嫌いなものは嫌いなままでいい

幼いときに極度の偏食だったことは以前どこかで書いたことがありますが、その頃はほとんど何も口にしたくないという状態でした。

今思い出しても不思議な感覚なのですが、とにかく得体の知れないものを口に入れるということがもういやだというような変な状態だったのだと思います。

その時に、口に入れたくないようないやな食べ物を好きになれたらいいなどとは全く思っても見ませんでした。ひどい偏食だからといって、身体に悪いなどという発想もなかったのでしょうね。

成長するにつれて、あれも食べられないこれも食べられないでは少々不便だなと思うようにもなったのですが、それでも嫌いなものを好きになりたいとは思いませんでした。

誰でも大嫌いな食べ物を大好きになりたいとは思わないものではないでしょうか?もしもそう思うとしたら、それはきっと何か不都合があって好きになった方が都合がいいような事情がある場合に限ると思います。

こうした、嫌いなものをわざわざ好きになる必要などないという気持ちは、誰にでも思い当たることがあるはずです。

ゴキブリがとにかく嫌いという人に、ゴキブリが大好きになれる薬があったら飲みますか?と聞いたらほとんどの人が嫌いなままでいいと言って断るでしょう。

対人関係の例をあげれば、ものすごく憎んでいる相手のことを愛しく感じるようになりたいとは決して思わないはずです。

このように、私達は自分が嫌ったり拒絶したりする対象を愛しく思うようになりたくないという思いを持っているのです。

それはどこからくるのでしょうか?実はそれこそが、相手を否定的に見ようとする、あるいは罪があるとしたい知覚の特性なのです。

相手を許そうという意欲を持つことを許してやるものかという思いが妨害するのです。だからこそ、許すということ以前に、許したいと願う事自体がとても大切なことだと言えるのです。

記憶とイメージ

私達は実際に起きた出来事のことを事実と呼んでいます。そしてその対極にあるものがイメージした事だとも言えますね。

事実とは動かしがたいものであり、それを変える事は勿論できません。一方、イメージというのは空想の中で自由に作り出すことができるものなので、どのようにでも勝手に変えることができます。

昨日宝くじを買ったが、全部外れてしまったという事実があれば、それを変えることは誰にもできないことは明白ですね。

しかし、イメージの中では、昨日宝くじを買って、全部外れてしまったと作ることもできますし、1等が当たったというように作る事も可能です。

過去起こったこと、自ら体験した事実は記憶として残されます。事実を変えることはできないので、その記憶も変えることはできませんね。

ところが、この記憶の中身というのが実はかなり曖昧なものだということが分かっています。特にずっと昔の幼い頃に体験した記憶というのは正確さに欠けるということが研究によって分かっています。

本人の自覚のないままに、都合のいいようにその記憶は改ざんされている場合があるということです。それでも私達は自分の記憶を基本的には信じています。

ですので、記憶がかなりいい加減な可能性があると言われたとしても、簡単には自分の記憶への信頼を手放すことはしません。

それは空想の中で作り出す勝手なイメージとは比べ物にならないくらいに確固としたものだと思い込んでいるのです。

しかし、催眠療法の中で思い出していただく過去の記憶と、過去こんなことがあったかもしれないという自由なイメージとは、基本的には変わりがないのです。

とても不思議な感じがするかもしれませんが、イメージしていただいたことは結局本人の心の中に残されているものがベースとなっているために、事実に即した記憶でないとしても本人にとってはとても重要な意味が込められているのです。

こうして、過去の記憶と自由に作り上げたイメージとの間の違いがぼやけてきて、その違いを議論することに意味がなくなってきてしまうのです。

それは心の問題というのはすべて本人の思いが元になっているからこそ言えることなのです。そして、過去の記憶も作ったイメージもそれ自体は単なる思いの現象化したものだとも言えるのです。

現実逃避 その2

昨日も少し触れましたが、現実が辛すぎたりしてどうにも生きていくのがしんどいので、スピリチュアルな方面へ意識を向けて目の前の現実を見ないようにするという場合があるのかもしれません。

