こだわりは自我を強くする

以前からずっと思ってきたことなのですが、「こだわり」を強く持てば持つほど自我の力が強烈になるということです。

だから、もしもあなたが右脳を優勢にして生きたいというのなら、あらゆるこだわりをなるべく小さくすることが理にかなっているのです。

そんなことを当たり前のように自覚して生きてきたのですが、ここに来て、どうやら自分の中に面倒なこだわりがいくつもあるなと気づいてしまいました。

床材は木を連想させるものよりも、できればタイルなどの石をイメージさせるものがいい。色も木の色よりも真っ白とかグレイなどのホテルライクなものがいい。

こうしたこだわりが自分の中に定着していて、それがなかなか頑固なのです。他にも無数のこだわりが、あれもこれもハウスメーカーの提案に対してイチャモンをつけてくる。

この床材を使えないというのなら、どうしようかなあ。他のメーカーにしようかな…。などと言って営業マンを脅しにかかる。

今私の自我は、水を得た魚のように思う存分暴れ出しているのです。それでも同時に、右脳側の声も聞こえてくるのです。

そんなことにこだわったところで、君が瞑想状態に入ってしまえば、もうどうでもいいことになることは知っているよね、と。

今日もそうした、左脳(自我)と右脳(瞑想)の攻防戦が続くのです。と言っても、強く主張するのはいつも自我側だけなんですけどね。

尊敬が分からない

小学校の高学年の時に、初めて男性の先生が担任になったのですが、私はその先生のことが大好きでした。

比べるのはどうかと思うのですが、小学生になってそれまでの二人の女性の担任とは全く違う感じがしたのを覚えています。

何か見張られていた気持ちの悪さが無くなったというのか、何だか自由な感じがしたのかもしれません。

授業中に、その先生から◯◯という人物をどう思う?という質問をされたのですが、きっとその人物は歴史上の偉人だったのでしょうね。

そんなことには全く興味を持っていなかった私は、その質問に対してただ「偉い人」とだけ言って、その場を逃れたのを記憶しています。間違いなく苦笑いされましたね。

もう少しまともなことが言えなかったのかなと思うのですが、その先生に甘えていたので本当にどうでもいいという態度でそう言ったのだと思います。

実際、何歳になっても誰かを尊敬するといった類の感覚が全くないので、こればかりはどうしようもないのです。

凄いなあと思う人はいても、尊敬がよくわからないのです。年上を敬うという気持ちも薄い気がします。

また、あの人みたいになりたいという願望もずっと前からなかったので、もしかすると他人にそれほど興味を抱いていないということなのかも。

ただ私の場合、特殊なのかもしれませんが、人のマインドの仕組みや働きなどには大いに興味があるのです。

その一方で、どんなクライアントさんであれその人の職業や、人生でどんなことをしてきたのかなどを意に介することはありません。

なので、セラピストという職業は、ある程度自分に合っているのかもしれないなと、今更ながら思うのですね。

人生は妥協の連続

先月くらいから、生まれて初めて一軒家を建てるという作業に取り掛かっていて、それが案外大変な作業になっています。

新しい家に住めるのだからありがたいことだというのは分かっているのですが、注文住宅というのは何から何まで決めていかなければならないので、今後数ヶ月間はかなりエネルギーを使わされるかなと。

