翻訳本が出版されない功罪

「奇跡のコース」という本を読むことをライフワークにしているのですが、残念ながらまだ正式な翻訳本が出版されていません。

原文は英語なのですが、もうすでに各国語に翻訳されたものが全世界的に出版されているそうなのですが、どういうわけか日本ではいまだにそれが実現していないのです。

ただこれこそ奇跡的なのですが、ある人が自力で日本語訳したものがあって、それを手に入れて勉強会でも個人でも利用して読み進めています。

しかし、各国から遅れて日本語版だけが未だに出版されていないことをただ残念がるだけよりも、そのことの功罪というのがあるということに気づきました。

まず困ったこととしては、当然のこととして日本語の本が出版されていないのですから、日本での認知度が上がらないということです。

本屋さんに行って誰もが普通に手にとってパラパラとページをめくって見ることもできません。出版社さんも、英語版だけでは商売として期待することは不可能に近いはずですから、販売促進などに力を入れることもできません。

いわゆる市場性ゼロなわけです。ごく限られたある種マニアックな人たちだけが原書を買うのでしょう。しかし、私の個人的なレベルでは功罪の功の方が勝っているのです。

何と理想的な環境にあるのだろうと最近つくづく思えるようになりました。まず、個人翻訳された日本語の文章も英語の原文もどちらもネット上で見ることができます。

つまり、ファイル化されているということですね。これは一般的な本についてはあり得ないことです。ファイルになっているということは、必要に応じてプリントアウトすることもできますし、パソコンの画面上で読むことも可能です。

単語の検索もできるし、カット&ペーストでいかようにも編集することが可能です。また日本語と英語を同時に見ながら作業することもできるのです。こんな便利な環境は出版されている本ではあり得ないことです。

そして最後に、最大のメリットは、個人翻訳されたものを読んでいるために、ある種この翻訳は正しいのだろうかといういい意味での疑いの目を持ちながら読むのです。

そのために、少しでも意味が分からない部分についてはすぐに英語の原書でその意味を確認するという読み方になったのです。

英語が初めから得意な人は原書で読めばいいのでしょうけれど、そうでない私はもしも正式な日本語の本が手元にあったとしたら、原書を読むということはなかったかもしれません。

こうした読み方を繰り返していると、ただ日本語の文章を読むことに比べて自動的により深い読み方ができるのです。

そういうことを総合して考えてみると、今自分に与えられている環境は恐ろしいくらいに理想的だということが分かります。本当に感謝ですね。