そんなふうに表現されてしまうと、スピリチュアルな世界というのはかなりまがい物的な捉え方をされてしまう可能性が高いですね。

しかしそれはとても大きな誤解なのです。私の解釈では、スピリチュアルなものの見方というのは、この現実は自分の思い、想念を具現化したものであるということなのです。

ということは現実から目を背けてしまうのとは正反対の生き方とも言えるのです。つまり、現実を原因としてその結果が自分の人生を形作るのではなく、自分の思いそのものが原因となって、目の前の現実を起こすという考え方なのです。

したがって、目の前の現実から逃れることはできないとも言えるのです。なぜなら、それを作った大元が自分の思いであると言っているのですから、どこで何をしていても自分と現実を分けることは決してできないということなのです。

少し堅苦しい表現を使えば、どんな現実でもそれに関して全責任を自分が持っていると言ってもいいのかもしれません。

責任という言い回しがそぐわないのなら、あらゆる現実の生みの親は自分の思いであるという言い方になるかもしれません。

こうしたことは、一般常識的な考え方からすると、受け入れがたいと感じられるかもしれませんが、冷静に考えてみると心がとても楽になれる考え方であるとも言えます。

なぜなら、自分の思いが現実の生みの親であるのであれば、自分が好ましいと思える現実を自分の思い一つで実現することができるということだからです。

そしてそれは確かにその通りなのです。私達は自分の「思い」通りの現実を毎日体験しているということです。そうは思えないという場合には、自分の思いについてその全貌を認識できてないと言うことを考えてみる必要があるのではないでしょうか。

現実逃避

私達は現実にしっかり腰を据えて、生きていかねばならないとよく言われますね。到底あり得ないような夢を追いかけてみたり、実現不可能な計画を立てたりするのはある意味現実逃避だと言われても仕方ないのかもしれません。

現実が辛すぎて、どうにもこうにも生きていくのがしんどいので、今流行のスピリチュアルなこと、精神世界の方へと意識を向けていく人も多いかもしれません。

そういった精神世界系のことが苦手な人にとっては、それこそ現実逃避に違いないと思ってしまうかもしれませんね。

現実逃避というのは都合の悪い現実から目を背けるということを意味していますが、では現実にしっかり腰を据えるということが本当に現実を直視していることになるでしょうか?

私達はとかく見えるもの、形態などに捉われてしまうものです。つまり、与えられた辛い仕事から逃げずに一生懸命働いている人を現実逃避だとは思いません。

現実と向き合って頑張っているわけですから。逆に仕事が辛いので、会社をやめてフラフラしながら何かいいことないかなと物色している人は現実逃避してるといわれるかもしれません。

しかし、本当にそれは正しい判断でしょうか?形に捉われずに人の内面を見つめてみると、そう簡単に判断する事はできないと言う事が分かります。

もしかすると、前者の頑張って仕事をしている人は、自分が本当にいやな思いをしてることとか、自己犠牲を強いていることを見ないようにしているかもしれません。

もしそうだとしたら、私にとってはこれこそが現実逃避だということになります。逆に、仕事が辛くて会社を辞めてしまった人は、自分の本当の気持ちをごまかしていないことになります。

もう分かっていただけたかと思いますが、本当の現実逃避とは自分の内面を誤魔化して生きることを言うということです。

このことを理解したうえで、自分が現実逃避しているのかどうかじっくりと見つめてみることはとても大切なことだと思います。

印象的な昔のテレビ番組 その2

自分がまだ幼稚園に行ってるころか、あるいはせいぜい小学生の低学年になっていたくらいか、その頃に見ていた西部劇があったのです。

主人公は若かりし頃のスティーブマックィーンで、「拳銃無宿」という邦題がついていました。彼はいわゆるおたずね者を捕まえては、懸かっていた賞金をもらって生計を立てる、いわゆる賞金稼ぎだったのです。

