個人としての自分を見つけられない

夜寝る前に、心を静かにして今日一日の自分の体験を思い出してみると、とても面白いことに気づくことができます。

それは、どの場面を思い出しても、そこには個人としての自分を発見することができないということです。そんなわけはないと言われるのは分かっているのですが、でもそうなのです。

これを体験するためには、自分が無自覚に作っているイメージを停止させる必要があります。それは、自分という人物があらゆる場面で活動しているというイメージです。

そうです、それは単なるイメージに過ぎないのです。ただただ、自分がその場面で体験したことだけを正直に思い出すことに成功すると、そこにはイメージの中の自分はいないと気づくはずです。

その代わりに、広く開いた一つの大きな視点からこの世界を見ていたということに気づくのです。その視界の中には、入れ替わり立ち代り、様々なものがやってきては去っていく。

時には部屋の景色であり、またあるときは出かけている際の街路だったり、それは忙しく過ぎ去ってはまた新たな事象がやってきます。

自分が個人であるとのイメージをでっち上げない限り、こうした事象は自分の内部で起きていることだと分かるのです。

映画館で映画を観賞しているのとあまり変わらないのです。ただ、映像が写されるスクリーンが外側にあるのと、内面にあるのとの違いがあるだけです。

こうした感覚は、リアルタイムで感じるというよりも、今日のことを思い出しているときの方がより分かりやすいのかもしれません。

すべての場面が私自身であるという表現が近いかもしれません。したがって、どこをどう記憶を戻してみても、個人としての私は出てくることはありません。

これはとても面白いことですので、興味があれば試してみて下さい。そして、望むべくはリアルタイムでそれを直に感じることができるようになることだと思います。

痛みがなくなることはない

心の癒しを進めていくと、いろいろ不自由だなと感じていたことや、苦悩していたことなどが次第に減って行き、徐々に楽になっていきます。

ご本人にとっては、それはとても大きな変化がやってきてくれたなと嬉しく感じるはずですね。あの辛さは一体何だったんだろうと疑問に思うことすらあるかもしれません。

ひどい生理痛だったのがほとんど痛みがなくなったり、人が沢山集まる会合などの席にいるのが怖くて仕方なかったのが、冷静にいられるようになったり。

自己表現や感情表現がうまくできずにいたものが、素直に自分の気持ちを伝えることができるようになったりと、癒しの効果は様々です。

しかし、ここで勘違いしてはいけないことがあります。それは、癒しが進んだことで、いやなことや自分にとって都合の悪いことが確実に起きなくなるということではありません。

そうしたことが減る方向に変化することは充分に考えられることですが、それを期待して人生がよくなるというように思うのは間違いです。

人は生きている限り、いろいろな痛みがやってきます。それは必ず来ます。そのときに、自分がどのようにそれに反応するのかということが大切なことなのです。

確かに癒されていくと、起きることの種類というか傾向が変化していくるということは事実として確かにあるのですが、それでも痛みがやってこなくなるということではないのです。

痛みには、肉体的なものや心理的なものなど、数え上げればきりがないくらいにたくさんあるのですが、それをただ痛みとして受け入れることができるかどうかなのです。

長く生きていれば、大切な人を失うこともあるでしょうし、うまく行っていた仕事が立ち行かなくなってしまうことだってあるかもしれません。

信じていた人に裏切られるかもしれませんし、大病をする可能性もあるわけです。そうした痛みを、どれだけ受容することができるかが鍵なのです。

そこが変化しなければ、癒しが本当に進んだとはいえないということですね。拒絶される痛みと受容される痛みとでは、感じるものが違ってくるのです。

不景気のせいで、日々貯金が目減りしていくことに常に不安を感じる人もいれば、一文無しでも笑って楽しくいられる人だっています。

自分の身に何が起きるかではなくて、どう反応するのかということが最も大切なことだし、人がどれだけ成熟しているかということは、そういうところにこそ見えてくるものだと思います。

