執着は手放せない

この仕事を始める少し前の頃に、あるワークショップで「執着を手放すワーク」というものをやらされたことがあったのですが、講師の人に言われるがままに挑戦したものの、まったく効果がありませんでした。

そもそもが、そんなことで自分の執着がなくなるなどとは思えなかったし、個人的には執着があることにそれほどの否定感を持ってもいなかったのです。

執着があるなら、執着があるがままにさせておこうくらいに内心思っていたからです。今から思い返すと、それは間違ってはいなかったと分かるのです。

私たちが嵌ってしまう最も典型的な間違いの一つは、自分の意志で執着を手放そうとすることだからです。昔から、「見つめるものは拡大する」という言葉があるのです。

この場合の見つめるとは、都合の悪いこと、身体の痛みや気になること、こうしたものを無くしてしまいたい、何とかできないものか、という思いで見つめているということです。

だからこそ、その対象となるものが拡大するのです。拡大するとは、それにエネルギーを与えてしまうことになるということです。人はこの悪循環になかなか気づかないでいるのです。

闘う人はいつか必ず負けることになるということと同じことですね。闘うという行為そのものが、相手に存在感を与えて、より手ごわい相手へと成長させることになるからです。

あなたが、心の底からもうそれはいらない!と思えたものは、どんな努力もなしにすぐに捨てることができるのです。手放すとは、そういうことを言うのですね。

それは自然にやってくるのです。あなたが手放したいと思っている対象に意識を向ければ向けるほど、あなたはそれを保護することになると気づかねばなりません。

執着という結果を見る代わりに、その元となる暗闇にただ光を当てることによって、それは自然と消えて行くことになるはずです。

生まれ変わる先は?

よく言われることですが、子供は親を選んで生まれて来るというのがありますね。それを聞いて、とんでもない、こんな親を自分が選ぶはずがないと反論したいという人もいるでしょう。

誰が好き好んでこんな理不尽な人生を選ぶんだ!と怒りを感じる場合もあると思います。子供の側からすれば、親の悪いところばかり似てしまって、本当にいやになってしまうと愚痴りたくなるかもしれません。

一体全体本当のところはどうなっているのでしょうか?あらゆることは偶然なのでしょうか?それとも、やはり何かの力が働いてどの家庭に生まれるかが決定してしまうのでしょうか?

誰も本当のことは分かりませんね。とはいうものの、実際の過去生退行のセッションによって少しは類推できることもあるのです。

それは、セッションの中で見えたいくつかの過去世での当人が抱えていた問題と、現在のご本人の抱えている問題が非常に類似しているということが多いのです。

それは偶然とか、たまたまそうなったというには、かなり無理があると思えるのです。生まれ変わって来る当人は、意識がないので意志を持って子宮を選択するということではないかもしれません。

それでも、いわゆるその魂なるものが、まったく異なるエネルギー、相容れない傾向の子宮に入れるはずはないと考えるのが妥当のようです。

つまり、子供が遺伝子をもらった親に似るというのは結果としてそう見えるだけで、実は元々その親のマインドレベルが自分のそれに近いものだったから、その子宮に入ることになった、と考える方が無理がありません。

あなたが一つ前の過去世において、どんな生き方、どんな人生を送って来たか、どんな思いを残して死を迎えたかということが、次なる子宮が選ばれる最大の要因となるわけです。

今回の人生で、あなたが闘いながら死んで行くなら、次の人生でも同じように戦わねばならない苦しい人生が待ち受けているということですね。

あるいは、今生においてなるべく戦わず無防備に、最大限の意識を持ちつつ生きて死ぬなら、次の生では更にそれが花開くすばらしいものへとなるはずです。

死は不可能なこと

今年もあと半月ほどを残すだけとなりましたね。あっという間に年が明けて、来年がスタートし、きっと今年よりも更に走り去るように一年が過ぎて行くのでしょうね。

すぐに死がやってくるなと最近よく思うのです。それは別に否定的に思っているわけではありませんが、とにかく肉体的に残された時間内で、必ずやってくる死をどう見るようになるかが自分の中での最大の関心事なのです。

それほどの年寄でもないのに、変なことを考えている超ネガティブな人もいるものだと思われても仕方がないかもしれませんね。

けれども、人はどう生きるかという以前に、どう死ぬかということが大切なのだということがやっとわかってきたのです。そして、生きている間にこそ、死について真剣に向き合うことができて初めて、本当に生きることができるのだと分かってきたのです。

生きている間に死に直面するためには、瞑想するしか方法はありません。瞑想とは、これが私だと思っている人物を消滅させることだからです。

それは勿論力づくでやることではなく、自我が自然とそして自ずから落ちて行くところまで、瞑想し続けて行くことですね。

そして、完全に落ちないまでも、意識をもって無意識を照らし続けて、自分への注意を怠ることなく続けて行くことができるなら、意識的に死を迎えることができるかもしれません。

