無価値感の払拭

自分の存在価値が分からない、つまり無価値感を携えながら生きていくことは相当に苦しいものに違いありません。

だから存在価値の代わりになるものを人は必死に捜し求めようとします。それが、存在意義であり、それは他人からの評価によって手に入れることができるものです。

それは、誰の目からも見えるもの、何かの成果であったり結果であるわけです。子供であれば、テストの点数だったり、通知表などの成績であるのです。

そうした客観的に評価されるもので、高得点を得ることができたら、その時には自分は何とか生きていていいんだと安心することができます。

しかし、そういった存在意義というものはいつも一過性のものであるために、明日もしも悪い点数をとってしまったら、完全になかったことになってしまうのです。

だからこそ、存在価値の代わりに存在意義で生きていこうとする人は、毎日が必死であり、人一倍の努力と頑張りを継続することが要求されるのです。

また、存在価値が分からないことの弊害は他にも現れてきます。例えば、自分を何とかまっとうな人物だと証明したいがために、何か間違いを犯したときにひどい罪悪感を味わおうとします。

つまり、悪いことをしてしまったら、そのことを誰に言われるまでもなく悪いことだと後悔できる自分、それを証明するために罪悪感で悩むという作戦を使うのです。

そのことによって、自分の正しさはまともであり、正気であるということを自分に証明しようとするのです。だからこそ、無価値感の強い人は罪悪感も多く持っていると言えるのです。

こうしたことをいくら続けても、根本的な解決を手に入れることは不可能です。なによりも、自分の存在価値について、ある程度の肯定感で覆うことが必要になります。

存在価値は、幼い自分独りでは気づくことができません。それは、幼い頃に両親などから十分に受け入れてもらえたという実績によって、おのずと分かっていくものです。

大人になった自分が、幼いころの共感してもらえていない自分のことを思い出して、できる限り受け止めてあげることによって、徐々に無価値感を払拭していくことができるのです。

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