諦めたとは諦めていないということ

子供の頃というのは、とにかく自分ではお金を稼ぐことができませんので、何か欲しいものがあった場合には通常は親にねだることになりますね。

いくらせがんでも買ってはもらえないと分かったときに、その欲しかったものを諦めるわけですが、本当に諦めがついたときにはもうケロッとしてその事に興味もなくなってしまいます。

したがって、また他のことに興味を向けて、今度はそのことで頭がいっぱいになるのです。もしも、口先だけで諦めたと言っている場合には、子供の態度はきっと何か不機嫌だったりするはずです。

手に入れたいものが単純なモノの場合にはいいのですが、それが心の問題であるとそう簡単には済みません。

例えば、親に自分の気持ちを分かって欲しいという場合には、何度訴えてもわかってもらえないという時には、表面ではもう諦めたという状態になるはずです。

なぜなら、そうした諦めをしないでいると、いつまでたっても自分の心が苦しい状態のままで全く報われなくなってしまうからです。

そうして諦めた後は、もうあまり自分のことを親に話そうとはしなくなってしまいます。しかし、こんな大切なことを本当に諦めることなどできるでしょうか?

本質的にはほとんど無理なはずです。従って、自覚の上では諦めたことになってはいるものの、本心では決して諦めなどついてはいないのです。

もしも、本当に諦めがついたという場合には、わだかまりが残らないために、今までどおりごく普通に親に話しかけられるはずですね。

この場合には手放したという表現の方が適切かもしれません。自分のことを分かってもらえなくても、自分は何とかやっていけるという心の状態になったということです。

しかし、子供の幼い心の状態では、そんな手放しは到底無理なのです。結局、諦められてはいないということです。

それが、親に対する反抗的な態度になったり、全く口を開こうとしない無視の状態になったりしてしまうということです。

これは子供の場合だけではなく、大人になっても充分にあり得ることなのです。諦めたと思っているものについて、じっくり自分の気持ちを確かめてみて、そのことに何のわだかまりも残っていなければ、それは確かに諦めがついた、手放したということになります。

しかし、何らかのわだかまりや思い残しのようなものを感じるのでしたら、それは心の底では決して諦めてはいないと気づく必要があります。

なぜなら諦めがついていないと、その不満や思いが何らかのネガティブな要素となって、毎日の自分の生活に悪影響を及ぼす可能性があるからです。

印象的な昔のテレビ番組 その3

それは2時間ものの日本のテレビドラマだったと記憶しています。物語の詳細はほとんど覚えていないので要所だけをお話ししたいと思います。

あるご夫婦のお話なのですが、歳の離れたご主人が奥さんのことをとても大切にしている仲睦まじい絵に描いたような二人なのです。

ところがご主人にはある暗い過去があり、それがふとしたときに彼の表情に出てしまうのです。それは、決して最愛の妻には言えないような重く苦しい過去の体験なのです。

その体験とは、ある大手デパートの高層階で火災があり、そこに居合わせたご主人は煙と炎に巻き込まれながらも命からがら窓からはしご車に飛び移って命拾いしたのです。

パニックになっていたご主人が我れ先にと窓から逃げようとしている様子が、全国放送のニュースで映っていたのです。

そんな辛い過去のことを吹っ切るように、その後の人生では素敵な女性と知り合い、結婚して幸せな生活を送っていたわけです。

ところが、あるきっかけでその事件の時の映像をもう一度見たときに、とんでもない場面が映っているのを知ってしまったのです。

それは、窓から助けを求めているご主人の後ろから、彼にしがみついて助けを求めているある女性がいたのですが、それが今の奥さんだったのです。

ご主人は自分が助かりたいという一心でその女性の手をふりほどいて蹴飛ばしたりしていたのです。それからご主人の果てしない苦悩が始まったのです。

自分の行動に対する罪悪感や自己嫌悪感、そして愛する奥さんにばれてしまったら嫌われ、蔑まれ、見捨てられてしまうに違いないという恐怖。

決して自分を許してはもらえないだろうという思いが彼を責め続けたのです。このドラマの結末がどうなったのかは覚えていないのですが、これはとても考えさせられる問題です。

