じっと自分を見る

普段やっている瞑想とは違って、目を開けたままだったり、身体を横たえたりして、つまりもっと自由に自分を見るということをしていると、いろいろな気づきがやってきてくれます。

自分の身体を見て、身体からやってくる無数の感覚を見、マインドの中の思考を見、ハートにある感情や気分を見て、そういうきわだったものをまず見ていくのです。

そうしていくうちに、言葉では表現するのが難しい何らかのものが見えてきます。もちろん、見えるといっても知覚ではない何かで見ているのですが。

そうすると、まず間違いなく自分は身体では決してないということが、分かってきます。それはいつもよりも、より明確に分かるのです。自分は誰の目からも見ることのできない存在なのだということがはっきりするのです。

それなら、自分の身体を他人に見られても不快に感じる必要はないはずなのですが、それでもやはり他人が自分のことをこの身体と同一視して見ているということが分かるので、結局同じことになるのだということもわかりました。

また、じっと自分を見ていると、自分の本質が、自分が普段イメージしているような人物でもないということも感じることができます。無理に人物としての自分を見ようとすると、過去を紐解かなければならないことに気づくのです。

つまり、人物というものは、これまでの過去の体験から作り上げられたものであり、そのデータはパソコンで言えば外部記憶装置の中に蓄積されたものなのです。また、人物を作る上で身近な情報はより短時間にアクセスできるように、メインメモリ上に常駐してあるのです。

そのあたりは、本当にコンピューターと違わないのですね。だからこそ、ただただ自分を見ていれば、今この瞬間の自分だけが見えるわけで、そこには人物としての自分や人格のようなものまでないということがわかります。

思考を見ている自分は一体何だろうと見ていると、二つの場合があるのかもしれません。一つは、まだ思考によって見ているということ。残念ながら、ものすごく奥の方にも思考とは捉えられないような思考があるような気がするのです。

もしも、この思考さえも突き抜けて、自分を見ることができるなら、そのときこそは、自分を見ていることが自分に戻ってきて、それから先がなくなるのです。それは表現することのできない、純粋な何かです。それこそが、本当の自分の姿なのですね。

いつもそこまで見通すことができるようになれたらいいのですが…。

見られる居心地の悪さ

小学一年生のときのことです。近所の友達と自宅で遊んでいたときに、急に気分が悪くなって、どうしようもなくてトイレに行こうとしている途中の廊下で、吐いてしまったことがありました。

ちょうどそのときに、母親は留守だったのでその友達が彼の親に言いに行ってくれて、後始末などをしてくれたのです。その後、親が帰って来るまでのことは忘れてしまったのですが、一つ覚えていることがあるのです。

それは、その頃母親が留守にすることが多くて、心のどこかで寂しい想いをしていたのだろうということです。勿論それを口に出したことはありませんでしたが。

親が帰ってきた後、行きつけの医者のところに行くと、虫垂炎(そのころは盲腸と呼んでいました)と診断され、その日のうちに手術ということになったのです。

その夜遅く、少し大きめの病院へと父親のクルマで連れて行かれたのです。クルマの中から、窓の外に路面電車(昭和の匂いがしますね)の線路が鈍く光っていたのをよく覚えています。

内心寂しかった自分は、一週間の入院生活を通して、ずっと母親と一緒にいることができたので、結果希望が叶ったわけなのですが、病室ではそれほど満足していませんでした。

その逆に、ベッドに寝たままの自分は母親に対して、そばに寄るなとか、音を立てるなとか、意味不明のことを叫んでいたのを覚えています。

今思うと、その不満は心配の目でじっと見られることの苦しみを訴えていたのではないかという気がするのです。普段言えなかった鬱憤をその時に爆発させていたとも言えますね。

虫垂炎になったのは、明らかに問題行動だと言えます。それによって、日頃密かに感じていた不満を訴えようとしたのでしょうが、それが仇となって、見られることの苦痛を味わうことになったのです。

そしてなかなかしぶといと言わざるを得ないのですが、いまだに誰かに見られることが苦手なのです。相手からの好意の視線でもダメなのです。

その視線の力に、あたかも自分の自由が奪われてしまうという感覚がいつまでも残っているのです。最近それを強く感じているので、自分の中でしっかりその居心地の悪さ、恐怖を見てみようと思っています。