まだ始まったばかりなので、間取りをどうしようかというのを考えているのですが、それで気づいたのは、ある意味で妥協の連続なんだなと。

それこそ郊外の広々とした敷地に一軒家を立てるのでしたら、自由気ままに設計することができるかもしれませんが、現実はそうではないのです。

首都圏ともなると、狭い土地に隣家と隣接させて建てなければいけないので、建築基準法などであらゆる縛りがやってくるのです。

例えば誰もが知っている北側斜線。北側の隣家に南側から入る光を邪魔しないように、北側の屋根を斜めにカットしなければならないのです。

あるいは、部屋の一つひとつに対して、窓による彩光のルールが厳しく決まっていたりするのです。違反すれば、国の認可が降りなくなってしまうのです。

結局こちらを立てればあちらが立たず、のようなことが繰り返されて少し落ち込んだり、また気を取り直して向き合うと、今度は違うところで制限が発生する等々。

少なくとも、自分の希望が100%叶うなどということは絶対にないということを思い知らされました。

そんな中で、妥協妥協を繰り返してゴールに少しずつ近づいていく。なんだか人生そのもののような気がしています。

実は妥協というのは決して悪いことではなく、いつまでも頑強にこうでなければ嫌だ、とするよりも現実との仲を良くする上手な方法なのかもしれないと思っています。 

右脳側の意見を聞く練習

ある時クライアントさんから、大澤さんのセッションで目指しているものは何ですか?と聞かれたことがありました。

私は速攻で、「より自然に、より自由に、より無邪気に生きることができるようになっていただくことです」とお伝えしました。

「社会で成功して、より幸せな人生を生きていただくため」とは言っていないのです。もちろん、それも素晴らしい目標であることは確かですね。

けれども、成功というのがこの世界で願いを叶えるということだとしたら、それはどちらかといえば自我の範疇なのです。

願い事が叶うことだけでは、真に満たされることにはならないとわかっているので、より内面的な健康に主眼を置いているわけです。

だからこそ、長い間に自我が習得してきてしまった生き方や考え方を見直して、全く新しいパラダイムにシフトしていく必要があるのです。

ところで、最近分かってしまったことなのですが、今までの生き方に凝り固まってしまった自我をどれほど叩いて修正しようとしても限界があるのです。

それよりも、これまで使ってこなかった右脳側の人格に目覚めていただく方がいいのかもしれないと気づいたのです。

もちろんそうした感覚になっていただくためにも、自我(左脳側)をある程度癒して、余裕ができてくることが必要です。

その上で、内面の主力を左脳側から右脳側にチェンジする、あるいは両者のバランスがいい状態へと変えていけばいいのかなと。

なにせ、右脳側の生き方は元々が、自然で自由で無邪気であるからです。ただ使ってこなかったというだけなのです。

まずは右脳側から色々なヒントを引き出す練習をすることです。そうやって、少しずつでも自分の内側にそんな人格がいたんだということに気づけば、それこそチャンス到来ですね。

自我を含まない右脳に委ねる

一般的な心理療法による心の癒しというのは、言ってしまえば「自我の癒し」なのですね。ここをまずしっかり押さえておく必要があります。

というのも、自我をどれほど癒したところで自我ではなくなるわけではないからです。自我はその原理からして、満たされるということはありません。

自我というのは、分離がその根本原理なので、全体性や本当の愛に気づくことはできないのです。それがダメということではなく、そういうものだということです。

ただし、あまりにも自我の病みが激しいまま生きていくのは流石にしんどいので、少しでも気楽に生きていけるようにと癒しを進めていくわけです。

ただし、自我は満たされない不満が原動力となって生きているので、ある程度の癒しを進めて行った先に、考慮しなければならないことが待っています。

それは、そこそこのレベルまで自我が落ち着いてきたら、今度は全く違う観点でのパラダイムシフトが必要となってくるのです。

それは、自我は自分自身ではないということを見抜くこと。自我は確かにこの社会で生きていくためには、なくてはならないものです。

けれども、あなたのマインド、あるいはあなたの脳には自我とは全く異なる部分が厳然と存在していることにも気づかなければならないのです。

自我は主に左脳の中にあり、右脳にはまた別の人格が備わっているのです。その右脳にも人生を生きるチャンスを与えてあげること。

そんな自分がいたのだという気づきを得ることがとても大切なのです。もしも自我を優先的に生きてきたなら、右脳優位になったなら全く異質な人生が待っています。

私がよく言う全体性とか、時空の外側の感覚などは全てがあなたの右脳の中にある感覚だからです。私たちは、いつでも右脳を使うという選択ができることを知っておくことですね。

自己否定から足を洗う

セッションでクライアントさんと向き合っていて時々思うのは、自己否定というのはとにかくしつこいものだなということです。

理屈では分かっているのです。その自己否定は理屈に合わないと。ところが、それがなかなかやめられないのです。

生まれながらの特性として、つまりはDNAに書いていあることが否定的だと仮にしても、それは自分の責任ではないことは明白です。

また、自己の否定的なところが後天的なものだとしたら、それは環境によるものなので、これまた自分の責任外のことなのです。

いずれにしても、自分のここがダメだ、というのがあってもいいのですが、でもそれは仕方のないことでしょ、で済ませばいいだけなのですが、それができないのです。

理由は二つあると思っています。一つ目は、自分への否定が親などから否定されたことのコピーである場合です。

いわゆる自分の中に作られてしまった親2世が、自己否定の張本人である場合です。このことにご本人が気づかなければなりません。

そしてもう一つは、自分の存在と否定的な部分を同一視してしまっている場合です。要するに、自分を存在として見ていないということ。

本来であれば、自分という存在があり、それに対して短気だとか怒りっぽいという属性があるだけなのです。

自分がどんな否定的な属性を所有していたとしても、自分の存在とは異なるものだと気づくことです。

この二つのバカバカしい勘違いにしっかり気づくことができれば、しつこい自己否定からすんなりと足を洗うことができるのではないかと思っています。

左脳の停止と共に自我は消える

今から12年ほど前に、あることをきっかけとして自分はいないということの気づきがやってきたことがありました。

実際には純粋な気づきというよりも、もっと実践的なある実験によってそれを認めざるを得ないという経験をしたのです。

それ以来、個人としての自分、もしくは自我(エゴ)は実在しないということが、生きることの根っことして組み込まれたのです。

ただし、それは自我としての自分にとってはやはり大変強烈な体験だったので、実在しないということを認めながらも、とは言ってもねえ…というのも同時にあったのです。

もっとシンプルに言えば、自分はいないという事実に100%舵を切ったわけではないという状態で生きてきたのです。

ところが、自我の正体とは、左脳のニューロンによる神経ネットワークの働きとして在る、ということが分かってしまったら、そりゃもう自我はイメージでしょうとなったのです。

