親からの深い洗脳

人をコントロールすることに悦びを感じるタイプの人がいるものですね。私の中にも一生懸命捜せば、少しはそれらしい部分があるのかもしれませんが…。すごく小さい感じがします。

きっと他人を我が意のままにコントロールすることができたら、相手に優位な立場を取ることができるので、征服欲というものを満たすことができるのでしょう。

また、エネルギーの圧力の強い人というのもいます。言ってみれば、そこにいるだけでいい悪いは別にして、人への影響力が強いわけです。私はこの反対のタイプに属すると思っていますが…。

こういうエネルギーの強さを生まれながらに持った人は、この社会では成功する可能性も大きくなるのかもしませんね。なぜなら、人は誰でも自分独りで何かを成すことはできないからです。

そして、この両者の特質を併せ持った人、つまり征服欲が強いだけでなく、影響力も強い人です。このようなタイプの人が、もしも自分の親だったらどうなるでしょうか?

そうした親に育てられた子供は、間違いなく親からの圧力にやられてしまうはずです。親は良かれと思って、ドシドシ自分の正しさを子供へと与え続けるのですが、子供は自分の自由さを益々奪われていくでしょう。

けれども、子供はその親が大き過ぎて、偉大過ぎて、正しいはずと洗脳されてしまっているために、正面きって(意識的に)反抗することができなくなってしまうのです。

そうなると、いつものあの問題行動を無意識的に起こして、心のバランスを取ろうとするのです。その問題行動というのは、親が問題視する類のものですから、なおさら親はより強い力で子供を支配しようとします。

そうなれば、さらに問題行動が増えて、と言う具合に当然の結果としての悪循環が起きてしまうのです。子供の頃のこうした洗脳というのは、なかなか根が深いもので、大人になっても変わらずに残っているものです。

洗脳を解くためには、当の本人がそのことに気づいて、勇気を持って現在の自分の言動に注意し、少しずつでも自分の本当の気持ちを表現していく必要があるのです。

その時には、必ず見捨てられる恐怖がやってきたり、親に対する罪悪感に苛まれることをあらかじめ覚悟しておくことです。そして、恐怖や罪悪感から一歩も逃げずにただそこにい続けるのです。

感情と戦わず、そして逃げずに見ることができたら、その時にはそれまでの自分とは違う自分を発見することになるはずです。そうやって、少しずつ洗脳は薄れていくのです。

癒しは問題解決志向ではない

精神的な癒しというものは、ある特定の問題に対して直接的に解決するようなものではありません。その反対に、それはいつでも間接的なものなのです。

だからご本人が、ある問題をできるだけ早くに解決したいと思っていても、どうもまどろっこしいやり方をするなという印象を持たれてしまうこともあるかもしれません。

例えば、不登校の子供がいるとします。この子供がとにかく他の子供たちと同じように、学校に行くようにすることを目的とするなら、それは直接的な解決を目指すということになりますね。

けれども、行けなかったものが行けるようになるとか、電車に乗れなかったものが乗れるようになる、というのはあくまでも表面的なことに過ぎないのです。

不登校の子供を持つ親としては、原因が何であれ、とにかく我が子が明日から学校に行ってくれるようになりさえすれば、それで一安心なのです。その気持ちはよく分かります。

でもその表面的なことが仮に解決したとしても、その奥にある本当の原因が分からなければ、早晩今度は別の何かの形で、問題が発生することになるのです。

したがって、まどろっこしいと感じるとしても、その問題だけに焦点を絞るような方法では、結局何も本当には解決しないし、何の大切な気づきもやってくることはないのです。

それは、木の末端にある葉っぱの色や形状を心配して、それを磨こうとするようなものです。直接的な効果がすぐに得られないとしても、その木の根っこの部分の不具合を見てあげなければならないのです。

癒しは問題解決志向ではありません。何か問題が起きたときには、焦らず慌てず、じっくりと腰を据えて心の根深い部分を見るチャンスだと捉えることです。

そして間違いなく、今まで自己防衛のために気づこうとしてこなかったことに気づける、ありがたい機会がやってきてくれたのだと認識することです。

セッションにいらっしゃって下さるどのクライアントさんに対しても、私は内心でこう思っています。「千載一隅のチャンスが来てますよ~、よかったですねえ!!」

だからそのチャンスを決して逃して欲しくないのです。

「自己啓発」にやられるな!