弱さと繊細さ

敏感な体質で生まれた子供は、何かと否定的な言葉で揶揄されることが多いものです。特に、それが男の子の場合にはひどくなる傾向があります。

たとえば、泣き虫だとか、弱虫、痛がり、怖がり、意気地なしなど、家族の中でも末っ子だったりすると、そうした蔑みの言葉は更に増すのです。

こうした表現をされるのには、それなりの理由があるわけですが、それは決して本人が弱いからではなく、繊細だからなのです。

弱さと繊細さは往々にして一緒くたにされてしまいがちですね。繊細さとは、脆さのようにも見えてしまうので、どうしても弱い者として烙印を押されてしまうのです。

そうなると、当の本人は元々幼くて非力であり、大人や目上の兄弟からすれば無力なわけですから、周りからのそうした否定的な、あるいはバカにしたような態度にやられてしまうのです。

そして、きっと自分は弱虫でダメな情けない奴なんだと信じ込んでしまうのです。更に、繊細な子供は他人の気持ちを敏感にキャッチする能力が高いので、相手の心の状態をいつも気にすることになるのです。

そのために、どうしても「ノー」が言いづらいという状況が起きてくるのです。相手の期待に応えてあげて、嫌な気持ちにさせたくないという思いから、服従の「イエス」が起きてくるのです。

本人としては、それでなくても自分は弱い奴なんだと思い込んでいるところに、相手にはっきりと言いたいことを言えない自分に対して、更なるダメ出しをするようになってしまうのです。

成長して、自分を客観的に見ることができるようになれば、理性では自分は別にダメではないはず、ということに気づくようにはなるのですが、幼い頃の自己否定は厳然と残ったままなのです。

そして、大人の自己肯定感と子供の頃の自己否定感が共存し、ほとんどの場合に自己否定感が圧勝することになるのです。

だから本人は、自分はダメじゃないという証明をするための人生を生きるようになってしまうのです。その生き方は明らかに不毛ですね。

なぜなら、本当は自分はダメではないからです。そして、頑張って頑張ってどれほどの成果を上げることができたとしても、かつての自己否定感は消えることがありません。

だから、癒しが必要となるのです。癒しのプロセスによって、間違った過去の自分への思い込みを小さくすることで、生き方が自然と変化するはずです。

もしも思い当たるようなことがあれば、自分で癒しを進めて行くか、セラピストの力を借りることをお勧めします。

人との関わりについて

ほとんどの人が、自分以外の誰かとの関わりの中で生きています。この社会の一員として生活しているということです。

どこかの山奥にでも独りで籠って、世間と断絶した生活をするのでない限りは、どんな仕事をしようと、どんな毎日を生きようとも、誰かとの関わりがそこにはありますね。

ただ、その関わり方にはいろいろあるわけで、私のように深い関わりを持たずに生きている人もいるでしょうし、その逆に何にでも首を突っ込んで、深く関わろうとする人もいるはずです。

私はこの仕事をするようになる前まで、ほとんど自分のことしか見ていませんでした。自分に都合の悪い人たちとは関わらないようにしていたということです。

自分が我慢をしてまで、誰かと一緒にいたくないとずっと思ってきたからです。だから、いわゆる人間関係というもので困ったという経験がなかったのです。

それは当然ですね、困らないように、面倒なことに巻き込まれたりしないように気を付けて、苦しむような関係を作らないようにしていたのですから。

だからこそ、セラピストになって多くのクライアントさんから、人間関係について困っているというお話を聞いて、本当にびっくりしたのです。

最初に感じた正直な想いは、いやならその関係をやめてしまえばいいのに、でした。勿論、このシンプルさは今でも大事だと思っています。

ただし、やめてばかりでは、いつまでたっても人との関わりの中から大切なものを受け取るという体験ができなくなってしまうということにも気づきました。

誰とでも深く関わってしまう人は、それだけ葛藤を抱えたり、人との軋轢の中で苦しんだりすることが多くなるのは事実ですね。

けれども、そうしたことも一つの体験としては貴重であって、決して間違ったことではないと感じるようになったのです。

クライアントさんから、どんな話しをお聞きしても、根本的なところでは決して間違ってはいないということが分かるのです。

何でもやり過ぎれば、生がそれを正してくれます。自然とほどほどのところに戻されるものです。私のようにやらな過ぎでも、しっかりとほどほどのところへと持っていかれるのですから。

だから私は、今沢山の方々の人生を深いところまでご一緒に見る機会を与えてもらっているのだろうと思うのです。ありがたいことです!

