囚われのない自由人が理想

今日はまず、次のoshoの言葉を読んでみて下さい。

『私は人格には全く興味がない
道徳にもいっさい興味がない
私は人々に不道徳になるようにと
言っているわけではない
私は人々に意識的になるように
意識を生み出すようにと言っている
そしてそれこそ瞑想の真意だ』

やあ、気持ちがいい言葉が並んでいますね。人格者という言葉があって、いかにもバランスが取れていて穏やかな人を連想するかもしれません。

私は自分のことを決して人格者だとは思っていませんし、そうなりたいという気持ちもないのです。

人格って、自我のものだからかもしれません。でも、人格者の言うことは信じてしまいがちではないかと思います。

理路整然と感情的にならずに、大切なことを伝えられて実践している姿がイメージできますからね。

でもだからと言って、無防備で生きているかどうかは不明だし、ルールに縛られていないかどうかも分からないのです。

人格者の雰囲気をイメージすると、とても道徳的な人という印象が浮かび上がってもきます。私はそれも苦手なのです。

私の理想は、人格者ではなく、囚われのない自由人です。そして、やっぱり自分自身である人ということになるのでしょう。

囚われがないということは、否定的な信念や思い込みを持っていないということです。さて、そんな人がいるのかどうか、分かりませんけどね。

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