死ぬ時も清々しく

私は生まれた時から今に至るまでずっと、どんな宗教とも縁がありません。ところが、父親が亡くなった時に突然それはやってきました。

父親の実家の宗派を聞き、それに見合ったお坊さんを呼んでもらい、四十九日の法要をやってもらい、3回忌までやりましたね。

それが私が我慢できる限界でした。たまたま父親自身が、生前自分で戒名を作っていたので、それを葬儀屋さんに伝えたら、場合によってはお坊さんが嫌がることもあると。

その瞬間に、ああやっぱり大嫌いな世界だなあと思ったものです。法要の時に、お坊さんがどんな話しをされるのかと思って聞いていましたが、想像通りでした。

お寺のあらゆることが苦手です。代々の偉そうなお墓然り、お坊さんの袈裟や数珠や木魚の音、儀式というのは好きな人がやればいいのです。

興味がない人にとっては、洗脳された人がいかにも自分たちは正しいとばかりに強制してくる厄介なものでしかなく、勘弁して下さいなのです。

お寺、お坊さんの利益のためには今のシステムがとっても必要なのは理解できますが、それに踊らされている人の馬鹿馬鹿しさが透けて見えてしまいます。

故人を偲ぶのにどんなルールも必要ありません。どこへいく必要もないし、どんな格好をする必要もありません。

私が死んだ時には、残された家族たちがやりたいようにやればいいですが、私自身は一切の慣習を望んではいないということを明言しておこうと思っています。

そして今から断言しておきますが、死んだ瞬間にこの世界のことに興味を無くして、あっという間に別次元へと向かうと思います。

一ミリの執着も残さずに、清々しく広がって全体と一つになっていくといいなと思っていますね。