悪気のない親からの強制

親というものは、子供を育てるときに、親自身の劣等感を子供に投影してしまうということが、よくあるのです。たとえば、親が学歴コンプレックスを持っていると、子供に高学歴を目指すように強制します。

経済的なコンプレックスがあると、何とか金持ちになれるようにと促すのです。そうやって、自分が実現できずに悔しい想いをしたことに対して、子供を利用してその鬱憤を晴らそうとするわけです。

何も知らない子供にとっては、誠にいい迷惑なのですが、残念なことに世間のことを知らない子供は、まんまと親の企てに乗せられてしまうのです。

親が子供に言うセリフですぐに思い浮かぶものとして、「そんなにゲームばかりしていると、バカになってしまうぞ!!」とか、「そんなテレビ番組を見たら頭が悪くなる」、あるいは「嫌いでも栄養があるから食べなさい!」など。

確かに一見すると、間違ったことを言っていないように感じるのですが、一番の問題は子供の正直な気持ちというものをないがしろしている点なのです。

それは、必死な親のマインドというものが、子供の気持ちを受け止める余裕をなくしてしまうことによるのです。 そして、そういう親は自分の主張していることは絶対的に正しいのだと決めつける傾向にあるのです。

そうなると、子供は自由な発想や、あるがままの自分にOKを出すことがとても難しくなってしまいます。その逆に、いつも親から叱られて否定されてしまうために、自分の存在価値に気づくことができないまま、大人になってしまうのです。

子供は何とかして親の期待に応えようと努力するかもしれませんし、途中であきらめて親への反抗を始めることになるかもしれません。

勿論、後者の方が将来についてはより健康な人物になるでしょうね。できるだけ早い時期に、親からの強制、束縛に気づいて、それから逃れることができるといいのです。

思い当たるふしがあると感じた場合には、しっかりと癒しをしていくことが大切だと思われます。

意識と無意識

私たちのマインドには、意識的な部分と無意識の部分とがありますね。このことは、すでに多くの方にとって常識的な知識となっていると思われます。

まさか、未だに自分には無意識などというものはない、自分は自分の全部を意識的に把握している、そう信じている人はいないでしょうね。

ご存じかもしれませんが、私たちのマインドの意識的な部分は平均的に10%程度と言われています。本当はもっと少ないのかもしれません。

それ以外は、全く意識できない無意識の部分というわけです。無意識ということは、熟睡していたり、気絶しているようなものと思えばいいですね。

つまり、何の自覚もないし、周りで何が起こっていようが一切気づいていない状態であるということです。そうなると、意識的な部分と無意識の部分とは、ちょうど真反対のように感じるかもしれませんね。

けれども、実はそうではありません。同じ一つのモノの両極と考えればいいのです。つまり、意識的であるとは、注意深くあるということであり、無意識とはその注意を失くしてしまった状態というわけです。

したがって、非常に注意深くあることと全く注意がないことの中間もあるわけです。注意深さが欠けた状態というか、注意が散漫になっている状態ですね。

それは、意識的であることと無意識の間に位置するのです。それは、白と黒の間のグレーゾーンと思えばいいのです。私たちが、毎日の生活の中でしっかり意識的に瞬間瞬間を生きていなければ、そのグレーゾーンにいることになるのです。

それは熟睡しているのとは違っているものの、充分に気づいていない状態で生を営んでいるということです。ウトウトと浅い居眠りをしつつ、生きているようなものなのです。

この状態のままでは、あと何千年生きたところで何一つ変わることはありません。意識的であること、つまりそれは注意深く見ていること、これができれば身体との同化が外れ、自分の本質に気づくようになるのです。

イメージとしては、こんな感じかもしれません。あなたが広々とした気持ちのいい草原に一人立っていて、周りの静けさに注意深く耳を傾けるのです。

きっとしばらくすると、あなたという身体を持った人物は曖昧になり、周囲の静寂さに気づいている、その気づきそのものしか残らなくなるときがやってきます。あなたとは、その気づき以外のなにものでもないのですね。

私は外にいる

– osho –

私たちはこの世の中にいて、しかもなお、そうではない。

真実は、私は外にいる。

これを何か他のことで試すことだ。

自分が惨めだとする。その中をちょっと覗いて見なさい。

あなたは惨めだと言うが、本当に惨めさの中にいるのか、それともその外にいるのか?

