知覚 その2

昨日のつづきです。

知覚には外部からの信号を取り込む部分とそれを解釈する部分があり、双方で意味のある情報として利用しているのですが、エゴは自らの都合のいいように解釈の部分を変えて、それを正しい知覚だとして我々に渡すというお話しをしました。

そのために、あるがままを受け入れるということがとても難しいこととなってしまっているのです。
知覚が生きる拠り所であるにもかかわらず、私たちはエゴによって勝手に歪められた知覚を正しい知覚だとして生活してしまっていることにしっかりと気付く必要があります。

エゴにとって都合の悪い情報が入ってきた時ほど、エゴはこれでもかというくらいに知覚を歪めてしまいます。

たとえば、年齢や姿かたちだけで人を判断してはいけない、などというのはこうしたエゴの知覚をそのまま信用してはいけないという戒めなわけです。

肌の色で人を差別したり、着ているものや持っているものでその人を判断してしまうのもエゴによって騙されているのです。

エゴによって、冷静さを失わされてしまっているようなときには、また更にひどく知覚を変形されてしまったりもします。

かつて、自分がとても急いでいるときに、店員さんがレジでの手順をのんびりやっているを見て、なんて無能な奴なんだと怒りを覚えたことがありました。

エゴに騙されずに、できるだけ正しい知覚を使って生活するためにはどうしたらいいでしょうか?言い変えると、どんなことでもありのままを受け入れていつも平穏な心でいられるためにはどうすればいいのでしょうか?

それは勿論、外部から入ってきた信号をエゴの防衛システムで解釈しないようにすることですね。そのままを受け取ることができたら、いつも正しい知覚を受け入れることができるわけです。

出来る限り、エゴを選択しないという選択をすることです。それはエゴと対極にある愛を選択するということです。

この選択がうまくできているときには、確かに知覚の仕方に違いがあるということを感じられるはずです。そしてそれは、本当にとても気持ちのいいものなのです。

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