「自己啓発」という言葉がありますね。自己啓発セミナーとか、自己啓発本などのようにして使われることが多いかと思うのですが、みなさんは馴染みがありますか?

例によって、ネットの辞書で意味を調べて見ると、次のように書いてありました。

「自己をより高い段階へ上昇させようとすることである。より高い能力、より大きい成功、より充実した生き方、より高い人格などの獲得を目指す。」 とあります。

何かすごく前向きな感じがしますし、向上心の塊りみたいな人をイメージしてしまうかもしれません。もしも、あなたが自己啓発という言葉に馴染みがあるなら、気を付けて下さい。

年齢が比較的若いクライアントさんには、この自己啓発に興味を持って、実際にその道を進めてきたという方々が沢山いらっしゃいます。

私は、自己啓発に関心があるなら、それは問題があると正面から言い切りたいと思います。その理由はいたって簡単なのです。

自分の存在価値にしっかり気づいている人は、自己啓発に興味を持たないからです。「より○○を目指す」というのは、今の自分では満足できないということがあるのです。

私のセッションでは、如何に自己啓発が馬鹿げたことなのかに気づいてもらうことを主眼としています。その逆に、そのままの自分を丸ごと受け止めることこそが本当に大切なことなのだと理解することです。

私たちが知っている向上心のほとんどは、自己否定が根底にあるということを知って欲しいのです。向上心は自己否定と未来への期待で成り立っています。

これは、エゴをもっとも強力に育てる生き方と言えるでしょうね。若い時の自己啓発が終わりを迎えたときに、その人は一体次には何を画策することになるのでしょうか?

どんな戦略を練ろうと、それはすべてエゴの独り舞台なのです。本来のあなたは、そんなエゴの勢いに飲み込まれないで、生があなたに与えた目的地を、そのまま受け容れていけばいいのです。

生の目的地こそが、あなたの目的地なのですから。

自分の内側の広大さに気づくと…

ごく一般人として、普通に社会に順応しながら生きてきた人が、何かのきっかけなどから一たび、自分の内側の広大さに気づいてしまったら、その人の人生には違った質が顕われてくるのです。

それは例えば、それまでその人が信じてきた大切な事柄や、沢山の常識あるいは正しさ、また長年かけて培ってきた知識などが、あれっと言う間にガラクタのように感じ出すのです。

それは、ある種青天の霹靂とも言えるかもしれません。どれだけ、自分は社会やこの世界から騙されてきてしまったのか、そして騙した中の一人として自分自身も含まれるのです。

自分が頼りにしていたものが、次々と崩壊していくように感じる人もいるかもしれません。それはとても恐ろしい感じがするはずです。

けれども、その一方で言葉には尽せないほどの解放感、清々しさというものも味わうことになるはずです。なぜなら、原理的にはあらゆる心理的な束縛から解放されて自由になるのですから。

そして、徐々にではあるのですが、外側の世界に自分を満たしてくれるものは一つもなかったと気づいていくのです。勿論、そこそこ未練は残るのですが…。

さらには、人生への見方というものが変化してしまいます。誰もが持っている人生の目的や目標といった未来に向けての期待が薄れて行ってしまうのですから。

この無目的というのは、何かを達成するという生き方の正反対というわけではありません。それなりの目的があってもいいのですが、自分のエネルギーが向かう中心が、未来から今現在へとシフトするということです。

またやること、なすこと、考えることが単純なものになっていくはずです。そして、内側を見るという体験をもっともっとしたくなって、ともするとこの社会が邪魔に感じ出すこともあるかもしれません。

けれども、社会から逃避することなく、社会の中にあって社会から束縛されない、社会には一切触れないでいるという人生がやってくるかもしれません。

そしてもしも神の恩寵があれば、その人は肉体があるうちにその人格は消えていくのでしょうね。

珍しい停電体験

今日はとにかく暑い日でした。天気予報を見る限りは、しばらくは雨が降らないのかと思っていたら、ちょうど仕事が終わって帰ろうと思ったときに、ものすごい雷雨に見舞われました。