すると、確かに惨めさはあるが、自分はその外にいるのだと知って驚くだろう。

腹を立てているとする。自分が本当にその怒りの中にいるのか、あるいは外にいるのかを見てみなさい。

すると何時でも、自分は外にいるのだとわかるはずだ。

そしてもしあなたが、自分はそういうものの外にいるのだと分かり始めたら、そういうものは人生の中から消え始めるだろう。

それらは、あなたに対して持っていた力を失う。あなたは、あらゆる感情、感傷、思考からの大いなる自由を達成するだろう。

「ノー」のエネルギー

誰でも多少は自分のことを否定的に見てしまっている部分を持っているものですね。幼い頃にはマインドがまだ未熟だったせいもあって、人は完璧を求めてしまうからです。

その幼い頃の自己否定感が、どこかに残存しているというわけです。その程度ならまだいいのですが、その自己否定感が殊のほか大きくて、大人になってから持て余すほどになってしまうと、問題ですね。

たとえば、誰もがごく普通にできるようなことが、どうしても自分にはできないという事実が突きつけられると、当然そんな自分をひどく責めてしまうのです。

もういい大人なんだから、やるべきことをやれないなら、大人としてあるいは人間として自分は失格だと決めつけてしまうこともあるでしょう。

情けない気持ちになったり、自分への怒りに苛まれて落ち込むことにもなるはずです。症状が軽い人は、単なる怠け者なのだと思うかもしれません。

けれども、そんな時大切なことは、やろうと思ったことができない本当の原因を知ることなのです。そのためには、日頃から自分の内面を深く見つめる練習をしておくことが必要なのです。

やるべきことをやらないのであれば、それはやりたくないという強い抵抗があるという単純なことにまず気づくことです。そして、そのやりたくないという反逆のエネルギーがどこから来たかを考えるのです。

それは間違いなく子供のころの鬱積した感情のエネルギーからやってくるはずなのです。たとえば、もしもあなたが子供の頃に無邪気に「ノー」を言える状態ではなかったとしたら、そのエネルギーは蓄積していってしまいます。

そして、その溜まりに溜まった「ノー」のエネルギーが、時を超えて現在の大人のあなたのやらねばという気持ちに抵抗するというわけです。

かつて言えなかった「ノー」を、今になって言っていると思えばいいのです。その「ノー」に勝つためには、過去の鬱積したエネルギーを解放して、その力を小さくしてあげることが必要ですね。

そしてもう一つの方法は、大人のあなたが「やらねば」でやるのではなく、もっと気軽な気持ちで「やろう」、あるいは「やりたい」という気持ちになれば、「ノー」は邪魔することができなくなるのです。

いずれにしても、まずは自己否定をする代わりに、その原因を調査するという態度がどうしても必要となりますので、独りでは難しいなら、プロの力を借りることですね。

高級ワインの味わい

今日久しぶりに、ちょっと高級なワインを飲みました。久しぶりと言っても、もうかれこれ15年くらい経つのでしょうか。サラリーマンを辞めてからは、全く飲まなくなっていたのです。

それが時を経てあらためて飲んでみると、確かに美味しいのですが、でもただそれだけなのですね。残念なことに、自分の中でその体験がもう、特別なものではなくなっていたのです。

あれほど大好きだったのに、今日も同じように美味しいと感じているのに、そこには以前のような何か深みのようなものを感じることができなくなっていました。

それで、よくよく感じてみたのですが、本当は当時もきっと今とそれほどの違いはなかったのではないかと思うのです。でもそれでは、もう毎日が満たされなくて、何かでその穴埋めをしなければならなかったのでしょう。

その心の穴埋めの一つが高級ワインだったのだと思うのです。今は、何か特別なことがなくても日々満たされているので、自分をことさら欺く必要がなくなったのですね。

そうやって、自分の内面をあるがままに見るようになって、ようやくはっきり気づくことがあるのですが、それは本当に必要なものは決して外側にはないということです。

どれほどのものであっても、自分を本当に満たせるものは外側にはないのです。一過性の気休めや、興奮の類はいくらでもあるのですが、それはいくら飾り立てても、色褪せて見えるのです。

それに対して、内側を見ることは比べるべくもない時間を超えた素晴らしい体験なのです。一度その例えようのない奥深さを知ってしまうと、それが圧倒的過ぎるのです。

フランスのポイヤックの畑で大切に育まれた宝物のような葡萄から出来たワイン、そのありがたい複雑な風味も瞑想の一呼吸には及ばないのですね。

死んだらどうなるの?

