばかりに、沢山お金を稼いでおいて、それを無駄使いすることで過去の鬱積した感情を発散するということだってあり得るのです。

勿論、本人はそのような自覚がないままに、お金を浪費することになるのですが…。また、無意識的にお金から遠ざかる人生へと進んでしまい、結果として親と同じように経済的な困窮を起こすこともあります。

逆に成長段階で、お金に困るような経験がなかった人の場合は、その後の人生のどの場面においても、やはり本当にお金に困るということに出くわすことはないでしょうね。

お金があってもなくても、実は誰も死にはしません。飢え死にするとしたら、それこそご本人のカルマの問題だと思えばいいのです。

ですから、お金の心配を殊更せずに、伸び伸びとやりたいことをやっていく方が、結果はついてくるということです。経験者はきっとそのことを知っているはずです。

珍入者出現

我が家は、木造の一戸建てなのですが、ずっと以前からネズミが出没することがあったのです。二階と一階の間の空間をバタバタと運動会をしているような音がたまにしていたのです。

そして昨日のことですが、たまたま理由があって自分の部屋のドアを開けたまま外出したのですが、そのためにネズミが一匹私の部屋に紛れ込んでしまったのです。

帰宅後、ネズミ捕りを仕掛けた状態で、普段の生活をしていたのですが、私の部屋から出て行かないようにと家人に言われていたので、ドアを閉めてとにかく無事捕まって欲しいと願っていたのです。

けれども、ネズミは一向に姿を現わさず、そのままいつものように寝る前の瞑想をしていたら、瞑想が深くなったときに、半眼になったら目の前のテーブルの上を走り抜ける真っ黒い姿を見たのです。

すぐにネズミだと分かって部屋の電気を点けたのですが、もうどこにいるのか分からず仕舞い。結局、ネズミ一匹と同部屋状態で就寝することに。

自分が寝かかりそうになると、決まってガサガサと音がして、眠りに入るのを邪魔されるのです。そんなことを何度か繰り返していた時です。

寝ている私の額の上をパタパタを走り抜ける感覚がして飛び起きました。すぐに電気を点けるも姿は見えず、こんなことを繰り返して結局朝方の5時くらいになって、ようやく寝ることができました。

翌朝、家人に窓を全開にして外に逃がすように伝えて出かけたのですが、帰宅してみるとネズミはそのまま部屋の中にいるとのこと。また、今晩も寝不足になるのかと半ばあきらめていた瞬間。

家人が部屋の隅にしかけたゴキブリホイホイの巨大なやつに、ペタっとくっついている奴の姿を見つけました。ホッとしたやら、可哀想やら。彼には、何の責任もないのですが、人間はとにかく自分勝手に処理してしまうのですね。

私の額の上を歩いてくれたあの身軽な彼の感触を思い出して、ちょっと物思いに浸ったりしたのでした。どうでもいいことですが、瞑想中には彼は私の存在に気づかなくなるようですね。

独り在ること

恐怖という感情の中には、いろいろなバリエーションがあって、そのうちの一つに孤独というのがあります。孤独をつきつめていくと、最後にはそれが恐れであることが分かります。

その孤独というものと、ただ独りで自分自身と共にあることとは、全く異なるものなのです。孤独というのは、そもそもそこに他人の不在というものがあるのです。

自分一人では寂しいので、誰かにその寂しさを穴埋めして欲しいという欲求があって、それが期待通りではないときに初めて、孤独というものを感じるのです。

一方で、ただ独り在るという状態においては、誰かの存在の入る余地すらありません。だからそこには、孤独というものがないのです。

自分と共に在るということは、本当に素晴らしいことです。究極の一人称には、他の誰の存在もあり得ないからですね。そこに淋しさというものはないのです。

孤独の「孤」というのは、自他があって初めて成立するものです。元々独りであるならば、そこに「孤」というものが存在することは不可能なのです。

あなたは独りであり、独りで生まれて独りで死ぬのです。人との関わりがあるものの、本質的には独りで生きているのです。それは何と清々しいものなのか。

独り在ることの清々しさを知ったもの同士が互いに関わる時、すべては一つであるという真理が現れるわけです。孤独なエゴを慰めるために誰かがいるのではありません。

あなたの内奥に深く入っていけば、独りあることの素晴らしさに気づくことになるはずです。そしてその凝縮は、一気に爆発して、全体性へと広がるのです。

新たな流れに乗る

何だか急になのですが、もしかしたらこの先自分はあまり肉を食べない人生になるのかもしれないという、予感のようなものが最近来ていたのです。

まさかなあという思いも勿論あるのですが…。というのも、実は若いころは異常なほどの肉食だったからで、それは今も大きくは変わってはいないのです。

ただ、若い頃よりもある程度野菜なども摂るようになったのです。以前は、肉ばかり食べていて非常にバランスが悪かったのです。だから大腸がんにもなったのですね。

そんな肉大好き人間の自分が、どうも来年あたりから食事が変わって行くのかもしれないなと思うのです。勿論、突然ベジタリアンになろうというのではありません。

徐々にですが、肉が主体であった食事の傾向が変わっていくのかもしれないという感じです。肉を食べてはいけないなどというルールは、自分の中をいくら探しても一生見つかりはしないと知っています。

それなのに、何かの流れがやってこようとしているのは、きっとこれも生が起こすことなのですね。生が何の目的でそうした変化を起こそうとするのかは分かりませんが、でも我々はそれに従うしかないのです。

今年も大きな変化がありました。それは、これまでにもずっと断続的にやってきていた瞑想の習慣が、途絶えることなく続くようになったということです。

自分の中の何かの流行りもののように、熱中しては止めて、またやるようになっては飽きて、ということを繰り返していたのですが、どうしたわけかわざわざ毎朝早い時間に起きて、瞑想をするようになったのです。

それがまったく苦ではないのです。だから続いているのでしょうけれど。そして、より深く内奥に入るためには、より繊細な感性が必要となるはずで、どうも肉食は感覚を鈍感にさせるようなので…。

私は決して、自分の中に新しいルールを作ろうとは思いませんが、ただそういう流れになるのであれば、それに乗って行くというだけのことですね。