若干天気予報を恨みながらも、事務所から数分のところにある駐車場まで歩く間に、膝から下がずぶ濡れ状態になる始末。また、透明傘を通して見える強烈な稲光と轟音が怖かったです。

ようやく車内に入り安心していたら、自宅から停電しているとの連絡が。確かに、自宅近くに来ると、信号機の電源がオフになっていて、危険を感じました。

帰宅しても、停電ということの意味をまだ理解できてないのか、当然のことですが部屋が真っ暗な状態であることに、今更ながら面喰い、自分ながら苦笑してしまいました。

家人が停電になる前に、部屋のクーラーをつけておいてくれたおかげで、やや涼しいのが助かり、非常用の小さな蛍光灯のようなもので、テーブルを照らしながらの食事となったのです。

けれども、これがまた何というか風情があるというのか、手元しか光のない薄暗い部屋の中で、テレビの音もない静かな環境でビールを飲んでいると、とても心安らぐ感じがしました。

自分独りだと特にテレビをつける必要を感じないことも多いのですが、習慣のようになっているのですね。部屋が暗い状態というのもすごく新鮮でした。

普段瞑想する時には、部屋の電気を暗くするのですが、その時は自分が目を閉じてしまっているので、暗い部屋で過ごしているという記憶がないのです。

電気のない生活というのは、もうほとんど在り得ないものとなってしまっているのですが、たまにはシンプルな生活を思い出すためには、停電もいいものだなと思ったのです。

家人が、「トイレいってもいいのかしら?」と頓珍漢なことを言ったのには笑いましたが…。ウォシュレットが使えないことと水を流すことを混同してしまったのでしょうね。

「動」の中にいて、「不動」に意識を向ける

私たちは常に活動しています。じっとしているように見える人も、生きるということ、つまり生そのものが活動なのですから、例外ではありません。

この地球上においても、生物に限らず無生物であっても、必ず「動」の状態にあるのです。地面は私たちにとっては静止しているようにみえるけれど、地球の自転によって時速1700kmくらいの速度で動いています。

太陽にしても、あるいは我々の銀河系にしても渦を巻きながら途方もないスピードで宇宙空間を移動し続けているのです。つまり、この宇宙全体が、「動」で成り立っているのです。

どこを探してみても、「不動」を見出すことはできません。けれども、もしも仮にあなたのマインドの中の思考が停止したとしたら、あなたは「不動」を感知するはずです。

「不動」は、思考によってイメージすることはおろか、どんな知覚によっても感じることは不可能なのです。なぜなら、思考も知覚も「動」の仲間だからです。

実は、思考を完全に止めるなどというのは、一般人には到底できることではありませんが、でもそれを垣間見ることならできるのです。

たとえば、ゆったりと落ち着いた状態で自分の思考を見るのです。そうすると、思考と思考の間にほんの一瞬思考のない部分があることに気づきます。

そこに意識を向けることによって、「不動」を感じることができるはずです。この「不動」こそが、私たちの本質なのです。この世界の「動」という現象を支えている「不動」が在ることに気づくことができるのです。

それは、映写された「動」としての映像と、「不動」としてのスクリーンのようなものだと思えばいいかもしれません。

できるだけ、精妙に周りの音に耳を傾けるなら、思考は緩み、「動」としての音の奥にある「不動」の静寂を聞くことができるはずです。

常に、「動」の中にいながらにして、「不動」に意識が向いていれば、思考は自然と落ちていくし、その逆も起きるはずなのです。

二種類の無思考状態

私たち人間は、この地球上では最も進化した生物ですね。けれども、冷静に見ると、ひとりの人間の約90%は他の動物と同じなのです。

あなたのマインドの9割は無意識だからです。動物は完全に無意識状態で生きています。だから、人間と動物との違いは、わずかに10%くらいのものなのです。

ときどきクライアントさんに対して、「思考を緩めてできるなら何も考えずにいられるといいのです」とお伝えすることがあるのですが、すると、「それって、ボーっとすることですか?」と質問されます。

