不平を言う古い習慣を落とす

用事がない限りは、身体が衰えないように毎朝なるべくスポーツクラブに行くようにしているのですが、そこで色々な人と会話をします。

大抵は、私も周囲の人も常連さんばかりで、そのほとんどがすでにリタイアして悠々自適生活を送っているおじ(ぃ)さまなのです。

そこでは、力んで何かをする必要もないので、誰もがゆったりと自由に過ごしているのですが、会話となると人の特徴が出ますね。

人の悪口を言う人はいませんが、なんらかの文句だとか不平不満を言うのは、意外に楽しいので私も思わず釣られてしまいます。

いつも文句を言っている道路工事のこととか、スポーツクラブの意味不明なルールだとか。逆に政治経済など真面目なことは、あまり話題にのぼりません。

何かバカバカしいことを見つけては、みんなでそれについて突っつき合うのは面白いし、割と盛り上がるのでちょうどいい暇つぶしなのです。

ただ、以下のoshoの言葉を読んでいるうちに、いつまでも同じようなことをしていても波動が上がらないかもなと思ったのです。

祈りをあなたの道としなさい
可能なかぎりあらゆる方法で賛美し
そして決して不平を言わないこと
不平を言うマインドを落としてしまうことだ
それが唯一の解決策だ
そしてひとたびそう決めてしまえば
人は不平を言う古い習慣を落とし始め
エネルギー全体が、賛美の方向へ移行し始める