つかまえる相手は極悪非道な悪者ばかりで、当然捕まったら死刑になるかもしれないので命がけで攻撃してくるわけですから、毎日が危険と隣り合わせなのです。

捕まえた悪者の手を縛って馬に乗せて、自分も別の馬にまたがって一緒に長旅をしているシーンがよく出てきていたのを覚えています。

彼の名前はジョッシュ・ランドールというのですが、ライフル銃を短くしたような何とも魅力的な銃を腰に下げているのです。

その銃は、彼の名にちなんでランドル銃と言っていました。あまりに欲しくて、買ってもらった記憶があります。自分にとっては、売っていたことが奇跡でした。

そのドラマの中では、どういうわけかそのランドル銃をすぐに奪い取られてしまうのです。そしていつもヒヤヒヤさせられていました。

その特殊なランドル銃が彼の強さの象徴であったわけですが、幼い自分が自分のか弱さをよく知っていて、そうした強くなれる武器に憧れていたんだなということがよく分かります。

幼い頃からすでに男の子と女の子の志向の違いがはっきりとあるのですね。武器に興味があるというのは、立派なエゴのその後の発育を思い知らされます。

自分は卑小で本当は弱虫で痛がりですぐに泣く、そう言う自分をきっと責めていたのだと思います。今ではあまり気付かなくなりましたが、なくなったわけではありません。

そういう意識というのは陰に隠れて自分を必要以上に防衛しようとします。そうした自分を恥ずかしいと思っている昔の意識を今の自分がしっかり受け止めてあげることは大切なことだと思います。

印象的な昔のテレビ番組

今から40年も前の確か中学生の頃に見ていたイギリスのテレビ番組がありました。それは、「電撃スパイ作戦」という名のちょっと異色な番組でした。

3人のスパイエージェントたちが仕事中にヒマラヤ山中に飛行機事故で墜落してしまい、そこで不思議な民族に治療を受けてから、気がつくと3人ともに超能力を持つことになるのです。

その超能力を駆使して、毎回様々な難問を解決していくというドラマなのですが、主人公たちのルックスのすばらしさもあって、毎週魅了されていました。

超能力といってもあり得ないくらいにすごいものではなく、3人の間でのちょっとしたテレパシーとか、身体能力が抜きん出るとか、記憶力がすごくいいなどなのです。

スーパーマンのように空を飛べたり、スパイダーマンのようにビルからビルへ飛び移ったリするというものではないために、ある意味その超能力にはリアリティを感じることができたのです。

また生まれついた能力ではないということも、そして何か本人たちが努力してそういう卓越した能力を身に着けたのでもないということが、自分にはとても気に入ったのです。

今でも時々思い出して、見てみたいなと思うことがありますが、なぜ当時あれほど楽しみな番組の一つであったのか考えてみました。

それはきっと、中学生、高校生の頃の自分が人よりも抜きん出た能力を持ったらいいのにという願望を、その番組の主人公たちに投影していたのだろうと思うのです。

勿論子供に限らず、大人であっても人は能力において他人よりも上回っていると分かったら、すごく嬉しいし誇らしい気持ちになれると思っているのです。

それも絶対に人には負けないような能力である必要があります。その番組の主人公の一人が女性なのですが、彼女は街ですれ違っただけのクルマのナンバーを後になって、思い出すことができました。

頭の中でコンピューターの画像処理でもしているような方法でナンバープレートを見れたのです。記憶力があまりよくない自分としては、なんとも羨ましい能力だなとその時思いました。

しかし、今はさほど自分の人間としての能力に期待するということがなくなりました。それは勿論、能力と自分の幸福感は全く結びつく事がないと断言できるようになったからです。

そして、よく思い出してみると、その主人公の3人とも、それほど幸せそうな毎日を過ごしていたような印象はありません。何か逆にその能力を持ったことで苦悩していたようにも思い出されます。

伝えようとする心

何かを相手に伝えようとして伝わらないと感じることはフラストレーションとなりますね。伝える目的は様々あるかもしれませんが、伝わらないことは心を落胆させてしまいます。