存在への信頼

東日本を襲ったあの未曾有の大災害である3.11の後、日本人の意識が何となく変化したなあと感じているのは、私だけではないはずです。

起こるはずのない大事故が原発に起こり、誰もがあの災害は他人事ではないということを感じたからなのかもしれません。

私たちは、気づかぬうちに日頃は安全な場所で生活していると思い込んでいるのです。本当は、安全な生というものはありません。

いつでも危険と隣り合わせなのです。いつも死が生のすぐ近くにあるという事実を、自分のこととして体験することができたのだと思います。

極端な出来事、体験したくない惨(むご)たらしいこと、そういった災難というものは、いつも大切な気づきを与えてくれるのです。

誰もが、できることならいやなことに遭遇したくない、酷い目には遭いたくないと思っているのですが、起きることは起きるという意識をより養うことが必要なのでしょう。

素敵な osho の言葉を見つけましたので、プレゼントします…

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存在は、どんな個人よりも賢い。なぜなら、個人が持っているのは小さな意識だからだ。たとえ光明を得ていたとしても、彼はやはり広大な存在の海の中のほんの一滴に過ぎない。

だから、存在が感じていることが正しいのだ。もし存在がアルヒラジ・マンスールが殺されるべきだと感じているのだとしたら、それが正しい。

もし存在が、イエスは十字架に架けられるべきだと感じているのだとしたら、それが正しいのだ。

信頼とは、何が起ころうとも、喜びに満ち、いやいやながらではなく、しぶしぶではなく――そうだったら、要点の全てを見逃している――そうではなく、踊りながら、歌と共に、笑いと共に、愛を持って、起こることと共にあるということだ。起こることは全て、何かのためだ。

存在には間違えようがない。もし存在が私たちの願望を満たさないのなら、それはただ、私たちの願望が間違っていたということだ。

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無意識に感情を抑圧する

私たちは、幼い頃から無意識的に自分にとって都合の悪い感情から逃れようとする習性のようなものを持っています。

生きていれば、誰でも感じる恐怖や怒り、罪悪感や孤独感など、こうしたいわゆるネガティブな感情は必ずやってくるものです。

幼い無防備なころは、それへの対処法を知らないために、直接そういった感情を味わうことになるのですが、何度か経験をするうちに、防衛力が養われてくるのです。

そうすると、自分でも気づかぬうちにネガティブな感情を抑圧する術を学んで行くことになるのです。その方法は、それこそ無数にあるのかもしれません。

そのうちの代表的なものとしては、マインド(思考)を活発にすることで、つまり理屈をあれこれと考えることで、感情を抑えてしまうという方法がありますね。

そのほかにも、何か熱心に打ち込むものに意識を集中する方法、気を逸らすという意味ではいろいろなバリエーションがあるでしょう。

また、自分を責める、つまり自己否定感を作り出すことで、他のあらゆる感情が出て来れないようにするといった凄い技もありますね。

子供の頃に作ったこうした防衛策は、大人になってもそのまま使い続けている場合がとても多いのです。あなたはどんな方法を持っていますか?

自分が日頃無意識に続けている防衛策にまず気づくことが先決ですね。その上で、そうした防衛を少しずつ手放していくことで多くの問題が解決していくものです。

心当たりがあるなら、是非チャレンジしてみることをお勧めします。

幸不幸と異なるもの

多くの人が自分の人生を、幸せなものにしたいと望んでいますね。今すでに幸せな状態にいる人は、より幸せになりたいと思うものです。

どうなれば幸せになれるかと言えば、勿論望んでいることが実現すれば間違いなく幸せになれると考えているわけです。

けれども、本当のところどんな欲求が叶ったとしても、その時点での幸福感はそれほど長くは続かないものなのです。それはなぜでしょうか?

実は、幸福感というものは不幸と抱き合わせでしか感じることができないものだからです。幸福というものは、言ってみれば不幸の一部でしかないということです。

不幸のどこか一部に、部分的にそれとの対比としての幸福があるのです。不幸の海に浮かんでいる島のようなものこそが、海との対比によって幸福と感じられるものなのです。

だから、幸福感は決して持続しないのです。その状態が続くうちには、必ずそれは何とも感じないものとなってしまうからです。

私自身も、そのことをはっきりと体験しました。サラリーマン時代の自分が今の自分のことを想像したら、それは夢のような生活だと狂喜するはずです。

それなのに、今この瞬間だけを見ていると、そこにはいわゆる幸福感というものを感じることができないのです。正確に言えば、幸福でも不幸でもどちらでもないということです。

今の生活が当り前になってしまったからですね。そして実は、幸不幸とは全く異なるものが毎日を占めている感じがしています。それは、きっと自分以外の誰にも伝わらないのだろうと思うのです。