みなさんだったらどうするでしょうか?絶対にその秘密を言わずに墓場まで持っていこうとするのか、あまりの苦悩に耐え切れずに告白してしまうのか、どちらにしても悩ましいですね。

しかし、自分が本当に相手を非難するのではなく許しの目で見つめることができたら、どんなことがあっても相手も必ず自分を許してくれるはずなのです。

つまり、相手が自分を許すかどうかは自分次第だということなのです。このことを信じることができるなら、そして自分が相手を許す気持ちになれるなら、正直に告白すべきだということです。

そうしたら必ず自分も相手から許してもらえ、すべての苦悩が消えていくのです。人は誰でも罪悪感から、誰にも言えない何かを隠しもっているものです。

勇気を持って許しを請うことで人生を変えていくことができるということを、体験を通して証明したいものですね。

ゴールデンはつまらない

あれほど依存していたテレビから、どうしたわけか最近抜け出した生活を送るようになりました。テレビは以前として大好きですが、その時間を他の目的のために使うほうが快適だということに気づいたからです。

それでも自分にとっては、人生のほとんどをテレビに捧げてきたようなものですので、テレビ番組へのこだわりが今だに少し残っています。

子供のころは別として、大人になってからは好みの番組は大抵深夜に放送されていました。今考えると、それは多分製作する側がある意味捨て身で作っているという感じが伝わってくるからだと思います。

テレビ局側としても、深夜の番組であればゴールデンタイムの番組に比べて、視聴率が著しく低いため、失敗してもダメージがあまりないという理由なのでしょうね。

作りたい人が危険を犯して本当にやりたいことをやってみる、そういった色合いが深夜番組には息づいていました。

それはリスク回避をせずにどんどん体当たり的にやっていく、無防備さとでもいうものがあって本当に面白いと思えるものが出来上がったりするわけです。

ところが、視聴率を稼がねばならないゴールデンタイムの番組は、絶対に失敗は許されません。テレビ局の経営に直接大きな影響を与えることになってしまうからです。

そのために、計算し尽された誰にでも無難で面白い、多くの視聴率を予想できる番組作りをすることになります。

国民の平均値の期待に応えるような番組になってしまうため、自分としては興味を持って見ることができなくなる傾向にありました。

大好きな深夜番組の人気が出てくると、残念ながらゴールデンに進出して、その責任に潰されて結局つまらない番組になってしまうのを何度も見てきました。

それは何となくドキッと心に入ってくるような新鮮さがなくなってしまうし、作り物ではない意外性のようなものも消えてしまうのです。

防衛とはそういうものですね。何につけ奥深い魅力がなくなってしまうのです。それは人の場合でも同じこと、無防備な人のほうが愛に満ちてやさしい魅力を放っているのです。

先立つものはお金という思い込み

うっとうしい梅雨の季節になってきました。こんなときには、黙ってじっと家の中で過ごそう、それが一番お金を使わなくて済むしと思ったりします。

大した目的もないままにただふらっと外出しただけで、気がつくと思わぬ出費をしてしまうということがよくあるからですね。

そんなふうに、私達は何かしようとするとまずお金がかかるという思いを持っています。徒歩で行けない場所に移動するだけでも交通費がかかりますね。

何かの技術を習得したくて習いに行こうとしたらお金が必要です。若い人で留学したいけど、お金がないから我慢してるという人は沢山いるでしょう。

とにかく、これから自分の望むことに突き進んでいきたいと思っていることがあったとしても、先立つものがないと無理と思ってしまっています。

しかし、奇跡のコースの教えにもあるように、自分の心に決心をさせることで、それに必要となるものは必ず手に入ることになるのです。

それはお金だけではなく、人材や場所や機会やありとあらゆるものが自分目指して押し寄せてきます。私はちょうど10年前に会社をやめたときに、それをいやというほど経験しました。