無思考の状態には、二種類あると思って下さい。一つは、確かにボーっとする状態があるのですが、これはまさしく動物と同じ状態であると言えます。意識的な部分が何もない状態。子供は時々そうなっています。

子供はまだ動物に近い状態で生きているからですね。まだまだ幼くて、社会というエゴの組織に取り込まれていない場合には、動物のようにのんびりとして、思考のない状態でいられるのです。

無邪気な子供らしいマインドは、精神的な苦しみというものをまだ知らないのですから、羨ましい限りですが、残念なことに当の本人はそのこと自体を意識できないでいるのです。なぜなら、無意識だからです。

そして、もう一つの無思考の状態とは、完全に意識的であるということ。しっかりと目覚めている状態であると同時に、マインドが動かない状態でいるということです。

だからこそ価値があるのです。マインドというのは、そもそも動いているもの、活動し続けることによって生き延びているのですから、動かないマインドというのはその危機的な状態とも言えるのです。

したがって、そんな状態は長くは続けることができません。マインドはすぐになんだかんだ理由をこじつけては、活動を始めるのです。つまり、思考が次から次へとやってきて、私たちを乗っ取ってしまうのです。

だからこそ、瞑想状態ではゆったりしていることができたとしても、日常の生活に戻ってしまうと、あっという間にマインドは活躍し始めてしまうのですね。

無思考でかつ意識的でいる訓練を続けていくことで、いずれは無意識に光が当たり、すべてが意識的になる時、もうマインドは再起することができなくなり、人は光明を得ることになるのですね。

瞑想中に起こることは、牛の糞

瞑想の時の気持ちよさが止まらない。どのように表現すればいいのか迷うのだけれど、そしてこの正体とは一体なんなのだろうか?

最初は性的な快感と関連があるのかもしれないと思っていたのですが、どうもそれが中心にあるのではないということは気が付いたのです。

でもその先がまったく分からない。けれども、osho が、瞑想中に何が起ころうとも、それは牛の糞だ!!と言っていたのを思い出し、それを知っていてよかったと思ったのです。

これって、クリスチャンだったらイエスの姿が見えてしまうのかもしれないし、敬虔な信者だったらまばゆい光に照らされる経験をすることになったかもしれません。

それは、本人のマインドが決めることなのです。そして、どんな体験をしようと、それは体験をするエゴ本人がそこにいるということになるのですから。

自分なりに見つめてみると、もしかしたら幼いころの無邪気で無防備なあの感覚に近いのかもしれないと思うのです。長い間抑圧されて隠されていたそれが、瞑想によって表面化したのではないかと…。

だとしたら嬉しいことです。そしてそれは、とても精妙なものでもあるのです。何気なく呼吸するのではなく、できるだけ静かに、そうっと呼吸をするだけでその感覚はやってきます。

敢えて言えば、静かな恍惚感なのかもしれません。静かではあるのですが、本人としては場合によっては呻くこともあるような、かなりしっかりした恍惚感なのです。

ただし、自分がそれをコントロールすることができないので、とても不安定なものなのです。それがやってくることを期待しても、期待通りには行かないし。

本来の瞑想からはかけ離れているという感覚もあるので、しばらくは静観していようと思っています。それ以外には何もできないし。

なによりも気づけたのは、外側よりも内側が大切なのだということ。内側は、宇宙よりも無限に広大だということです。それだけは間違いないことですね。

内的ロボット

この話しは以前にもしたことがあるのですが、かつて会社員だったころ、オフィスがあった横浜から車で帰ってくるとき、走り出してすぐにケータイに電話がかかってきたのです。

夜中でも自宅まで小一時間かかるのですが、そのほとんどを電話で話しながらの運転だったのですが、もうすぐ自宅に着くというところで電話を切ってはっと気づいたのですが、その時自分がどこをどうやって運転してきたのか一切の記憶がないのです。