人はいろいろな疑問を持ちつつ生きているのですが、その中でも最も普遍的なものとして、人は死んだらどうなるのだろう?というものがありますね。

子供のころに、身近な人の死を体験したり、急に思いついたりして死の恐怖に対面してしまうのですが、その時には自分は死んだら一体どうなるの?という切実な疑問を持つのです。

私自身もその疑問を常に持っていました。ただ、今生きている人で死んだ記憶がある人というのが、自分の知る人の中にはいそうもなかったので、本当のことはきっと永遠に分からないのだと思っていました。

そして、人によっては、この人生が終わったら何もかもが終わり、その後には何も残るものはない、完全に無に帰すると考えている人もいます。

そういう考え方のメリットとして、一生は一度の貴重なものだから、生きている間にできる限りのことをしよう、最善を尽くそうという前向きな生き方になるということがあるかもしれません。

デメリットとしては、死が全てを消してしまうという恐怖からなかなか逃れることができない可能性が強くなるかもしれないということです。

一方で、いわゆる輪廻の中で繰り返し繰り返し転生を続けて行くに違いないと、信じている人もいるでしょうね。その場合のメリットは、死がすべての終わりではないということで、少しは死の恐怖が和らぐということがあるでしょう。

死というものを生の一部であると考えて、死を忌み嫌うものとして見ないようしようとするかもしれません。そのように生き方を変えようとする気持ちが出て来るかもしれません。

デメリットは、例えば必要以上にカルマというものを恐れるようになるかもしれませんね。何生にも渡る無限に続くカルマのことを考えると、ホトホトいやになるかもしれません。

あなたはどっちの考えに近いでしょうか?それとも、そんなことはどちらでもいいんじゃないという派でしょうか?死に意識を向けないということは、生に対してもいい加減になってしまうということが言えるのです。

死がやってくるまでに、じっくり自分の中にどんな信念があるのか、見つめてみるのもいいと思いますよ。

広大な地平にいる

人の人生にはいい時もあるし、悪い時もありますね。そして、悪い時からどうも抜け出せなくなって、困ってしまっているという状態の人もいます。

そういう人は、どう考えてもどうにもならない、光の差し込む出口というものをいくら見回しても見当たらないと思っているのです。

いやいや思っているというのではなく、実際に出口などありはしないとさえ感じているかもしれません。勿論、その人の理屈の上ではきっとそうなのでしょうね。

けれども、どんな人にも光の出口はあります。それは、実は暗闇の中でもがいているあなたには見つけることができないものなのです。

そのもがくこと、何とかしなければと焦る思い、そうした思考が邪魔をして出口を見せないようにしているのですが、本人にとってはそんなことに気づくはずもないのです。

私はサラリーマン時代に、サラリーマンを辞めるという選択肢なんて、あるようで実はあるはずがないと感じていました。現実のことを考え出したら、どうにもこうにもサラリーマンでい続けるしか方法がないと思っていたのです。

けれども、病気になってそれまで自分が守っていたものよりも、もっと大切なものがあることに気づかされてから、いとも簡単に会社を辞めることができたのです。

経済的に困窮するのが怖かったり、他人に無能だと判断されるのを恐れていたり、そうしたことから逃げ続けていると、その人には出口がないのです。

一旦、死を意識するようなことになれば、それまでの恐れが大したものではなかったという気持ちになるかもしれません。もしもあなたが、闘いを辞めると決心できれば、すぐにでも出口がやってきます。

見つける必要すらありません。元々、あなたは暗闇の中で彷徨っていたわけではなかったと気づくからです。最初からあなたは、明るく広々として青天にいたのですから。

どれほど八方塞がりに思えたとしても、その中心にいるあなた自身が闘い、あるいは防衛を手放していくことができれば、広大な地平にいることに気が付くのですね。

春は来る

何でもエジプトには、次のような諺があるそうです。

「弟子に準備ができれば師が現れる」。

ああ、そういうことか。この年齢になる今になっても、私には一向に師が現れていないのです。

ということは、それは運命を恨むのではなく、私自身がその準備が万端整っていないということの証しだということですね。なんだか納得してしまいました。

自分にも師と呼べる存在が欲しいとずっと思っていたのですが、それは見当違いだったということが分かっただけでも、よかったと思っています。

じゃあ、その準備を整えるためにはどうすればいいのかということですが、そのことをちょうど言い表している一つの俳句のようなものがあるのです。それは…、

「黙って座って、何もせずにいると、春が来て草はひとりでに生える」

というものです。春が来てほしいからと言って、強引にここに来させることは不可能ですね。

ただ自分にできることをして、待つということです。それ以外のことは、すべてが邪魔になるだけだからです。春はいつか必ず来るものです。それを待てばいいのです。

黙って座って何もせずに…、瞑想を「する」というのもマインドの働きです。何もせずにいるということを、これまでどれだけ嫌がってきたのか、実際に何もせずにいると分かってくるものです。