不平を言う古い習慣を落とすって、いい言葉ですね。そして、祈りを人生の中心に据えて生きるということ。

難しいと思わずに、楽しみながら気がついたらそうなっていたという具合にイメージをしてみることにします。

ーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

自分に対して無理に何かをさせない

若い頃、自分が何をやりたい奴なのかが皆目分からないで困っていたので、とにかくアクティブな人のふりをしていたことがあります。

自分を放置しておいたら、それこそずっと部屋にこもっていても何も辛くないし、結構快適だったりするものですから、これではいけないと思っていたわけです。

それで、空のスポーツはパラグライダーだろうと勝手に思って、まだ当時日本ではほとんどの人が知らないスポーツだったこともあり、やったらカッコいいだろうと。

今思うとかなり危険なことをしてたなと思うのです。コーチのような人もいないで、個人的にグライダーを持っている人に借りて飛ぶのですから。

グィーンと上に引っ張られる感覚は格別で、これは虜になるかもと期待したのですが、案の定しりつぼみとなってしまいました。

空がダメなら、次は陸だろうということでモータースポーツへと誘われ、これはかなり面白くて今でもその時の興奮は忘れられません。

カートで時速100km くらい出すと、体感は300km/h くらいに感じるそうです。あるいは、ダートを友人の改造車でドリフトすることの快感も本当に魅力的でした。

それでも、やはりやめてしまうのです。そして最後は海だろうということで、高いお金を払ってスキューバダイビングのライセンスを取得。

それなのに、実際に潜りに行ったのはほんの数回だけ。そのころは、ただ面倒臭いから行かなくなるのかもと都合のいいように考えてみたり。

けれども、心底理解したのは、何をやっても続かないということでした。趣味に一生を捧げることなど到底できないと。

本当は趣味の問題などではなく、自分の深いところが揺さぶられるようなことではなかったという、ただそれだけのことだったのです。

人がやるからとか、これをやるとカッコいいからとか、とにかくアクティブな人になろうとか、そういうまやかしが通用しなかっただけなのですね。

だから、皆さんも自分に対して無理に何かをさせようとする必要などないのです。人と比べることもいらないのです。

そんなことは放っておいて、ちょっとでも楽しいことがあればそれを率先してただやってあげることです。

そうしたら、そのうちに自分の芯のところにガチっとハマる何かを見つけることができると思います。

私の場合は、瞑想だったり自己探求だったりですが、それも人それぞれです。自分に正直に生きていれば、それはいずれやってきてくれるはずですね。

ーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

全ては過ぎ去っていく

この宇宙、この世界の法則、あるいは特徴を一つ挙げるとすると、それは全てが一過性のものでできているということかなと。

始まったものはいずれ終わりを迎えるし、生み出されたものはいずれは消えていくことになっているのです。これが法則です。

この法則の意味するものって何なのでしょう?それは、実在するものではないということです。実在は変化しないからですね。

つまりこの世界のありとあらゆるものは、実在しないもの、幻でできているということになります。

だからこそ、夢のようなものという感覚になるのかもしれません。夢だからといって軽視したり、バカにする必要はないのですが。

要するに、やってくるものに一喜一憂するのはバカバカしいよねということです。それに気づけばいいのです。

何かがやってきて、ええええっと思ったとしても、それは確実に過ぎ去っていくことが決定しているわけです。

それがどれほど嬉しいことであれ、苦しみに満ちたものであれ、内容のいかんに関わらず容赦なく過ぎ去っていくのです。

そのことを忘れずにいられたら、起きてくることに影響されることなく淡々とした人生を送っていくことができるはずです。

そうなったら、起きてくることに抵抗しても仕方のないことだと分かるし、それを判断したところで意味もないと気づくのです。

そして、それに執着することがいかにアホらしいかがより明確になります。全ては過ぎ去っていく、これが極意ですね。

「何も知らない」への帰還

「死んだら目が覚める」という言葉を、最近よく使うようになったからなのか、これまで以上にこの現実がまるで夢のような気がしてきています。

そして、死ななくても夢であることを知ることもできるのではないかと。それも別に特別な努力も必要なく、つまり労せずしてということです。

それはやはり夢は思考で作られていると感じるからです。夢を形作っている思考を緩めて、ゆっくりと思考の外に出ていくことで、現実を全く違った感覚で体験できるなと。

思考に対して夢を紡ぐことを許しているのは、他でもない自分自身なのだと。そしてその自分は、これまで培ってきたことを信じてやってきたのです。

これからの私たちは、何も信じない、あれもこれも誰かから聞いた話しであり、そうした薄っぺらな知識で満足するのを辞めること。

気前よく、そういった馬鹿げたものを手放してそこから自分を解放して、まっさらな状態、つまり自分は何も知らないというところへと戻るのです。

何も知らないという気持ちよさ、何も所有せず、裸一貫の自分自身でいることの清々しさを感じて、ただ在ることの中にくつろぐこと。

そうやって準備ができたものから順番に、私たちの本質から必要な情報が降りてきてくれて、新たな世界へと向かっていくような気がします。

お金の心配から離れて、ジタバタすることからも退き、時空を感じない今この瞬間にとどまることによって、それはやってきてくれるのかなと。

気づきを加速させるために

昨日のブログでは、外側の世界と内側の世界があって、これからの時代は内側の世界に意識を向けていく必要があるということを書きました。

そして今日は、あなたの外側で起きているあらゆる事柄は、あなたの内側と密接に関係しているということを書こうと思います。

通常、私たちは物理的には、自分という存在と外側の世界とは分離していて、直接的な関係はないと思い込んでいますね。

けれども、実は関係があるというよりも、あなたの内側こそが外側で起きることを決定しているとも言えるのです。

あなたの身に起きることは偶然ではなく、逆にあなたの内側のあらゆる部分がそれぞれに、あなたの外側の世界を作ると同時に、それを体験するということを続けているのです。

そう言った視点で、外側の世界を見るようになると、全ては何らかの信号なんだと。何かを教えてくれているものであると分かるのです。

その気づきは、自分をあるがままに生きれるようになるためには非常に大事なものとなります。

内側も外側も全部が自分なんだという感覚になることができたら、気づきは最大限に加速されていくことになるでしょうね。

ーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

二極化が進む

オギャーと生まれた赤ちゃんの頃から、私たちはずっと外側の世界に魅了されてきました。我々の五感も外側から情報をキャッチできるように作られています。

だから自然に生きていれば、自ずと外側の世界へと注意が向いてしまうのも当然のことだと分かります。

ところで、人間だけが外側の世界だけではなく、それを認識する内側の世界があることに気づいているのです。

他の動物にはない画期的な能力だと思っているのですが、その大切な能力を十分に発揮していない人もいます。

つまり、常に外側の世界ばかりに気持ちが向いてしまい、まるで動物のように内側の世界を認識するのを忘れてしまった人たちです。

これからの時代、内側に意識を向けていられる人とそうでない人とのギャップが、これまで以上に大きくなって、その溝は決定的になってしまうように感じています。

もしも、外側の物質世界にばかり、気を取られて生きてきたという自覚があるなら、今すぐにでも心を入れ替えて内側の非物質世界への注意を怠らないようにする必要があるのです。