きっとこれがある種の至福感だと思うのです。これはとりたてて大騒ぎするような代物でもないし、大きな感動や興奮を伴うものでもありません。

ただこうして在るという、そのことの中における微妙な味わいなのですね。

闘わない人生

定かではないのですが、栄養ドリンクか何かのコマーシャルで、『24時間戦えますか♪』という耳慣れたフレーズがありますね。

よく考えてみると、大変なことを言っているわけです。勇ましい面構えのスーツを着たサラリーマンの姿が目に浮かびますね。

また、岩崎宏美さんの歌の中で、大好きな「聖母(マドンナ)たちのララバイ」という曲があるのですが、その中に次のようなフレーズがあります。

『この街は戦場だから、男はみんな傷を負った戦士♪』。これ、たんなるたとえ話ではなくて、本当に社会の中で生き抜いていくには、熾烈な闘いに負けずに頑張る必要があるのです。

私は子供の頃から、男のくせにこうした争って勝つということに興味を持てないでいました。それなのに、気が付くとしっかりと社会という戦場の中で、ごく普通に闘いの毎日を送るようになっていました。

不思議ですね。生きて行くためには、それしか他に道はないと勝手に思い込んでしまっていたのでしょう。癌を患って、ようやくそこから脱出することを本気で考えるようになったのです。

そして、闘いはいつでも止められるということを知りました。それはサラリーマンだった頃の自分には、ただの夢物語のように思えていたものでした。

勿論、あれも手放したくない、これも手放したくない、というようにそれまでの毎日にしがみついている限りは、闘いから逃れることはできないでしょう。

だから、まず何よりも自分は闘いが嫌いであって、そこから手を引くのだという決意が最初に必要なのです。その決意さえできれば、あとは自動的になるようになっていくはずです。

闘わなくても生きて行けるのです。そればかりか、闘わない人生を生きることこそが本当の勝利者になるのだということにも、気づくようになるのです。

セラピー → 瞑想

もしもあなたが、セラピストのところへ行ってセラピーを受けて、自分の抱える心の闇を改善してよりよい人生を生きようとするのなら、次のことを忘れないことです。

まず、今現在あなたが抱えている(と考えている)問題のすべてが解決されるということは、事実上あり得ないということです。

セラピーは、続けようと思えば際限なく続けていくことができるものです。終わりがありません。だから、どこかで切り上げることです。

そうして、心の闇の部分を探ることを止めて、今度はその闇に光を持ち込むことをすることです。つまり、瞑想をするということ。

セラピーの目的は、様々あるのでしょうけれど、私がセラピーをする最大の目的は、クライアントさんが瞑想をすることができるところまで、癒しを進めることなのです。

セラピーはあくまでも前段でしかありません。終わりのない癒しの作業にいくら時間を割いてみても、何もいいことはありません。単に暗闇の中をグルグル回るのがおちです。

かといって、今日から瞑想を始めようとしても、なかなか思うようにできないことが多いものです。それは、あなたのエゴがそれを阻止しようと企むからです。

瞑想とは、あなたのエゴを落とすことになるわけですから、妨害されても仕方ありません。そのために、セラピーによって、ある程度エゴの力を小さくしておく必要があるというわけです。

もしもあなたが、今すぐに充分に瞑想をすることができるなら、セラピーを受けるよりも、そのまま瞑想を続けて行くことをお勧めします。

真の中心に気づく

自覚があろうがなかろうが、私たちの心の奥には不安、あるいは恐怖が潜んでいるのです。その不安の真の理由とは、一体なんだと思いますか?

それは、自分という存在の中心らしきものが見当たらないからなのです。いやいや、そんなことはない、人物としての自分の軸がしっかりとある、と思っている人もいるでしょうね。

けれども、それはそのように思い込んでいるということです。固く固く信じ込んでしまっているために、それは事実なのだとしているわけです。

この程度の誤魔化しは、ちょっと瞑想するだけでウソだとばれてしまうはずです。人物としての自分という中心がどこを捜しても見つけられないからです。

そして瞑想などしなくても、自分自身のことなので、いくら思い込みが強いとはいえ、やはり心のどこかでは気が付いてしまっているのです。

自分と言う存在の中心がないことを。それは勿論不安にならざるを得ないでしょうね。なぜなら、自分の存在が曖昧なのですから。

エゴは自分こそが存在の中心だと豪語するのですが、訴えれば訴えるほど怪しさが増してしまうのです。そしていずれは、誰もがそんなものは最初からなかったのだと理解することになるのです。

でも心配には及びません。あなたのエゴが落ちて中心が無くなってしまったと恐くなるのと同時くらいに、新しい本当の中心が見つかるからです。

見つかるというよりも、それ自体が自分そのものだったと気づくことになるのです。人物としての自分はその中心から隔てられた円周に過ぎなかったのです。

その円の中心こそが、あなたの本質であり、この宇宙の中心でもあるということに気づくのです。