人生に回り道はない

最近ますます強く感じるようになってきたことがあるのですが、それは人生は全くの一本道なんだなということです。分岐するような道はないのです。

11年前に会社員を辞めて、セラピストとしてやっていくことになったときに、自分は何と言う回り道をしてきてしまったのだろうとつくづく思ったものでした。

学生から社会人になるときに、すぐにこの仕事を目指していれば、20年以上にも渡る苦しいだけの会社員生活を経験せずに済んだのにと。

それだけではなくて、今頃多くのキャリアを積んだすばらしいセラピストになっていただろうにと真剣に思ったものでした。

それでも少しセッションをするようになって、いやいやこの年齢になった今だからこそ自分はこの仕事をすることができるに違いないと分かるようになったのです。

意味がないと思っていた会社員時代の経験も、セラピストになるためにはそれなりに必要なことだったのだと思えるようになったのです。

しかし、最近ではそうした納得の仕方をする必要さえなくなってしまったのです。なぜなら、人生は一本道だということが分かってきたからです。

人は誰も回り道や寄り道などすることはできないということです。人は何度も人生の分岐点ともいうべき地点に立つと思える経験をします。

でもそれは表面的にそう思えるだけであって、本当は選択肢はないのです。お父さんとお母さんによって原初の受精卵が出来たときに、その人の人生のシナリオは決定しているということです。

先ほどこのブログを書き出す前に、どんなことを書こうかなと考えている自分と、これからどんなことを書くことになっているのかなと思っている自分の二人がいました。

徐々に後者の意識の方がより優勢になってきつつあるのです。これはとても気の休まる思いがします。結果に対する責任を感じることがなくなっていくからです。

過去を悔やむことも、未来を憂うこともどちらもなくなるのです。どれだけジタバタしたところで、すべてはシナリオ通りに推移していくだけなのですから。

だからのん気に、そして悠々と、今を楽しむことです!

時間の不思議

こうして毎日ブログを書いていると、自分のノリのいい時とそうでないときがあって、今日は何だかあまり書きたいと思うことが浮かばないなあという日は、無理せずにそのときに頭に浮かんだことを適当に書いています。

今日はまさしくそんな日です。こういう日は、さすがに書くことが多少億劫に感じられるのですが、それでも書きながらも自分に意識を向ける練習ができるので、こうして書いています。

そういえば、この億劫という単語の由来ですが、「劫」という字の意味はサンスクリット語のカルバから来ているらしいですね。

カルパとは、古代インドにおいての最も長い時間の単位を意味するらしいです。それに、億がつくのですから、ほとんど無限とも言えるくらいに長い時間に感じることの例えとして、億劫ということになったのでしょうね。

嬉しいことはあっという間に終わってしまいますが、面倒なこと、気が進まないこと、あるいは苦しんでいるときというのは、本当に長く感じてしまうものです。

人の一生を約80年と考えて、それを長いとみるのかそれとも短いとみるかは、死ぬ直前になってみないと本当のところは分からないかもしれないですね。

かつて、友人のお婆さんが臨終の床で、自分の人生を「夢のようにあっという間だった」と言ったということを聞いたことがありました。

本当に時間というものは不思議なものですね。私も自分の人生を顧みたときに、いろいろなことがあったなあと思う反面、一瞬にして今に到達したような気もするのです。

今に意識を向け続けていると、過去とのつながりが消えていき、本当は今しかないということが分かります。今とは、時間の範疇ではないもの、時間を越えたもののことです。

そうした永遠から見れば、80年であれ億劫(億カルパ)のような気が遠くなるような長い時間でさえ、何の違いもない、あっという間のことなのでしょうね。

沈黙の重要性

若いときのデートの定番と言えば、映画鑑賞というのが一つあげられると思います。自分の場合には、どちらかというと一人で映画を見に行くことが多かったと思いますが。

なぜなら、映画を観ている間は、基本的には二人で話すこともできないわけだし、また話しかけられたくもないというのがあって、わざわざ二人で見に行く必要性を感じなかったからです。