自分とは、実在している何かではなく、脳の細胞たちの複雑な働きによってあたかも存在しているかのように感じることができるだけ。

映写機で自分の像をスクリーンに写していたとして、そこにはあたかも自分がいるように見えるのですが、映写機の電源をオフにした瞬間、自分(の像)は消えてしまうことに似ています。

実態がないというのは、残念ながらそういうことです。何らかの理由で、左脳の働きが停止した瞬間、自我は消えてしまうのです。

私たち自我の存在とは、そんな脆いものだということを知っておくのは、決して無駄なことではないと思いますね。

心の余裕が優しさを生む

他人の行動を見ていて、「我先に」と、「譲り合い」というのがあるとしたら、誰でも後者の方を好むものですよね。

「我先に」はどうもギスギスした感じがして、戦っていて余裕がないように感じるし、「譲り合い」の方は印象として笑顔やゆったりした暖かな感覚があります。

毎日のようにクルマを運転していると、「我先に」の方が圧倒的に多く見受けられるのです。交差点で対向車線のクルマが右折しようとしているのをイメージしてください。

自分が直進しようとする時、対向車を先に行かせるのか、あるいは自分が先に直進するのか、2択の状況です。

この2択には案外様々な条件が重なって、その時々で状況が異なります。私の場合は、対向車の後ろに他のクルマがいない場合、自分が先に行くことを選ぶかもしれません。

もしも対向車の後ろにもクルマがいる場合には、概ね譲ることを選択しています。あとは道路の形や、その他にも多くの要素が絡みます。

要するに、全体を見て譲るのか先に行くのかを都度選択しているということであって、いつも譲るというわけではありません。

そのほか、自分の後ろにクルマが並んでいない時の方が気持ちよく譲ることができるというのもありますね。

何でこんなことを書いているかというと、私自身が交差点を右折しようとしている時に、対向車が何台も通り過ぎるのに誰も譲らないという状況が結構あることにがっかりしているからです。

そんな時、ああ残念だなあと。この人たちだって、自分が右折する時には譲ってもらえたら嬉しいはずなのになと。

きっと心に余裕がないからかなと。余裕がないと、視野が狭くなるし、急いでいる時などは1秒でも早く行きたいと焦るので、譲るという選択肢がなくなってしまうのかな。

人それぞれに事情ってものがあるので仕方のないことなのですが、なるべくなら日々余裕を持って生きていきたいものですね。

自我から目覚めれば、愛しかない

愛の定義は難しいと思っている人もいるかもしれませんが、純粋な愛の定義は非常にシンプルで単純明快です。

それは、自分を明け渡すということ。個としての自分が全体の中へと溶けて消えていくこと。もっとシンプルに自分はいないということです。

自分が溶けて消えていくことを良しとするということは、個としての自分を守ろうとしないということを意味しますね。

つまりは、自我の最も得意とする自己防衛をしないということ。無防備ということです。別の言葉で表現するなら、無邪気と言ってもいいかもしれません。

だから幼い子供が無邪気でいるうちは、愛の塊として生きているということです。彼らにはまだ自我がしっかり出来上がっていないのですから。

結局、自我の本質は自分を守ろうとすることなので、自我には純粋な愛が理解できないのです。自我は愛を非常に恐れているとも言えます。

もしもあなたが自分の命を差し出して誰かを助けるとしたら、その時にはあなたの自我は一時的であれ消えている状態なのです。

誰もが本当の愛に憧れています。それが遠くにあるように感じるからですね。確かに自我からははるかに遠くにあって、決して手が届かないのです。

けれども、あなたのマインドのずっと深いところにあの無邪気な頃の小さなあなたが、今でも厳然と存在していて、それこそが愛であることを思い出せばいいのです。

私たちは決して自我そのものではないし、かつては愛として生きていた。それは単純な事実なのです。愛は遠いものではなく、とても身近なものだということですね。 

言葉を使わない練習

街を歩いていて、誰かのお家の庭先にとても綺麗な花が咲いているのを見かけて、「ああ、何て綺麗な花だろう!」とつい口にするかもしれません。

その言葉が、例えほんの少し口を動かすだけで、ほとんどは口の中で小さく独り言のように言ったとしても、やはりそこには言葉があるのです。

そんな時に、心の中でも全く言葉を発せずにいられたとしたらどうでしょう?きっと、見るということにもっと意識を向けることができるはず。

そうなんです。私たちは、色々なものや出来事などを見るにつけ、必ずと言っていいほどほんの少しであろうと、口が動いてしまうのです。

必ずや言葉を発生させてしまっているのです。その結果、ただ見るという純粋で無防備なやり方を忘れてしまっているのです。

そこで是非、言葉を発しないようにする練習をしてみて欲しいのです。どれだけ、見ることに付随して言葉がやってくるのかに気づくはず。

私たちが日頃、どれだけ気付かぬうちに思考(言葉)に依存し切って生活をしているのかを、思い知らされることになるでしょうね。

そして、見るということに言葉がくっついて出てこなくなった時、それは即瞑想的に生きることができるようになったと思って間違いないです。