それは思い出せないというよりも、まったく自分が運転してきた感じがなかったのです。後になって、こうしたことはいくらでもあるのだと分かったのですが…。

その時クルマを運転していたのは、私ではなくて私の心の中にいる内的ロボットだったのです。私たちは何かを訓練して、うまくできるようになると、ごく自然にその仕事を内的ロボットへと渡すのです。

そのロボットは、私の代わりになって所定の手続き通り、いろいろな仕事を効率的かつ能率的にこなしてくれるのですから、使わずにはいられなくなるのも当然なのです。

ロボットに処理をさせておいて、自分は緊急の電話に集中することもできるし、場合によってはまったく他のことを考えたり行動したりもできるのです。

だからロボットは都合のいい道具なのですが、一方で大問題も発生するのです。それは、ロボットは突然のイレギュラーな状況には対応することができないということです。

あるお笑い番組の中での私が大うけしたネタなのですが、話し手がタクシーに乗って移動中に疲れて寝ようとすると、信号待ちで停車するたびに、その運転手さんがサイドブレーキを引く「ギ~~」という音がするのです。

その音が結構耳障りで起こされてしまうために、サイドブレーキを使うのをちょっと控えて欲しいと伝えると、運転手さんは了解してくれるのですが、結局停まるたびにサイドブレーキを引いて「ギ~~」という音を出してしまうのです。

そのたびに、運転手さんは丁寧に謝ってくれるのですが、最後に彼が言ったのは、「だめだ、どうしてもやっちゃう~~!」だったのです。

つまり、タクシーを運転していたのは運転手さん自身ではなくて、彼の中にいる内的ロボットだったのです。ロボットだからこそ、臨機応変に手順を変えることができなかったというわけです。

そしてもう一つ、ロボットを使うときのとてつもなく大きな問題があるのです。それは、ロボットを使うとあなたの思考が野放しになって、止まらなくなる可能性が大きいということです。

ということは、どれほど一生懸命瞑想に勤しんだとしても、ロボットによる生活を続けている限り、思考の虜から抜け出せなくなるということです。

ロボットに仕事をさせないためには、あなたが意識的になってその仕事をするように注意深くいる必要があるということです。それが意識的に生きる、あるいは瞑想的に生きるということなのです。

比較せずにいられないマインド

自分や自分の人生についての自己評価というのは、人によって本当に様々ですね。不運の星の元に生まれてしまったと感じてる人もいるでしょう。

あるいは、自分の人生はどういうわけか、そこそこいいんじゃないの?と思ってる人もいるはずです。何をやってもうまく行かないと感じている人からみれば、次から次へと自己実現を進めているように見える人をずっと羨ましい気持ちで見ているはずです。

もしも、自分と自分の人生を他人のそれと比較してしまえば、そこには必ず嫉妬の嵐がやってきます。その嫉妬は私たちの心をいたく傷つけることになるのです。

それなら、比較することを止めればいいだけなのですが、残念ながら私たちは生まれたときからずっと他人との比較をし続けるようにと、条件付けされてしまったのです。

それは非常に強烈な一つの洗脳とも言えるものです。もしも仮に、私たちが他の動物や植物とも比較されるように洗脳されていたら、もっと悲惨なことになったかもしれません。

でも私たちに与えられた洗脳は、人間同士の比較だけだったので、他人と比較するということだけを今日までずっとやり続けてきたのです。

勿論、比較の度合いや方法も人によってさまざまです。あまり強くは比較しないでいられる人もいれば、強烈に比較してしまう人もいて、その傾向が強いほど人生を苦しむことになってしまいます。

比較したうえで、俺ってイケてるんじゃないの?と思っている人もいるかもしれませんが、そういう人でも比較して都合の悪い結果が出た部分については、抑圧して気づかないようにしているのです。

つまり、あらゆることを比較した上で、すべてを包み隠さずに見るならば、いい精神状態でいるということはほぼ不可能なことなのです。

残念ながら、比較を急に止めることはなかなか難しいことです。ですので、まずは比較をどうしてもやってしまう自分の心の部分を正面から見て、丸ごと受け止めてあげることから始めることです。

比較せずにいられないサブパーソナリティをいつも抱きしめてあげることです。そして、その抱きしめている側の自分は、完全に比較が落ちていることに気づけばいいのです。