何もせずにいるなら、その人は無能な怠け者になってしまうと恐れているからかもしれません。そして、もしも無能な怠け者になったとしても、それでもいいのです。

逆にその見返りは、途方もなく大きなものだからです。これは、実践しなければ決して分かることではありません。そして、いつかはきっと春はやってきてくれるのですから。

不完全さの魅力

先日の朝、いつものようにクルマで出かけようとしたら、どうも我が愛車の調子が何か変なのです。よく見ると、ギアがローに入らずに、いきなりセカンドからスタートしていたのです。

びっくりして、すぐに停車してエンジンをかけなおしたりしたのですが、一向に状況に変化はなく、仕方なく恐る恐る走ってみると、どうやらシフトアップはするようなのです。

つまり、発進するときだけ、ちょっと非力になる程度で、あとは普通に運転できることがわかったのです。けれど、このままだと何が起こるか分からないと思い、結局最寄りのディーラーに持っていくことにしました。

そんなわけで今は、愛車が修理から戻って来るまでの間、家のクルマを使って通勤しているのです。家のクルマというのは、ごく一般的なセダンの国産車なのですが、これがまたとてつもなく楽なのです。

運転をしていて、このままだと眠ってしまうんじゃないかと思うくらいに、何にもしなくてもいいような気がするくらいに楽なのです。それは勿論私のクルマとの比較でそう感じるのですが…。

自分のクルマは、その反対に(クラッチはないのですが)マニュアル車のようにギアをシフトしなければ、スムーズな気持ちのいい走りができないという代物なのです。

それ以外にも、いろいろドライバーに注文を付けるクルマなので、ボーっとして運転してると結構まずいことになったりもする、実は面倒な奴なのです。

けれども、「fun to drive」 という点で言うと、とにかく面白いのです。自分が彼を手なずけて、上手に操作している感が楽しいということなのでしょうね。

人間とは本当に贅沢なものです。あまりに便利過ぎると、ちょっと厄介なものを求めてしまう節があるということです。このことは、どんなものにでも言えるのかもしれません。

あまりに均整のとれた完璧なスタイルの女性よりも、ちょっと人間的な匂いのするスタイルの人のほうが親しみが湧くし、従順過ぎる女性よりも、少しは意地っ張りなところのある女性を男は好むのかもしれません。

人は完璧なものを求めているようでいて、実はそうではないということです。不完全なものにこそ、最大限の愛を感じるのです。

自分自身の不完全さにも、それを丸ごと受け止めることができると、本当に清々しい開放的な生き方ができるようになるはずですね。

褒められたい思いとは

人を褒める言葉というのにも、いろいろありますね。たとえば、すごいね~とか、偉いね~、ちゃんとしてるね~、頑張ったね~等々。

そして褒められたら、誰もがよほどひねくれていない限りは、悪い気はしないものです。褒められて伸びるタイプだと自分のことを表現する人もいますね。

子供を育てるときには、褒めることも必要だと言うことを力説する人もいます。分からないでもないのですが、私は何となく胡散臭い感じがどうしてもするのです。

もっと親に褒めてもらいたかったと思っている人もいるでしょうね。その気持ちはとてもよく分かるのです。けれども、本当は褒めて欲しいのではないと言ったらどうでしょうか?

褒めて欲しいという気持ちは一体どこからくるのかを見てみると、それは在るがままの自分ではダメなのかもしれないという自己否定感が元にあるということです。

自分のままでOKだと分かっている子は、取り立てて褒めて欲しいと思う必要を感じないはずだからです。つまり、自分の存在価値にしっかり気づいていないからこそ、その代わりとなるものを探すのです。

それが褒めてもらうということだったわけです。褒める対象というのは、存在ではなくて何かの成果だったり結果だったりするのですから、褒めてもらいたい子供はそれだけ頑張るようになるのです。

そこには必ず自分でも気づけないような自己犠牲が必ず存在するのです。でも、褒めてもらえるというご褒美をもらえることで、その自己犠牲をすっかり抑圧することができるのです。

そうなると、その子の生き方は決まってしまいます。つまり、他人からの評価を最大限にするように気を配って生きるということです。独自の意見をもったりせず、誰からも否定されないような人生を生きるようになってしまうのです。

もしもあなたが、誰かに褒めてもらいたいと思っているのなら、それは存在価値の代わりには決してならないということに気づき、自分を徹底的に受け止めるということを実践することです。

方法が分からなければ、セラピストなどの専門家に相談することも考えてみることです。