その時にこそ、私たちは死というものはそもそもが不可能なことなのだということに気づくということです。肉体は古くなれば、服と同じように新しいものに着替えるように、肉体も着替える必要があるだけです。

在るものは在る、ただそれだけなのです。

催眠療法のこと

一口に催眠療法(ヒプノセラピー)と言っても、大きく分けて暗示療法的なものと退行催眠との二つに分類されます。暗示療法というのは、ご存じのとおり、催眠状態において暗示を与えてある問題を解決するというものです。

私の経験では、例えば飛行機に乗るときに、非常に緊張してしまって旅行が台無しになってしまうので、それを何とかしたいというものとか、学生になっても学校で行われる注射が怖くて、激しい心労に見舞われるなど…。

それぞれに、ご本人でないと本当の苦しみは分からないような、繊細な問題が多いのです。催眠状態において繰り返し暗示を与えることで、それが潜在意識の中にある程度浸透していくのです。

そうやって、一時的に症状を緩和することによって、実体験でいい印象を持つと、次第に自信がついていき、結果として問題を克服できるようになるということです。

一方、退行催眠については、年齢退行と過去生(前世)退行という二種類があります。年齢退行は、今生の過去に時間を戻して再体験するのです。

そして勿論過去世退行の方は、いわゆるあなたの魂と呼ばれるものが生きた、過去の人生を再体験するというものです。

どちらも、キーとなるのは単に思い出すというよりは、再体験するということ。この違いを理解して欲しいのです。つまり、思い出すのは現在の自分が過去の記憶を思い出すということであり、再体験とは今の自分が過去の自分になったうえで、その時代の生を再体験するということです。

なぜそんなことができるのかというと、実はあなたのマインドの中にはその時々のあなたがそのまま残っているのです。あなたが何をしたかという記憶だけでなく、その時のあなた自身のマインド自体が残っていると思えばいいのです。

ただし、催眠状態になったとしても、あなたのマインドの中に、見てはいけないという強烈なブレーキがあるなら、それを乗り越えて過去を再体験することはできません。

たとえば、どうしても過去生を見たいと望んでいらっしゃるクライアントさんであっても、ご本人のマインドの奥深くにそれを見ることを許さないブレーキがあると、残念ながら見ることは叶わないのです。

単にうっすらと思い出すというレベルであれば、それほど問題なく見ることができるとしても、真に再体験するとなると、実は相当の覚悟が必要となります。

なぜなら、忘れて葬り去りたいと願っていた忌まわしい過去を再体験してしまうということもあるからです。あなたが、真の意味で過去生を再体験するなら、あなたはきっと死の恐怖から解放されることになるでしょうね。

不安から逃げない

セッションに訪れるクライアントさんの多くが、心の中に漠然とした不安を感じているのです。そして、その不安は物心がついたときからずっと続いているのです。

ある程度気楽な学生時代から、社会人になると、それなりの責任の重みを感じるようになって、より強い不安感を抱くようになってしまうという場合もあるでしょうね。

自分はそれほど不安を感じないで生きているという人もいるかもしれませんが、実はそういう人の場合であっても心の奥には不安が必ず沈殿しているのです。

不安を強く感じるかどうかというのは、幼い頃に家庭内で安心させてもらうチャンスに恵まれたかどうかということが一つ大きく関わっているのも事実です。

しっかりと気持ちをうけとめてもらえていれば、自分という存在はこれでいいのだというドシッとした安心感を得ることもできるし、逆に何かと否定されたり気持ちを分かってもらえない状態が続けば、不安は増大するのです。

けれども、どんな境遇で育とうと、その人がどんな感覚で生きていようと、誰にも共通して不安はあるのです。その不安がどこからやってくるのかを理解すれば、その理由は明白です。

それは、全体として生まれてきたはずが、数年後には個人として生きて行く羽目になってしまうからです。幼い子供が、自分以外はすべて外側の世界だと認識してしまうのですから、それはとてつもなく不安になるはずなのです。

こうした存在の本質に関連した大元の不安と、より成長していく段階でやってくる種々の不安とがあり、私たちは自然とその不安から遠ざかりたいと思うようになり、つまり安心を求めるようになるのです。

そして、安心を求めれば求めるほど、間違いなく100%安心は遠のき、不安が居座ることになってしまうのです。なぜなら、不安を拒絶して安心にしがみつこうとする、そのエネルギー自体が不安そのものだからですね。

不安が消えるには、不安を敵対視せず、不安から遠ざかろうともせずに、不安の中にいてそれをしっかり感じることなのです。不安とともにいることを、そのままに受け止めれば不安は消えずとも小さくなっていくのです。