それは一体なぜなのかを考えてみたいと思います。それには伝えようとする、その意欲はどこからくるのか、何の目的があるのかを考える必要がありそうです。

まず初めに、伝えたいと思う理由とは、伝わって欲しいと思う気持ちから来ているということは確かなことです。

何が相手に伝わって欲しいことなのかと考えてみると、自分の気持ちだったり、自分の正当性であったりするわけです。

相手に伝わるということはそれを理解し、受け止めてもらえるということを想定しているわけですから、自分は今怖い、怒っている、悲しんでいる、不満だ、落胆している、嬉しい、などの心の状態を受け止めてもらいたいということですね。

そして実は女性に多いのかもしれませんが、伝える内容よりもただ伝えたいという気持ちそのものを受け止めて欲しいという願いもあることを忘れてはいけません。

一方、自分の正当性を受け止めて欲しいというのは、相手に認めてもらいたい自分の正しさ、あるいは自分のいい部分を誤解のないようにしっかり評価してもらいたいという思いです。

誤解されて不当な扱いや間違った評価をされては困るという思いがあるのです。いずれにしても、そういった思いが強ければ強いほど、伝えようとすることにも力が入るというわけです。

しかし、もう一つ相手に伝わって欲しいと思う事柄があります。それは、それが伝わることで、相手がいい気持ちになったり、楽になれることに繋がるような場合です。

つまり先ほどの理由が自分のことであったのに対して、こちらのほうは相手のことを思う気持ちが多く含まれているということです。

その時には、伝えようとする自分の気持ちも穏やかで、やさしい思いに満ちている感じがします。それは相手を思う愛の気持ちがベースにあるからです。

そしてその場合には、たとえ期待したように伝わっていないと思う場合でも、それほどの落胆というものを感じることはありません。

自分が相手に何かを伝えようとするときに、自分はどちらの気持ちが優勢なのかよく見つめてみることです。もしも、伝わらなかったことにひどくダメージを受けるようなら、自分を優先しているからだと理解することです。

100対0の原理

よく人はみな本質的に平等だから、あるいは対等だから50対50、つまりフィフティ・フィフティだねなどという言い方をします。

ある人とある人との1対1の人間関係があるとき、それがうまく行くこともあるしそうではない場合もありますが、その責任は互いに等しくあるということです。

どちらか一方だけにうまく行かない責任があるということもないし、うまく行ったからといって、どちらかの一人のおかげということもないということです。

どちらも同じだけの責任が託されているということですね。つまり、自分は半分だけ頑張れば後は相手の責任だということになるわけです。

双方の努力や責任を足す事で100%になると言っているわけです。しかし、それは本当の話でしょうか?

確かにその二人の関係を第三者的に客観視すれば、そのようなことが言えるとも思います。しかし、当人たちのそれぞれの立場から見るとそうではないと考えています。

AさんとBさんの関係に問題が生じているとした時に、もしもAさんがセラピーにいらしたとしたら、私はAさんにその関係がうまく行くかどうかは100%Aさんにかかっていると説明します。

もしも、Bさんがいらしたとしても、その場合にはBさんに100%かかっていると言うはずです。すべて、当人が持っている人間関係の行方は、本人が100%握っているということなのです。

それは、相手の本人に対する対応の仕方は、本人の相手への対応の仕方と同じになるからなのです。自分の対応がそのまま相手の態度に反映されるということです。

この原理が理解できれば、人間関係は100対0だという意味が分かっていただけるはずです。関係の良し悪しを相手に期待しないというように言い換えることもできますね。

もしかしたら、自分は最大限の誠意を持って相手と向き合っているのに、相手はいい加減な態度で接してくるのでどうしようもない、と思っている方もいるかもしれません。

そんな場合でも、100対0の原理は成り立つのです。それは、自分の自覚としては誠意を持って対応しているつもりであっても、心の底では相手を憎んでいたり嫌っていたりすることがあるのです。

