常に「見ていること」の実践

もしもあなたが、街を歩いているときに、誰かの家の庭先にきれいな花を見つけたとします。その時に、ごく一般的には「ああ、きれいな花だなあ!」と思うでしょうね。

すごく急いでいて、よほど気持ちに余裕がないとか、いやな気分に打ちのめされていたりしなければ、誰でもそう思うわけです。それがごく普通の反応です。

けれども、そう思ったとすると、残念ながらせっかくハートでその美しさを感じれるものを、マインドが邪魔をしているということに気づくことです。

「思う」というのは思考、つまりマインドの領域だからです。だから、もしも明日以降同じような状況がやってきたときには、決して何も思わずにその花の美しさをただただ感じてみることです。

どんな言葉も内側に存在しないようにして下さい。そのときに、私たちが如何に言葉を使うように慣らされてしまっているかに気づくかもしれません。

どんな小さな声だろうが、ほとんど発生せずとも、心の中でその言葉が浮かんだだけでマインドを使っているということなのです。

きれいな花を見たときに、沈黙の状態でその美しさを感じることができたなら、そのときにはハートをフルに使ったということになるのです。

そして更にその上があります。それは、その花の美しさを感じている自分をただ「見ていること」です。それもできれば、同時にすることです。

これが、私たちにできる最上級のその瞬間の過ごし方なのです。もしも仮に、「ああ、きれいな花だなあ!」と思ってしまったとしても、その自分をやはり「見ていること」です。

その練習を毎日行って下さい。そのようにして、常に意識を自分に向け続けていることができるなら、まず初めに、あなたの内側に言葉では表現できない、「何も無さが在る」と気づくはずです。

そのことに気づくことができると、きっとあなたは人生で初めて「落ち着く」ということの本当の実感を得ることができるでしょうね。実践あるのみです。

非同化は一時的

私たちの誰もが抱えている不安の根源的なものとは、一体どこから来るのでしょうか?それは本当の自分とはナニモノなのかということを、知らずに生きているからなのです。

ところがそのことに気づかないでいられるのは、幼い頃に自我の目覚めとともに、自分はこの肉体だと思い込んでしまったからです。

気がついたら言葉が喋れるようになっていたのと同じようにして、気がついたら自分はこの身体だと信じ込んでしまっていたのです。

だから自分のことは知っていると錯覚しているのです。その誤魔化しの下に自分を知らない自分が隠されているというわけです。

ちなみに、自分の大きさはどのくらい?と問い合わせると、きっと自分の身体の大きさと同じくらいの大きさを想定していることに気づくはずです。

その感覚をよく見つめてあげると、それが作り物の感覚だということが分かります。その瞬間、意識的なマインドの部分だけですが、自分と身体の同化が崩れるのです。

その瞬間、あっという間に自分の大きさが不明な状態になるので、非同化したことがすぐに感じ取れます。この実践は、身体と眼球をなるべく動かさないようにするのがコツです。

分からなくなった大きさに意識を向けていると、今度は何処にいるのかという感覚すら怪しくなってきます。こうなると、もう自分という存在が無かあるいは無限大だと分かります。

こうして、身体との同化はすぐに落とすことができるのですが、残念なことに無意識のマインドの中には頑固に自分はこの身体に違いないという信念が厳然とあり続けるのです。

だからこそ、身体に対する非同化は一時的なものでしかないということですね。意識的なマインドが無意識の部分に影響力を持つようになれば、すっきりと同化を終わらせることができるはずなのですが…。

自己同化をはずす

グルジェフは、もしも人間に罪というものがあるとするなら、それは自己同化だと言ったそうです。これは本当に人間の内面について、熟知した人の言葉だというのが分かるというものです。

夢の中の自分は、その夢の中でこれが夢だとは気づかないのが普通ですね。どんな内容の夢であろうと、それを真に受けてしまっているのです。

怖い夢に汗びっしょりになることもあるだろうし、夢の中の出来事に悩まされて深刻になっていることもありますね。なぜ夢を夢と認識できないかというと、自分と夢を同化しているからです。

朝目覚めて、その夢と自分との間に距離ができたときに、やっとなんだ夢だったのかと気づくわけです。夢の余韻はしばらく残るかもしれませんが、いずれは忘れていくのです。

私たちの誰もが、自分の本質をこの身体とマインドに同化してしまっているのです。それを自我(エゴ)と呼ぶのですが、その自己同化によってあらゆる苦しみが発生しているのです。

夢を夢と見破るためには、その夢との同化をはずせばよかったのと同じように、身体およびマインドとの同化を見破って、非同化することができれば、あなたの人生を完全な物語として見ることができるようになるのです。

