意味記憶とエピソード記憶

今日老人ホームに入居している母親のところに行った時に、すぐには息子の私の名前が出てこないようでした。

今のところは顔は分かっているのですが、名前がすぐには出てこないという状態になりつつあるようです。調子がいい時はすぐに名前を呼んでもらえるんですけど。

名前というのは、記憶の中でも意味記憶という分類になるのです。りんごとか、机といったもの、要するに知識のようなものです。

次に、母親の年齢を聞いてみたら、しばらく考えてから「70歳くらい?」って言うので、それじゃあ息子とほとんど同じだねと 笑。

それは流石におかしいと分かるようで。普段自分の年齢はいくつだったっけ?って考えたりしないの?と聞いたら、全く考えないということでした。

仮に考えたとしても、自分では答えを出せないので自然と考えないようになってしまったのかもしれないなと。

記憶の分類の中には、エピソード記憶というものがあります。これは、名前の通り「昨日の夜はカレーを食べた」のような記憶です。

このエピソード記憶にしても、最近の記憶はほとんどないようで、入居してから一度もお風呂に入った記憶がないと言っていました。

母親を困らせないために、記憶に触れない会話をしようとするのですが、これが結構難しいわけです。

外の景色を見せて、今空が暗くなってきたとか、部屋の温度がちょうどいいとか、そういった今現在の話題だけになってしまうからですね。

私たちの日常にとって、記憶というものがどれほど重要なものなのかを実感できます。その一方で、瞑想中は記憶から離れた状態になるのですが、それはそれで心地いいものですね。