そしてあなたが、瞑想によって自分の本質へと近づくことができるなら、そこにはどんな不安も寄り付かなくなるはずなのです。不安を生み出す正体は、身体やマインドとの同化にあるからです。

導師になる人は…

現代のこの世界においては、光明を得た人を捜すのは、とても大変なことかもしれませんね。少なくとも、私自身は今この瞬間そのような人がどこにもいないと感じていますので…。

その上で、osho によると光明を得た人のうちで、9割の人は即死するということです。え、どういうこと?と思われるかもしれませんが、どうやら身体がもたないらしいのです。

人の肉体は、光明を得た後の状態に追随できるようにはできていないと考えるのが妥当のようなのです。したがって、悟った後に生き残るのはたったの1割の人だということです。

更に、その1割の人たちの中で、9割の人たちは脳への支配力を失ってしまうということです。要するに、生きているとはいえ、沈黙したままの状態になってしまうということ。

そのくらい、脳がダメージを負ってしまうということです。結果として、大脳が生き延びて、外側から見てごく普通の生活ができる人は、光明を得た人のうちのたった1%だということです。

百人の内のたった一人だけが、悟りを得た後にも肉体の死を迎えるまでの間、外見上は人として普通に生活することができるということです。

そして、もっと言えばその1%の中でも、ブッダやイエス、あるいは osho のように導師になる人というのは、そのまた一割しかいないのだそうです。

要するに、光明を得る人はごくごく稀な存在なのに、その中で導師になれるような人というのは、千人に一人くらいの割合となってしまうということです。

なんとも、貴重な存在なのですね。きっと数十億人に一人いるかどうかという確率なのかもしれません。

身体を離れる

– osho –

身体になにか痛みがある時、身体全体を忘れ、痛い部分にだけ集中する。すると奇妙なことに気づくだろう。痛い部分に集中すると、その部分が小さくなっていくのだ。最初は脚全体が痛いと感じる。だが集中すると、それが脚全体ではなくなってしまう。つまり誇張だったのだ。痛んでいるのは膝だけだ。

さらに集中する。するとそれが膝全体ではなくなり、針先ほどの点になっていく。さらにその針先の点に集中する。身体全体を忘れる。目を閉じて集中を続け、その痛みがどこにあるか捜してみる。すると痛みはどんどん縮小していく。その範囲はますます小さくなる。そのうち痛みはただ針先ほどの点になる。その針先の点を見つめ続ける。すると突然その針先の点は消え失せ、あなたは至福に満たされる。痛みの代わりに、至福にみたされる。

なぜこんなことが起こるのか。それは、あなたと身体とが別々であって、同一のものではないからだ。集中している者があなただ。集中は身体に対して行われている。身体は対象だ。集中すれば、その隙間は拡げられる、つまり同化が壊される。集中することによって、あなたは内側へと向かい、身体を離れる。痛んでいる箇所を眺めるためには、離れる必要がある。そのように離れることによって隙間が生まれる。痛みに集中すれば、あなたはその同化を忘れ、また「私は痛みを感じている」ということも忘れる。

今あなたは観察者であり、その痛みはほかのところにある。あなたはその痛みを観察している--痛みを感じているのではない。『感じることから観察することへ』のこの変化が隙間を生む。そしてその隙間が大きくなったら、突然あなたは身体をすっかり忘れ去る。あなたは意識だけを自覚している。

いったん自分が身体ではないと知ったら、あなたの生は完全に変わる。あなたの生はすべて身体を中心にして存在している。いったん自分が身体ではないと知ったら、この生を続けることができなくなる。中心がなくなってしまう。

自分が身体ではないとしたら、違った生を創らなくてはいけない。その生は探求者の生だ。違った生だ。中心が違ってくる。そしてあなたは世界の中で、魂として存在するようになる。身体としてではない。もし身体として存在したら、そのときあなたの創造するものは別の世界だ--物質的損得の、貪欲の、悦楽の、情欲の、セックスの世界だ。あなたが自分のまわりに創造している世界、それは身体指向の世界だ。

いったん自分が身体でないと知ったら、あなたの世界全体は消え失せる・・・もうその世界は維持できなくなる。そして魂を取り巻く別の世界が現れる--それは慈悲の、愛の、美の、真実の、善の、無垢の世界だ。

中心は移動した。もう身体にはない。意識の中にある。

瞑想と睡眠

みなさんは、睡眠中によく夢を見る方でしょうか?それとも、あまり夢を見ない方でしょうか?人によっては、ほとんど夢を見ないという場合もあるでしょうね。

けれども、実は誰でも夢は見ているのです。これは、科学的な実験によって明らかになっていることのようですね。ということは、夢をあまり見ない、あるいは全然見ないと思っている人でも、実は夢見は起きているということです。