その時に初めて、この現実世界は夢のようなものだったと気づくのです。現実が幻想だと言っているのではありません。現実は勿論夢ではありません。

けれども、同化をはずすことで現実を夢と同じように単なる物語として「見る」ことができるということです。そして、同化をはずすための唯一の方法こそが、「見ていること」なのです。

ただひたすら自分を見ていることによって、身体そしてマインドとの間にすき間ができるようになるのです。その距離が自己同化をはずすことに繋がるということです。

奇想天外な方法

ある王様が、とある女性を好きになったのですが、実はその女性はその王様の家来の男のことが好きで、二人は影でこっそり逢瀬の恋を楽しんでいたのです。

それを知った王は、知恵袋として付いている者に相談した結果、彼はあることを思いつき、王様もそれに同意したのです。それは奇想天外な方法でした。

王様は、その女性と彼女が好きなその家来とを裸にして、みんなにみえるように縛りつけてしまったのです。それもぴったりと二人の身体がくっつくようにして…。

王様がその女性に憧れを持っていたことを知っていたものは、誰もがとても驚いたのです。なぜ王様はその家来の男に嫉妬しないでいられるのだろうかと。

ところが、数日経つうちに、真夏の暑さの中で縛られて見世物にされた二人は、汗ばんだ互いの身体に触れるのもいやになってしまったのです。

そして、縄を解かれたあと、二人は城から逃げ出しただけでなく、二人はもう二度と互いの身体にくっつこうともしなくなってしまったということです。

王様は、知恵袋の者の洞察の鋭さに驚いたのでした。この逸話のいいたいこととは、どんなことでも休養が必要だということです。

どれほどの快感であれ、どれほどの悦びであれ、それがずっと続くのであれば、いつかは拷問と同じことになるのです。幼い子供は、同じことを繰り返し続けても大人ほど、すぐには飽きないものです。

それでも、いつかはそれを止めたくなる時がやってくるものです。休養はそれを中断するものとして、忌み嫌う気持ちが誰にもあるかもしれませんが、休養は決してその対極にあるものではありません。

休養とは、それを引き立てる大切な立役者だということですね。ですから、何事も休養をとってほどほどに。

身体の痛みを見る

幼い頃から、痛みって何なのだろうなあ?ということをよく考えていた記憶があります。子供の頃は、身体が弱くて年中医者に通っていたくらい、いろいろな身体の痛みに苦しめられていたからなのでしょうね。

特にお腹が痛いということが頻繁にあって、それは当時から大人になった最近に至るまでずっと続いているのです。大げさに聞こえるでしょうけれど、その痛みが自分にとっては、何か命に係わるような気がするのです。

その逆に、昔から精神的に苦しめられたという経験がほとんどないため、よけいに肉体的な苦痛というものに意識が向くようになったのだと思うのです。

だからなのか、自分という存在をもっと高めようとか、よりよい人格の持ち主になりたいとか、より崇高な人物に、よりすばらしい自分へと改善する等々、そのような欲求はほとんどないのです。

代わりに、ひたすら身体の苦痛から逃れるためにはどうしたらいいのだろうという方向にばかり、関心が向いてしまったのでしょうね。

この仕事を始めて間もないころ、ある超能力者さんのところに縁があって行っていたことがあったのですが、彼は人の内面に何が書いてあるかを読めたのです。びっくりでしょう?

彼が私の内面を読んで言うには、「『肉体的痛みとは一体何なのだろう?』って書いてありますよ!」と教えてくれたのでした。別に毎日そんなことを考えていたわけでもないのに、そのことをズバリ指摘されたので驚きました。

確かに心の奥には、常にそのような疑問があるという自覚があったからです。そして、最近この身体の痛みに関して、どうやら解決する方法があるということが分かったのです。

それが、身体との同化を落とすということだったのですね。充分に意識的になっていくことで、身体との隙間がはっきりするようになるのです。

そうすると、身体の苦痛を感じる代わりに、それを観察する立場になれるということです。昨日のブログにも書きましたが、私たちのやっている身体との同化は本当にしつこいものです。

それでも、望みは捨てられません。一にも二にも、できるだけ日頃から意識を自分に向け続けることによって、少しずつでも身体を客観視できるようになれればと思うのです。

痛みを感じているのはそれを受け取る自分であり、それを見ている自分ではないということに体験として気づけるようになるといいなと思うのです。

身体は対象物

このブログを読んで下さっている方であれば、大抵の人が自分は身体ではないということをご存じかもしれませんね。その通り、私たちは身体ではありません。

けれども、それは知っているということであって、つまり外部からやってきた情報に過ぎません。今流行りのスピリチュアルな情報には、当然そのようなことが書いてあるからです。