そうすると、その部分が相手の自分への態度として反映されてしまうということです。この原理に例外はありません。

いつも相手が誰であっても、その関係を気持ちのいいものにしたいと思ったら、この100対0の原理のことを思い出して対応する自分の心を見つめなおして見てください。きっと、何か突破口が開けてくるはずです。

ラポール

10年前に催眠療法の勉強を始めたときに、真っ先に出てきたのがラポールという聞きなれない言葉でした。

ラポールとは、セラピストとクライアントとの間の信頼関係のことを言うのです。催眠療法に限らず、セラピストとクライアントとの間の信頼関係がなければ、どんな心理療法であってもうまく行かないのです。

そのため、まず初めにラポールを築くことが各種心理療法を行う上での基本的な前提条件であると習ったわけです。

特に、催眠療法においては、クライアントの立場は目を閉じて誘導を聞いていきながら、催眠状態というある種特別な精神状態になるということで、不安を感じやすいのです。

従って、セラピストとの間でラポールを築く事がとても大切な要件になるのです。つまり、信頼しあうことでその不安を安心に変えることが重要なことなのです。

ラポールを作るうえで必要となるのが、相手の気持ちを受け止める姿勢であったり、やさしい愛の眼差しであったりするわけです。

このようにしてラポールを作るというと、何となく技術的なテクニックの要素があるように感じてしまうかもしれませんが、実は誠実な気持ちと愛があればいいだけなのです。

出来る限りを尽くして、クライアントの気持ちを受け止めると同時に、傷ついた心をやさしく包むような慈愛の気持ちです。

そして、よく考えてみるまでもなく、そうしたことはごく普通の人間関係の中でも全く同じことが言えるはずですね。

相手を大切に思う気持、いたわるような態度、そういったごく当たり前の心をもって周りの人と接することで、そこでもラポールを築いて円滑な人間関係を作ることはとても大切なことなのです。

沖縄タイム

みなさんは「沖縄タイム」という言葉をご存知ですか?自分は、今からちょうど10年前に沖縄在住の友達ができて、その友達の沖縄の家に遊びに行ったときにその言葉を知ることになったのです。

ある時、その友人の奥さんが夜7時からコンサートに行くという日があって、本人はそれをとても楽しみにしているようでした。

ところが、夕方になっても奥さんはなかなか出かける支度をしないのです。友人たち夫婦は自宅で癒しのショップをやっていて、普段は夜遅くまでその仕事をしています。

私の方が気になって、コンサート何時から?と聞いたりしていたのですが、6時になっても7時になっても彼女は出かける気配がないのです。

あまり聞いてもいけないので、今日はもう諦めたのかなと思っていたら、確か8時過ぎくらいになって彼女の友達に電話をして一緒にこれから行くというのです。

私はあっ気にとられて呆然としてしまいました。本当に手が離せないくらいに忙しくて、仕方なく今から行くというのなら分かります。

しかし、彼女は私が見る限りはいつもと同じように仕事をしていただけでした。最初から7時からコンサートがあると分かっていたのですから、早めに準備すれば時間に間に合ったはずでした。

これが「沖縄タイム」というものらしいと友人に聞いて分かったのです。つまり、約束の時間を忘れているわけでもなく、さりとてその時間に間に合うように行かれないわけでもないのに、時間をずらして行動するのです。

個人的には時間にルーズというよりは、計画的に約束の時間よりも遅らせて行動しているという印象を受けました。

本当に時間にルーズであるなら、○○時という約束の仕方はしないはずです。 そういう文化だとは言え、誰も得するわけでもないと思うのです。

どうしてそんなことが沖縄では当然なのか聞いたのですが、生まれたときからの慣習とのことで特別な理由は聞くことができませんでした。

誰かが遅れてもみんな寛容で怒る人は一人もいないというのは確かにいいことかもしれませんが、それにしても不思議なことだと今だに思っています。

「沖縄タイム」ではないにせよ、誰かが遅刻してきたとしてもそのことを笑って受け止められるような穏やかな心ではいたいものですね。