昨日、このオフィスまで来て下さった田中百合子さんのお話を聞いていても、そのことをつくづく教えていただきました。

彼女は誰に教わったわけでもないのに、若い頃からこうしたいという願望こそが、道を切り開いて行くということを知っていたようなのです。

奇跡のコースを学ぶために、アメリカにある特別な施設に一年泊り込みしたのですが、一切のお金を必要としませんでした。

さらに、コースの翻訳にとりかかるさいも、奇跡のコースの米国での翻訳プロジェクトから資金をもらっていたそうです。

お金は必要なものの一つではありますが、自分が稼がねば手に入らないという思い込みを手放しさえすれば、必要なだけのお金を自分の望む目的のために使うことができるということです。

お金がないから何もできないと悲嘆しているという自覚がある人は、是非このことを心に留めて決意することを実践してみて下さい。必ず道が開けてくるはずです。

田中百合子さん来る

「奇跡のコース」の学習をするようになったのが一昨年の9月ですから、もう少しで2年が経とうとしています。

当初、まだ日本では翻訳本が出版されていないので、原文(英語)で読まなければならないと思い込んでいたところに、個人で全文翻訳した方がいるというのを知りました。

その情報に飛びついたのは言うまでもありません。その方についての知識など全くないままに全文の翻訳を入手しました。

それ以来、その日本語版をずっと読みながら、時には英語版と照らし合わせながら奇跡のコースを学んできました。勉強会でもそれを利用させていただいています。

私にとっては、あれほど難解な、そして千ページ以上にも及ぶ大作をお独りで翻訳して、尚且つそれをネット上で公開している人がいること自体が全くもって奇跡だと思いました。

一体どんな人が翻訳してくれたのだろうとの思いを心のどこかに置きながらいつも読んでいるということを約二年続けてきました。

そして今日また奇跡的なことが起こりました。その翻訳者の方がこのオフィスにわざわざ来て下さったのです。

今日はセッションをすべてお休みにして、いろいろ翻訳秘話などを含めて奇跡のコースとの運命的ないきさつなどについてお話しをお聞きすることもできました。

田中さんは、私よりも年齢は上ですが、活動的で小柄なかわいらしい女性でした。思っていた通り、とても愛の深い方だということがすぐに分かりました。

日々の生活そのものが、まるでマザーテレサのような生き方をされてるのです。それでも少しも超人的な感じはせず、気さくなごく普通の人という感じでした。

今日このオフィスでご一緒できたのは、何かの縁なのかもしれないなと嬉しく思いながら、またこれからも楽しみながら奇跡のコースを学んで行きたいと思っています。

傷ついた心

催眠療法のセッションの中で、時としてクライアントさんの幼い頃の状態が悲惨な様子で見えてくることがあります。

あるときは、ものすごく傷だらけで身体からは血がたくさん滲んで出ていたり、擦り傷や打撲、骨折していたり赤黒く顔が腫れたりしていることさえあります。

こうした姿というのは、幼い頃のクライアントさんの心の様子を表していると言えるのです。ボロボロに見える服を着て、身体も汚れていてお風呂にもろくに入ってないような場合もあります。

勿論、現実にそうしたことがあったわけではないのですが、心の状態を視覚化することによってそんなように見えてしまうということなのです。

ご本人もそんな子供の頃の自分を見て本当にびっくりしてしまうのですが、どうして今まで気がつかなかったのか不思議な思いに駆られるかもしれません。

そんな悲惨な様子を目の前にして、大人の自分はどうすればいいのか分からなくなってしまうものです。身体に触れたらそのか細い身体が壊れてしまいそうに感じるからかもしれません。