そのために、自分は身体などでは決してない、という気持ちが当り前のこととして定着しているのです。ところがです。それは残念ながら、ただの情報に過ぎません。

本当のところ、自分のことを身体だとして生きていることがほとんどだと言ったら、驚くでしょうか?勿論、瞑想などをしている間だけは、身体からはずれた内面に触れていられるかもしれません。

けれども、日常的な生活をしているときには、あっという間に身体に戻ってしまっているのです。そのときには、どんな知識も役には立たないのです。

自分を見ることを続けて行くときに、自分の身体でなさ加減に的を絞って見てみると、とても面白いことに気づくことができます。

自分には、手も足もないし、眼、口、顔もないのです。それなのに、私たちはごく当たり前のように、今自分は歩いている、今自分は食べている、などと思っているのです。

脚のない自分が歩けるはずがありませんし、口のない自分が食べることなどできないはずです。厄介ですが、身体の足を使って身体に歩かせている自分がいるというように見なければならないことが分かります。

肉体の口を使って、身体は食べ物を体内に摂取しているというように見る必要があるということです。このようにして、注意深く自分を見続けていると、少しずつ身体と自分の間に隙間が見えてくるのです。

身体は見つめる対象でしかなくなるのです。そのうえで、内面を見つめていると、どうやらこれこそが自分だと思っていたものが、マインドの中の思考だったということにも気づくようになるのです。

そうやって、身体やマインドとの同化を少しずつ減らしていくことで、あなたは本来の純粋な意識としてのあなたに戻っていくのでしょうね。

意識とは自覚しているということ

あらゆる動物や人間の赤ちゃんは、無意識の状態で生きています。これは、動物に限らず植物や鉱物にも当てはまることなのです。

ところが、人間だけが2~3歳くらいのときに、周りからの刷り込みによって、どうやら自分というものがここにいるという思いを持つようになるのです。

それは、自分を身体と同化することによって起こるのです。身体を自分だと信じ込むことは、人類が作ったこの世界の中では、誰もが通過する儀式なのです。

身体は非常に分かりやすい対象ですから、それと同化することによって、ここに自分がいるという自覚が出来上がるのです。それがきっかけとなって、我々人間だけに意識というものが起こるのです。

つまり、意識とは自分がここにいるという自覚なのです。自分を身体と同化させたあと、私たちはより自分を深く自覚するために、マインドと自分を同化するようになるのです。

そうやって、外側でも内側でも自分がここにいるという自覚を常に持てるようになるわけです。それこそが、私たちが意識と呼ぶものに違いありません。

これは無意識ばかりだった地球上においては、まさに奇跡的なことが起こったと言えるわけで、これ以上画期的なことは他にないかもしれません。

ところが、意識を得ることはできたのですが、固体としての自分を本当の自分と思い込んでしまったために、あらゆる苦しみがやってくることになってしまったのです。

これは、科学的に見れば当然のことだということが分かります。固体、個人というのは本当に危うい存在だし、自分を守らなければならない危険な状態なのです。

けれども、私たち人間が意識を手に入れた理由は、このまま苦しい人生を生きるためではありません。すべての無意識を意識に変えて、自分の真実に気づくためなのです。

意識を手に入れるために被った代償はとても大きいものだったのですが、ここからもっともっと意識的になっていくことができるなら、意識を持ったまま私たちの本当の姿に気づくことができるのです。

それこそが、生まれてきた本当の理由です。誰もがそのチャンスを持って生まれてきているのですね。

意識的に死にゆく

事故死などの特別な場合を除いて、怪我や病気などで人が亡くなる前には、いわゆる危篤状態というものになりますね。まもなく死が必ずやってくる状態です。

そのときに、死にゆく人の意識があるのかないのかは定かではありませんが、本当に死ぬときには大抵が無意識となるはずです。そういう意味からすれば、危篤状態とは意識がなくなっている状態を言うと考えてもいいかもしれません。

なぜ、人が死にゆくときには意識がなくなってしまうのか、本当のところは分かりませんが、生きている間に鍛錬をして意識的に死にゆくことができるなら、それはとても稀有な体験となるはずです。

自分の身体が死んでいくのを、意識的に見ていることができるのですから。そして、これは聞いた話ですが、意識的に死んで行けた人は、次の人生を始めるときにもすべての記憶を持ったままであるということです。