それと同じとは言わないまでも、瞑想も基本的には独りでするものだと勝手に思っていたのです。なぜなら、沈黙の状態で過ごすわけですから。

理屈はそうなのですが、人によっては自分独りでは邪念が沢山出てきてしまって、うまく集中することができないという場合がどうやらあるらしいことを知りました。

瞑想に慣れている人と一緒の方がやり易いというようなことなのかもしれませんね。勿論そうしたことは充分に考えられることだと思います。

また、自宅では家族がいて、なかなか落ち着いて瞑想する環境を作ることが難しいという場合もあるかもしれません。

そんなことを考えていたら、時々はこのセッションルームを使って、みんなで瞑想する時間というのを作ってもいいのかなあと思いつきました。

そうしたことを思いつく引き金になったことがあって、それは言葉で何かを伝えようとすれば必ず本質からずれてしまうというジレンマを感じるようになったというのがあるのです。

本当は沈黙していることが、最も真理を感じることができるはずなのです。それなのに、私は誰かと対面するとすぐに何かを伝えたくなる性質があり、言葉が多めになってしまうのです。

そういった反省もしつつ、瞑想の時間と空間というのが用意できたらいいかもしれないと思うようになったのです。

めっきり、クライアントさんからのご予約が減ってしまって、部屋が空いているというのも理由の一つではあるのですが。独りで瞑想しているだけでは勿体無いかなと…。

来年あたりから実施してみようかなと思っています。もしも、参加してみたいと思われる場合には、ご連絡下さい。希望される方が多ければ、いろいろ具体的に考えられますので。

山口百恵は菩薩である

とても古い話しになってしまうのですが、私が若い頃に山口百恵という歌手がいて、ちょうど私が大学を卒業した年に、彼女は電撃引退したのでした。

したがって、このブログを読んでいるみなさんの多くはリアルタイムで彼女の唄を聴いたことがないかもしれませんね。

その頃は、というか今でもそうかもしれませんが、アイドルの女の子は笑顔で踊りながら歌うのが常識だったのですが、彼女は微動だにせずに、そして笑顔一つ見せずに歌うという異色のアイドルだったのです。

笑顔を見せないだけでなく、何と言うか物憂げなというのか、悲しみを抑えたようなそんな表情で歌う不思議な魅力があったので、「山口百恵は菩薩である。」と誰かが評したのでしょう。

今日はこれが書きたいのではなくて、「菩薩」についていろいろ思いをめぐらしていたら、昔ファンだった彼女のことを思い出したのでした。

子供のころから、菩薩とか如来という言葉を何となく知ってはいたものの、あらゆる宗教とは縁遠くして育ったために、ほとんど興味もなく今まで過ごしてきました。

ちなみに仏教では、菩薩というのは、悟りを目指して修行しているものをさし、如来とはすでに悟りに達したものを指すらしいです。

宗教がらみでたった一つ覚えているのが、子供のころに母親が「南無妙法蓮華経」というお題目でお経をあげていたのを身近で聞いていたことです。

それは今思えば、日蓮宗の「法華経」というお経だったわけですが、私の親は一切そうしたことを教えてくれようとしなかったので、私もただそばで聞いていたという記憶しかないのです。

学校で空海とか最澄というお坊さんについて習ったことはあったかもしれませんが、何せ神と仏の違いすら知らない状態ですから、無宗教というのもここまでくるとすごいと思います。

私は今も無宗教主義者であり、世界中にあるあらゆる宗教やその教えには、基本的に大した興味を持っていませんし、実際ほとんど無知に近い状態です。

でもきっと、セッションでお話ししたりこのブログで書いていることは、人によっては宗教臭い匂いがすると思われてしまうかもしれませんね。

それでも、何でもいいのです。私はただ自分が気に入ったことを検証しながら、人生というストーリーから断固として自由になると個人的に決めただけですので。ただ、気づいたことをこれからも書いていくつもりです。

知覚は非対称 その2

一昨日、知覚は非対称だということについて書きました。知覚が起きると、その主体は消えてなくなってしまうということでした。

このことについて、もう少し違う表現で書いてみようと思います。例えば、部屋で一人カーテンを眺めているとします。そのときに、「見る」という行為が起きているという事実があります。

ところが、そこに「私」が「カーテン」を「見ている」というように、主体と客体(対象)を追加してしまいます。そうなると、見るという単なる行為があるだけではなくなってしまいます。