しかし、もっと驚くことがそこには隠されています。それはそんないたいけな傷ついた自分を可愛そうと思うだけでなく、その逆に憎んでさえいる意識があるということです。

そんな惨めな情けない自分など、自分ではないとして無視しようとしているのです。そして、自己嫌悪の元となるために、その子を激しく憎悪しているのです。

ご本人にとって、本当に傷ついた心というのはそのようにして、自覚のないところで切り捨てられてきたということです。

このままでは決して心を癒していくことはできません。一つは、その傷ついて手の施しようもない幼い姿に寄り添って、やさしい愛のエネルギーで包んであげることです。

そしてもう一方では、そうした痛んだ心を憎んでいる意識に対しても、その気持ちをしっかりと受け止めてあげる必要があるのです。

そうしたことを繰り返していく事で、ほんの少しずつ心の奥にしまいこまれて見ることがなかった傷ついた心が癒されていくことになるのです。

人を非難したい気持ち

私達の誰もが幸せになりたいと思っているはずなのに、実はその裏で人を非難したいという思いを隠し持っているのです。

しかも、悪い人を非難しつつ同時に自分は幸せになれるとも思っているのです。なぜなら、自分はそんな人とは違って悪くないとも信じているからです。

しかし、誰かを非難しようとしたり、実際に非難しながら幸福感を味わうなどということが本当にできるのでしょうか?

もしそんなことが可能だと思えるとしたら、それは自分の正しさと幸福感とは同時に手に入れることができると信じているということになります。

奇跡のコースでは、正しさと幸せは二択だと言っています。つまり、どちらか一つしか手に入れることができないと教えてくれているのです。

したがって、自分の正しさ、自分の判断や解釈の正当性を証明するために誰かを非難したり否定しておきながら、同時に幸福を手に入れることはできないということです。

それはコースに教えてもらうまでもなく、誰かを非難するとはその人を裁くということですからそこには愛のかけらもないということが分かります。愛のない心で幸福感を感じることなどできないのは当たり前のことですね。

誰の心の中にもある、誰かを非難したい気持ち、これこそ自分は正しいと証明したいという思いであるに違いありません。

非難するということは相手に罪があるということを意味するのです。それは自分の心の中の罪悪感を隠そうとしてそれを投影した結果であるに過ぎません。

そんなことをすべて手放して、ひたすら相手を愛の目で見ること、愛を与えることを通してこそ幸せな心の状態になることができるのです。

誰かを非難したいという思いにかられたときには、すぐにこのことを思い出して、自分を幸せにするために即刻その思いを手放すことです。

代わりに自分のできる限りの愛で相手をやさしく包む気持ちになるように選択することです。その練習を繰り返すことで正しさに執着することなく、幸せに近づいていくことができるようになるのです。

催眠状態での反応

人と話しをしているときには、相手の話に合わせて相槌を打ったり、ちょうどいいタイミングで次の話を促してみたり、様々なことをして会話がスムーズに行えるようにします。

それが礼儀ですし、その方が自分も気分がいいのです。特に相手のことを考慮してするだけではなくて、自分にとっても相手との関係をよくするという利点があるわけです。

相手が何かを話しても、応答せずに黙っていたり、何を考えているのか分からない感じでじっと相手が話すのを聞いているというのでは、いい気持ちでコミュニケーションをすることができなくなってしまいます。

大人同士、そうした違和感をできるだけ互いに感じあわないようにしようと自然と努めるのが常識的な会話の方法ですね。

ところが、催眠療法の中でクライアントさんと会話するときには、かなり様子が違ってくることがあるのです。

まずセラピスト側の質問やちょっとした問いかけに対して、通常の反応をしなくなってしまう場合がかなりあります。

なかなか相槌を打ってくれなくなってしまったり、質問をしても答えてくれるまでに途方もない時間がかかってしまったりということがあります。

また勝手に話しの内容を中断されて、違う場面や違う内容の話しに飛んでしまうといったことも起こってきます。

きっと、催眠の中では幼い意識になってしまっていたりして、通常の大人としての会話をしている相手への配慮というものが欠けてしまうからなのでしょう。

セラピストは決められた時間の中で、できるだけクライアントさんの癒しを進めようとするために、この応答の鈍さが苦痛に感じてしまう場合があります。

そんなときには、相手に対して自分のペースに合わせてもらいたいと思ってしまう自分のエゴを認めて、相手を自由に解放してあげられるような心の余裕を持ちたいものだと思います。

