パラドックスは美しい

この世界で、「私」はいない!ということを見出すことくらい、究極的なパラドックスはありませんね。だって、一体誰が「私」はいないということを見出そうとしているのか、「私」以外にそんなことを考える者は他にいないのですから。

この「私」とは一体何かということを、探求して追究して行って、どうにも見つけられずにとうとう力尽きそうになったその時、追究している側の「私」が消えるのです。

そうやって本当に追究が終わるのです。その成り行きとして、追究のターゲットであった「私」は居なかったと気づくのですから、これ以上のパラドックスなんてないでしょう。

もしも追究している側の「私」がまだまだ元気いっぱいのうちに、唐突に「私」はいないということがやってくるとしたら、早晩「私」に戻されることになるでしょう。

経験者は語るです。だから探求はとことんやり続ける必要があるのかもしれませんね。一過性の「私」の不在は、本当に「私」が落ちたことにはならないからです。

実際に、「私」がいないことをどれほど深く思考によって理解できたとしても、それは単に非二元を論理的に解釈することができたということでしかありませんね。

それでは非二元に1ミリも触れたことにはならないでしょう。ところで、「私」が落ちた瞬間、それを確かに感得しているナニモノかが在るのは間違いありません。

それこそが真の自己なんでしょうね。私の体験としては、今の自分とそれほどの違いがあるようには感じませんでした。ただ、「無」を直接体験している自覚はありましたが…。

何かを理解しよう、把握しようとすることを放っておくことです。その欲望が「私」の餌になるからです。探求の真の目的とは、探求が無駄であることを悟るためなんです。これもパラドックスですよね!

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