あくまでも、「私」という主体が主体性を持ってカーテンを見ているということになり、これはまさしく観念として作られたものなのです。

観念がいいとか悪いとかということではなくて、それは事実ではなくて、ただそう思っているということだということに気づく必要があるということです。

私たちはその観念を強く信じる習慣が出来てしまっているために、それを事実として何の疑いもなく受け入れてしまうのです。

これを暴くのは大変なことかもしれませんが、一度分かってしまえばどうということはありません。直接体験として、カーテンを見ている私をどこにも見い出すことができないと気づくことができます。

私は確かに消えています。鏡に映して見た時のあの自分の顔や頭はありません。その代わり、顔や頭があると想定していたところに、目一杯のカーテンや部屋の景色が詰まっていることに気づきます。

それはまるで、自分の頭がすっかり部屋の景色と入れ替わってしまったかのようです。いいえ、これはそう感じるのではなくて、これこそが直接体験なのですね。

結局、見るという行為が起きるとは、主体が消えてその代わりに見られる対象をまとうと表現してもいいかもしれません。

もしも、目の前に誰かがいたとしたら、私は自分を消滅させてその人をまとう、その人になるということです。つまりこれこそが、「私はあなた!」という直接体験に他なりません。

もっと正確に言えば、「ここに在るそれはあなただ。」ということで、個人としての「私」があなたになると言う意味ではありません。

この非対称性を常に意識し続けることができたら、きっと私たちはもっと自由に伸び伸びとした気楽な毎日を生きることができるはずです。

癒しの「標準コース」と「最短コース」

癒しには大きく二種類のものがあると考えられます。一つ目は、一般的に知られている標準的なものであり、簡単に言えば人生というストーリーの中での方法です。

私がセッションで行っている催眠療法などは、その典型的なものと言っていいかもしれません。心の中に燻っている過去の傷(と本人が思っているもの)を洗い出して、開放するのです。

そうした過去の傷を隠していると、その傷が現在にまで当人を追いかけてきて、何らかの方法で毎日の生活を妨害することになるのです。

本人はなぜ自分の人生がこうなってしまうのか、どうしてこんなに不自由さを感じてしまうのか、その理由が分からずにいるため、その本当の原因に気づくまでは苦悩が続きます。

過去から追いかけてくるそうした痛みや苦しみは、そこでしっかりと受け止めてあげることができれば、日々の生活への影響を少なくしていくことが可能です。

こうした標準的な癒しの方法によって、それなりに快適な人生へと向きを変えていくことは確かに可能です。しかし、それでも心の奥底に潜む得体の知れない苦悩が、今度は目だってきてしまうのです。

したがって、癒しはこの「標準コース」で終わるわけではなく、次の段階へと進む必要があるのです。それが、冒頭お話ししたもう一つの癒しの方法です。

それは、端的に言えば、「私」というものへの見方を変えていくことにより、真理へと向かうことによって根本的な苦悩からの開放に至る方法です。

私は個人的には、さきほどの標準コースをショートカットして、いきなりこの二つ目の方法、つまり「最短コース」をやっていくことも可能だと思っています。

ですから、セッションにいらしてくださったクライアントさんには、本心としてはこちらを是非ともお勧めしたいのです。

しかし、即効性があるというわけでもないという点と、それ以外の大きな欠点があるのです。それは、クライアントさんにとってきっと受け入れがたいということです。

なぜなら、クライアントさんの常識や信念、あるいは長年培ってきた自己像などを根底から見直すことになってしまうからです。

そうしたことを受容していただくことさえできたら、そして表面的な効果をすぐに求めずに進めていくことができるなら、この「最短コース」が本質的な癒しであることは間違いありません。

残念なことに、私自身もこの「最短コース」を現在進行中ですので、「標準コース」のように理解できているものではないということも、もう一つの弱点となるかもしれません。

癒しのスタートの時点でどちらを選ぶかは、クライアントさん本人にお任せするしかありませんが、二種類の癒しの方法があるということだけでも、お伝えさせていただけるようになったらいいなという願いを持っています。

また、両方の癒しを同時進行させることも勿論可能です。これが可能であれば、もっとも早期に様々な効果を期待できるかもしれません。

知覚は非対称

私たちは、通常知覚する側と知覚される側は対称を成していると信じています。AさんがBさんを見ている時、Aさんの姿とBさんの姿は基本的には人として同じ、対称を成しています。