夢を見ている本人が、その夢を覚醒後覚えているかどうかの違いがあるということのようですね。で、この夢というのは実は思考なのです。それも言語を伴わない画像(絵)による思考なのです。

言葉をまだ学習していない赤ちゃんや、言語を知らない動物も実は夢は見るのですが、それは夢というものが元々言葉を使わない思考だからなのです。

私たちは目覚めているときには、言葉を使って思考しますね。言葉はそのまま思考であると言っても過言ではありません。目覚めている間に言葉なくして、思考することはできないからです。

つまり、目覚めているときには、言葉を使って思考し、眠っている間には画像(絵)を使って思考(夢)するということなのです。

その証拠に、深い瞑想によって思考が充分に落とされるようになると、その人は夢を見ることもそれに比例して少なくなるのです。光明を得た人は、決して夢を見ることがなくなるのです。

私たちが夢も見ずに熟睡している間は、それがものすごく短い間であっても、実は瞑想によって真理に触れた瞬間と同じものだということです。

唯一の違いは、熟睡中は全く意識がなく、瞑想においては明晰な意識があるということです。だから、瞑想が深くなればそれだけ、良質な睡眠を得ることができるようになるということですね。

瞑想は睡眠障害にもとても効果があるということですね。

身体との同化を見破る

真の癒しとは、自分とは本当はナニモノなのかということに気づくことであって、それ以外のどんなことでもありません。そのためには、誕生してからやってきてしまったあらゆる思い込みを、手放していく必要があるのです。

つまり、生まれた時のようなまっさらな状態へと戻ることです。ただし、意識的であることを伴って。そのためには、どのようにして自分を認識するようになったのかを、遡って見ることです。

幼児期に、私たちは周りの家族から名前を呼ばれて、それを自分とくっつける作業を自動的に行うのですが、そのときに利用されるのが肉体というわけです。

もしも肉体がなかったならば、何度指さされてこれがあなたなのだと教えられたとしても、どこを見ればいいのかさえ分からなかったはずだからです。

そして、呼ばれた名前と常に身近に見えるこの肉体とを関連づけることによって、ようやく家族の中で上手に生きて行くことができるようになるのです。

もしも、この肉体を自分と同化することができなければ、その子供はそれ以降この社会の中で生きて行くことは相当に難しくなったはずですね。

だから、誰にとっても名前によってラベル付けされた自分と肉体を同一視することは、実は死活問題だったというわけです。そのせいで、この同一視、身体との同化はその後一切気づくことができなくなったのです。

単なる耳情報ではなく、自らの体験として身体との同化に気づくことができなければ、自分とは本当はナニモノなのかということにも気づくことはできません。

身体との同化を見破るためには、身体とのズレ、身体との距離を体験する必要があるのです。それが瞑想というわけです。

瞑想によって、身体に与えていたあらゆるエネルギーを内側へと引き戻すことで、身体はリラックスしてあたかもでくの坊のようになったと感じることができるのです。

そのとき、それをただ見ている存在としての自分に気づくのですね。

死の恐怖がなくなれば…

あらゆる生き物の中で、私たち人間だけが自分はいずれ死ぬということを知っています。ただし、死を恐れるあまりに、今はそのことを見ないようにして生きて行こうと思うのです。

けれども、死への恐怖というものは見えないところで、着実に人生に悪影響を与え続けているのです。なぜなら、その恐怖がすべての自己防衛の根っこにあるのですから。

もしもあなたが、自分は死なないのだと分かったとしたら、今抱えている問題のすべてが溶けて消えて行くということに気づくはずです。

一節によると、生きている間に充分に意識的でいることができるようになると、死の瞬間に意識を失う、つまり無意識にならずに済むらしいのです。

つまり、死にゆく自分を意識しながら死んで行くことができるということです。その結果、本人は自分には死というものがないということに気づくらしいのです。

私たちは死のことを生の対極のものとしてとらえている節がありますね。けれども、本当はそれは生の中で起こる一つの出来事に過ぎないということです。

死にゆく人を見たことがある人々は、それまでの彼がもうこれまで通りにコミュニケーションをとることもできないということが分かると、それが彼の死だと決めつけているのです。

それはあまりにも乱暴な決めつけではないかと思うのです。人間を肉体だと思ってしまうと、肉体の死がそのままその人物の死を意味することになるのですが、その身体への同化をなくすことができるなら、見方に変化がでますね。

充分に深い瞑想によって、無意識の領域に意識を伴った状態で入って行くことができると、これまでのすべての過去世の記憶に光を当てることができるのです。

その結果、あなたは死ぬことができないということを悟ることになるのです。死がないのであれば、明日からのあなたの生き方が全面的に変化するはずです。

あるがままの自分でいるということの清々しさを持って、今を生きることができるようになるのでしょうね。