このことは、これからの地球人にとって避けて通れないことだと思うのです。例えば、自分を見るということについて考えてみます。

その時に、自分のことを客観的に見ることをイメージするとしたら、それは内側の世界を使って生きてこなかったことを物語っています。そして客観視するのは左脳なのです。

逆に、内側から自分を見るという感覚があるなら、それは内側に意識を向けてきたことを証明していますし、右脳的な見方でもあると言えますね。

どちらが正しくて、どちらが間違っているということではないのですが、この二極化はきっと引き返せないところまで進んでいくでしょうね。

母親の強靭な肉体

今日、主治医の先生から母親の病状の報告があったのですが、医学的にはなかなかの回復ぶりだそうで、強い身体を持っているのだとか。

そういえば、今日2月3日節分は、母親の誕生日です。九十五歳の誕生日を迎えられるような人は、何らかのそれなりの理由があるのだとか。

ただ、私が見る限りは大丈夫なんだろうかという衰えぶりなので、心配であることには変わりないのですが。

胸部のレントゲンを見せてもらったのですが、救急車で担ぎ込まれた時には、肺の中にたっぷり溜まっていた水が、急激に減少した様が素人でも見て取れるのです。

こういう人は稀なのだそうで、心臓にも溜まっていた水が出ていってくれたのが分かるのです。1日に4リットルものおしっこが出てくれたお陰だそう。

そうなると、今度はたくさん働いてくれた腎臓への負担が大きくなって、そっちとのバランスを考えなければならないのだと。

この調子で行けば、来週にも退院して老人ホームに戻れるかも知れません。とはいえ、一度起こした心不全がまた起こる可能性は十分にあるわけで。

ホームに戻れても、これまでのような生活はできないだろうし、本人としてはこれまで以上に不自由な毎日が待っているのです。

「早く死にたい」を卒業して、自分の人生をお任せするような精神状態になってくれれば、きっと悪いようにはならないのだろうなと思うのです。

自分自身が似たような状態になった時のために、しっかり学ばせてもらえているんだろうなと思って、そこは感謝しかありません。

ーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

自我を理解しよう

多くのクライアントさんに対して共通して思うのは、もっともっと自我についての理解を深めて欲しいということです。

自我の生い立ち、自我の仕組み、自我のからくり、自我の原動力、自我の存続の秘密等々。それが分かると、自分のことだけでなく他人のことも冷静に見る事ができるようになるからです。

例えば、自我は真に満たされてしまったら、消えてしまうということ一つ理解できただけで、ああ誰もが満たされてはいないのだなと分かるのです。

そうすると、一見すると幸せそうな人であっても、内情は違うんだなということが分かって、いたずらに嫉妬したりせずに済むのです。

その結果、自分と人を比較して一喜一憂することが極端に減るはずです。なぜなら、誰もが悲しい自我として生活していると分かるからです。

あなたという純粋な意識が、この物質世界である地球上でそれ自身を目覚めさせようとして、あなたの肉体に入り込んだのです。

そして、自覚を持った肉体人格としての自我に自分自身を同一化させたのです。そういう意味では自我は必要な仕組みなのです。

ただ、自我本来の目的をはるかに超えて、自我それ自身が異常な責任や義務を全うしようとしたり、不安や孤独から身を守ろうとして防衛に奔走するのです。

その結果、本来の自我の目的から大幅に逸脱した人生を生きることになってしまったのです。自我自身がそのことに気づいて、軌道修正できたらいいのですが。

この世界に未練はない

朝目が覚めると、それまで夢の中の物語にどっぷり囚われていたのが、急にどうでもいいことになって、現実へと意識が向くのです。

そうやって、夢というのは忘れ去られていくものです。けれども、時々は忘れずに記憶に残っている夢もありますね。

それも内容的にはどうということもないのに、なぜか何かをきっかけとして思い出したりするのです。それも随分と昔に見た夢なのに。

そういう例外はあるとしても、ほとんどの夢は目覚めると同時に興味が薄れて消えていく運命にあるのです。

それと全く同じことが、肉体の死の後に起こるのだろうなと。死ぬと、肉体から解放されてそれまでの物質世界から非物質の世界へと戻るのです。

やっと本当の自分に戻れたという感覚がやってきて、自我として生きた人生という夢物語から急激に興味を失うのです。

もちろん、時には人生物語の特定の事柄に執着が残ってしまったりして、非物質世界に戻りかけながらも、その途中にとどまる場合もあるかもしれません。

これは私の感覚でしかないのですが、父親が亡くなった時には、すぐにこの世界への未練が消えて、あっという間に非物質の世界へと移って行ったんだろうなと感じています。

私の場合もそうなることは確実のような気がします。親子なのでそんなところも似ているのかもしれませんね。皆さんの場合はどうですか?想像してみるのも面白いと思います。