3Dテレビ

先日吉祥寺のヨドバシカメラに買い物に行ったときに、店頭で3Dテレビのデモンストレーションをやっているのを見かけました。

気になったので、さっそく専用のメガネを借りて画面を見てみたら、なんと思っていたよりもリアルな3次元空間を見ているような感じになり、驚きました。

テレビの画面よりも手前に突き出て見えるものもあれば、遠くのものもあって、確かにこれはとても魅力的だと感じました。

私のように普段メガネをかけている人でもその上から専用のメガネを掛けられるので、とても便利でした。本当にすごい時代になったものだと思います。

その昔、私が小学生くらいのときにテレビはカラー放送が始まり、ゆっくりと各家庭にカラーテレビが普及し出したのを覚えています。

それまでは、テレビというのは白黒であることが当たり前で、何の疑問も持っていませんでした。それが突然カラーで見えるようになったときのあの魅惑された思いは今でもリアルに思い出すことができます。

こうして進化を遂げていくわけですが、少し冷静になって考えてみると、驚くのは最初だけでその生活に慣れてしまうと当然当たり前になっていくのです。

カラーテレビで喜んでいたのは多分数ヶ月だけだったと思いますので、この3Dテレビもびっくりしていられるのは、きっと半年か一年くらいのものなのかもしれませんね。

そして結局、どんなに進化してもエンターテインメントはエンターテインメントの域を超えることはないということです。

エンターテインメントが決して悪いのではないのですが、テレビのような受動的な楽しみ方が主なものは、求める心が活性化するはずです。

目先の変化が自分の幸せに影響を及ぼすことはないということを覚えておくことが重要なことではないかと思います。

お笑い欠乏症

子供の頃からテレビでお笑い番組を見るのが大好きでした。昔は今ほどお笑い全盛の時代ではなかったので、そうした番組は自分にとって貴重でした。

笑っている時というのは、自分が自分でいることを少し緩めてくれる、そんな感覚になれるのです。知らず知らずのうちに防衛体制になっている意識の力が抜ける瞬間を体験しているのかもしれませんね。

テレビだけでなく、友達と無邪気に大笑いすることも大好きでした。いつか、小学生のころに珍しく隣の区に住んでいる同い年の従兄弟が遊びに来て、二人で30分くらい腹を抱えて笑い転げてた記憶があります。

大人になって、仕事で外国にそこそこ長く滞在しているようなときに、次第に何かが足りないという欠乏感に襲われてくるのです。

その時に、日本のお笑いを見たいという衝動だったのだと気づいたことがありました。言葉が不自由な外国でのお笑い番組を見ていても不満が解消されないのです。

そこで、日本のテレビ番組をダビングして貸し出しているレンタルビデオ屋にわざわざ出向いて、かなり高額なのを我慢しながら借りて見たりしたこともありました。

外国で暮らしている家内の友人に、家内がお笑い番組をダビングしてDVDにして送ってあげたりしているのを見るにつけ、そのお友達の気持ちがよく分かります。

この数ヶ月の間、ほとんどテレビを見なくなりました。テレビそのものを見なくても問題ないということが分かったのですが、それでもやはりたまにお笑いを見たくなります。

週に一度くらい、録画しておいたお笑い番組を見て、大笑いしているとやはり自分の中心が開放されるような爽快な気持ちになるのが分かるのです。

まだまだお笑いが必要だということですね。笑いが必要ということは、それだけ普段の生活において気を張って生きている部分が多いということを物語っていると思います。

自分にとって、全く笑うことを必要としなくなったら、その時はきっととてつもなく平安な気持ちで生きることができるようになったときなのだろうと想像しています。