惨めさからの逃亡をやめる

人が最も苦手なものは何だと思いますか?それは、自分の惨めさなのです。自分は何て惨めな存在なんだろう、という思いほど、自分を傷つけるものはありません。

だからこそ、誰もが惨めな想いからできるだけ離れようとして、頑張るのです。その頑張りから、やがてはあらゆる苦しみが起きて来ると言うわけです。

なぜなら、その頑張りこそが自己犠牲を生む結果となってしまうからです。もしもあなたが、何だか人生は辛い、この闘いはいつまで続くんだろう?と感じているのなら、惨めさからの逃亡が原因だと気づくことです。

つまり、自分は惨めな存在に違いないという思いを持って生きてきたことを思い出すことです。自分は惨めなんかじゃないと自分を偽ってきたことを思い出すのです。

そうやって、少しずつ惨めだと言う思い込みから逃げなくなれば、自己犠牲とはお別れすることができます。惨めだという事実はなかったのです。

ただの思い込み、それも真実だと疑わないくらいの徹底的な信じ込みを続けてきたということです。惨めさの中にどっぷりと浸かっていることです。

そうすると、惨めさは幻想だったと気づくはず。

悦びに水を差す親

子供が喜んでいたり、楽しんでいると、それに対してそれとなくチクリと水を差す親というものがいるものです。心当たりはありませんか?

せっかく子供が楽しそうにしているのに、そんなにいいことばかりは起きない、と言ったことをポロリと言ってみたり、本来なら一緒になって子供の嬉しそうな顔をみて喜ぶはずなのに…。

子供が好きなことに夢中になっていると、すかさずやってきて自分はそれほど好きじゃないといったことを言ったりして、楽しい気持ちを台無しにしたり。

大好きな彼女を家に連れてきたら、なんだかんだと邪魔をしてきたり、監視されているような気分にさせられたりと、とにかくそうやって幸せを壊されるのです。

ところが、当の親自身は自分がそのような妨害をしているという自覚はまったくありません。なぜなら、それは親の心の奥に潜むインナーチャイルドの仕業だからです。

そのインナーチャイルドは、本当は自分だってもっと楽しい時を過ごしたかったのに、それができずに不満だったために、子供の笑顔に嫉妬して邪魔をしようとするということです。

そのような妨害を幾度となくされてしまうと、その子供は自分は幸せになってはいけないのだと強く思い込むようになってしまいます。

そうなると、大人になっても自分が幸せになりそうになると、自らそれを破壊するようなことを繰り返すことになってしまうのですから、事は重大ですね。

幼い頃に繰り返された親からの妨害工作を見抜いて、その時のネガティブな感情を味わうことです。少なくとも、親に対する怒りに気づいて、それを感じることが根本的な癒しを起こすことになるはずです。

何も無さが充満している

自分が肉体的にも精神的にも活躍しているときには、はっきりとこの自分がいるということを意識することができますね。

特に、ネガティブな感情に溺れそうになっていたり、苦痛に耐えていたりするときには、明確にここに自分がいると分かるのです。

けれども、一方ではできるだけ身体を動かさないようにして、精神も静止するようにしているだけで、自分というものの輪郭がぼやけてきます。

こうだ、と思っていた自分という存在が何かとても脆くて、危ない感じがしてきます。以前はそれが恐怖と共にやってきたのですが、最近は悦びを感じるようになったのです。

だって、自分がいないと感じるくらい気楽なことはありませんから。でも気楽と感じているくらいですから、まだまだ自分はいるのです。

本当に自分が消えてしまうと、気楽さも何もかもなくなって、それに気づいている状態がただ在るだけになるのです。

それは楽しくもないし、これと言った特別な感慨も何もありません。ただ在るとはそんなものです。何も無さで充満しているのです。

「ただ在る」という気づき

今日もシンプルに…

本当のところ、人生には意味も価値も目的もない、と言うとき

その真意は、意味があるとかないとか、

価値があるとかないとか、目的があるとかないとか

そのような範疇ではないということです

何かに意味や価値や目的を見い出そうとするのは

単に思考の習性なのです

思考から抜けたとき

「ただ在る」だけが残るのです!

以上

この世界は一枚の絵

今日もシンプルに…

以前、この世界は一つの絵だと感じたことがあります

それは、ここには個別に存在するものは一つもなく

一枚の絵のようにつながっているということ

あなたが一つの輪郭をもって

あたかも存在しているように見えるけれど

この絵という一枚(全体)の一部として

繋がっているということ

これ以上シンプルなことはありません!

以上

人類の進化とは?

地球上で意識的である存在は、私たち人間だけです。それ以外のあらゆる動植物、その他のすべての存在は全く持って無意識的な存在なのですね。

ただし、人間も他の動物と同じように、意識の内の9割の部分は、やっぱり無意識であって、たった1割だけが意識的であるということです。

もしも、あなたが瞬間瞬間の自覚を持たずにただ漫然と時間を過ごしているなら、それはほとんど動物と同じ無意識的な人生を生きているということです。

したがって、もしもこの先人類が進化していく道があるとするなら、それは少しでも意識的である部分を増やして行って、無意識部分が減少することなのです。

ちなみに、光明を得た人の場合には、無意識の層に光を当てることで、マインドの無意識部分が完全に意識的になったというわけです。

つまり、常に全的に生きることができるのです。自分が右へ行こうとするなら、トータルに右へ行こうとすることになるということです。

我々みたいに、何を考えているのか分からないといった無意識の部分が消滅してしまったわけですから。あなたのマインドから無意識層が消えるなら、あなたは自分がいないことにおのずと気づくことになるでしょうね。

「誰かの…」をやめてみる

今日もシンプルに…

自分がいないということは起きる可能性があるけれど

それを体験することはできません

なぜなら、体験するナニモノもいないからです

ただそれについての気づきがあるだけです

なぜこのことが理解しづらいかというと

私たちは常に、「誰かの…」を意識するからです

ならば、「誰かの…」をやめてみませんか?

きっと、物凄くすべてがシンプルになるはずです

以上