つまり、一般的には輪廻の際にはそれまでの人生の記憶を失くした状態で、生まれ変わるというのがごく普通なのですが、意識的に亡くなった場合には、意識的に生まれることができるというわけです。

真偽のほどは分かりませんが、ソクラテスは毒殺されたことになっていますが、そのときに自分が死にゆく状態を克明に周りの者に話したそうです。

だから、意識的に死んでいった人はいるのです。そして、これも聞いた話しですが、意識的に生まれ変わることができた人は、その生において覚醒することが約束されているということです。

それは当然そういうことになると想像できますね。なぜなら、人生のからくりを知りつつ生まれてくるわけですから、同じようなことを繰り返さずに人生から脱出することができるのです。

死にゆくときに意識的であるためには、夜寝入るときに意識的でなければならないでしょうね。純粋な意識というのは、寝ることはありませんので、意識と思考を分離することができるなら、眠りが訪れても意識を失くさずにいることは可能なのです。

そんな練習を気がつけばもう半年もやっているのですが、なかなか難しいですね。意識をなくして、ぐっすり眠りたい自分が強くいるようです。

でもいつか、できるようになれればいいなと思って、今日も眠りにつくことにします。みなさんは、こんな馬鹿げたことは、真似しないで下さいね。

問題の源は自分自身

誰であれ、今現在の自分を基準にして、いろいろなことを考えているのです。そして、解決しなければならない問題がいくつかあって、それをどうしたら解決できるだろうと真剣に考えるのです。

けれども、実はその問題というのはこれまであなたが生きてきたその結果として、生み出されたものだということに気づかねばなりません。

あなたが抱えている問題は、偶然にそれが出来上がったわけではないということです。当然の結果として、起きるべくして起きてきた問題なのです。

したがって、まず初めに考えねばならないことは、問題自体を眺めるのではなく、これまで生きてきた自分の生き方や考え方、そういったものを点検することが必須なのです。

その際に、人間というのは都合よく自分を見る習慣を持っているので、公平な目を持って点検することがとても難しいのです。

自分に正直に自分を見ることのできる人であれば、自分一人でうまく点検することができるかもしれませんが、最も的確なのは第三者というか、専門家に自分のことをさらけ出して見てもらうことです。

あなたの生き方や考え方、独自の正しさなどをクールに見てもらうことができれば、それが問題解決に対する一番の近道になるのは間違いありません。

そして、問題を解決しようとダイレクトにするのではなく、その大元となった自分自身を癒して行くことで問題は自然と解決するか、小さくなっていくことになるのです。

当然、見たくないものを見ることになるはずですが、その苦しみを避けて通ることはできません。痛みを伴うことを覚悟すれば、恐れは小さくなっていき、直面すれば恐れは消えて行くものです。

そこにこそ、大きな成長があるのですね。

思考の虜にならない

私たちが普段、如何に思考に囚われているかということについて、少し書いてみようと思いますね。

仮に、あなたの目の前に一本の白いバラと、もう一本の赤いバラがあるとします。この白いバラと赤いバラの色が違うことは、誰にでも分かる当たり前の事実ですね。

けれども、「この二本のバラの色は違う」と思った瞬間、それは思考なのです。いやいや、自分がそう思っても思わなくても、それは事実だと感じるはずですね。

しかし、同じとか違うということは比較であって、比較は思考の中でしかすることができないものです。思考の外にでたら、二つのバラの色が違うということは、消えてしまうのです。

勿論同じ色だというわけでもなく、ただそうした事実が消えるということです。もっと言えば、ここに二本のバラがあるということすら、思考によるものです。思考の外に出ると、バラというものが消えてしまうのですから。

こうしたことが分からないと、あるがままを見るということを本当には理解することができないことになるのです。

もしもあなたが、バラという言葉を使わなかったとしても、この花は何て綺麗なんだろう!と思った瞬間に、思考の中に入ったことになるのです。

その綺麗という感覚を、そのままにハートで感じているだけであれば問題ないのですが、綺麗だと思った瞬間、ハートからマインドへと移ってしまうということです。

たとえば、今あなたの周りにあるものを、ただただ見てみて下さい。もしもあなたが部屋の中にいるのなら、壁があったり、机やベッドなどが見えるでしょう。

けれども、そのように一旦確認してしまえば、もうすでに思考の虜になっていることになるのです。コツは、「ただ」見るのです。

その練習をすることです。ただし、ボーっとするということではありません。その逆に、見ている自分をしっかりと意識することです。

しつこい思考はそうやって、落としていくことができるのです。その先には、何も無さである虚空としての自己があるのですね。