心とは処理プロセス

私たちは、自分には心がある、心を持っているという実感があります。自分の身体よりも、心の方が自分自身に近いという感覚もありますね。

とはいうものの、身体は実際に見えて触れるものですが、心は触ることも見ることもできません。一体全体、心とはどこにあるのでしょうか?

一般的に言われるのは、頭の中、つまりは脳の中にこそ心があるということです。ただし、今のところ、脳を解剖学的に詳細に分析しても、心を発見することはできていません。

これからも「これが心だ!」という具合に見つけることはできないと思っています。それはなぜかというと、心はモノではなく、何かを処理する過程、プロセスそのものだからです。

そんなプロセスが心だと言われても、すぐには承諾できないかもしれませんね。身近なもので類似したものを探すと、コンピューターのプログラムのことを思いつきます。

プログラムとは、何かの目的のためにコンピューターに処理をさせる命令の集まりのことですが、それによって様々なアプリケーションソフトが機能するのです。

人間の心も同じように、本を読んだり、人とコミュニケーションをとったり、ゲームをしたりするための一連の処理をしているわけです。

瞑想中に心を探しても、それらしいものが見つからない理由は、頭の中で何の処理もなされていないからです。頭の中のプロセスが停止してしまえば、どこにも心は存在しないのです。

得体の知れない自分の心が一体どんなものなのか、その片鱗が垣間見えたのではないでしょうか?「自分=心」だと思っていたなら、自分という実体は存在しないということになりそうですね。