それと同様にして、私がCさんを見るときにも、私とCさんとは対称的だと信じているわけです。しかし、よくよく考えてみれば分かることですが、非対称なのです。

私という一人称が何かの対象物を見るとき、私自身は消えてなくなります。見ている私自身が見えてしまったとしたら、対象物が正当には見えなくなってしまうからです。

私が何かの音を聞いているとき、私自身は静寂になっているということです。つまり私自身に音はないということです。そうでなければ、外の音を妨害してしまうからです。

また、何かを手で掴むとき、私たちはそのものの感触を感じることができますが、掴んでいる手そのものの感触はないのです。

つまり、何かの対象を知覚するとき、知覚する主体は消えてなくなるということなのです。これは、驚くべき発見だと思いませんか?

もしもこのことを、いつも忘れずにいることができたら、人生が大きく変わってしまうという予感がしてきます。

それはなぜかといえば、知覚する主体が消えるということは、決して自分は傷つくような存在ではないということを示しているからです。

私たちの毎日の生活の中で、何かを知覚しないことはないわけで、常に何らかの対象物を知覚し続けているのです。

そのときには、私は消えてなくなるのですから、これは真実の愛の前提であると言えますね。本当の愛とは無私と言われるように、自分がいなくなることを伴うことであるからです。

自分を一人称として見ないときにのみ、私は存在しているのです。それは鏡に映った姿を見たり、写真その他で、対象として客観的に自分を見るときに限って自分は存在するのです。

一人称としての私は、知覚するとともに消えうせてしまうということです。このことを認めることができたら、愛が育つことは疑いようがありません。

思い出はいらない

私たちの心の中には、今までに経験してきたさまざまな思い出が沢山残っています。何か印象に残る体験、あるいは大切な出来事の記憶など、それこそ数え切れないくらいのものがありますね。

例えば、卒業旅行のような特別なイベント事の経験などは、楽しい記憶でしょうし、そこで見た自然の美しい景色や風の香りなどはしっかりと心に刻まれることになったはずです。

勿論記念写真を気に入った仲間と撮ってみたりして、あっちからもこっちからも様々な方法を駆使して、忘れえぬ思い出作りをするわけです。

そうやって、後になって思い出すたびに、いい旅だったなあ、もう一度行きたいなあなどと感慨に耽ったりするのです。

ところで、ここで一つ考えてみて欲しいことがあるのですが、私たちが見ているこの世界というのは、そうした心の中に印象として残してきたものと深く関連しているということ。

まったくまっさらな心の状態で世界を見ているようにみえて、実は沢山の色メガネによって見てしまっているということです。

だからこそ、同じ風景を見たとしても見る人によってその印象はまちまちなのは当然のことなのです。つまり、その人がどんな印象を心に溜め込んできたかによって、反応が異なるということです。

もしも、心の中に蓄えてきた印象がとても少ない人がいたとして、その人はどんな物事の見方をすると思いますか?

それは間違いなく、欲望の発生の少ない見方、不満をあまり感じない見方をするはずです。なぜなら、その人が今体験していることが、過去の何かと比較されることが少ないからです。

そこに不平不満が発生する可能性はとても低いのです。その人は、いつも新しい気持ちで自分の体験をすることになるので、もっといい景色を求めたりといった、「もっともっと…」という反応をしないのです。

印象を沢山留めてきた人と、そうした印象を対象へとその都度返してしまえる人とで、どちらが心の不満が少なくて済むかを考えれば、どちらが快適な人生かはおのずと分かります。

いろいろな過去の記録というものが、その人の人生の厚みを物語っているという見方もできなくはないですが、心は空っぽであるほうがいいのです。

何を経験しても、そのときの印象を自分の心に留める代わりに、その対象へと返してあげるのです。その印象を自分の個人のものとするのではなく、あるべきところへと戻すのです。

そうすれば、いつでも心は空っぽであるため、過去からの不満に巻き込まれてしまうことがなくなり、常に今に意識を向け続けていることができます。

それはとても自由で軽やかな気持ちで生きることを約束してくれるはずです。「思い出作り」などという発想を手放して、今を満喫することですね。