巷でよく言われる「気づき」というのには、大きく分けて二種類のものがあるように感じています。一つ目は、あなたが自分は一人の人物であるということに気づいている、といった場合のものです。
この場合の気づきとは、認識しているということであって、それまで認識できてなかったことに新たに気づくなどという使われ方もしますね。
癒しとは、こうした気づきの連続であるとも言えるのです。なぜなら、私たちは自分に都合の悪いことは見ないようにして自己防衛しているのですが、癒しを進めてそれまで見ていなかったものを真っ直ぐに見るようになれば、そこに気づくという現象が起きてくるからです。
そして、二つ目の「気づき」とは、上記の気づきとは全く異なるものです。それは、一般的な認識、つまり主体が客体を認識するものではないのです。
この場合の「気づいている」というのは、何とも摩訶不思議なことです。なぜなら、「○○が気づいている」という主体があるわけでもなく、また「△△に気づいている」という対象もないのですから。
つまり、「○○が△△に気づいている」ということではないということです。それは、ただの気づきだからです。敢えて言えば、「気づきそのものがそれ自体に気づいている」ということ。
それは、「ただ在る」という直接体験なのです。どうやったら、直接体験ができるのかという質問ほど、意味をなしてないものはありません。
直接体験はいつどんな時であっても、それをなくすことなどできないからです。「知る」ということの本当の意味も、この直接体験を指すのです。
この宇宙を生み出しているもの、それは気づきなのです。二種類の「気づき」の違いは決定的ですね。前者は思考による認識ベースであり、後者は純粋な意識そのもののことだからです。
あなたの中にある気づきも、この二種類が同居しているのです。