善なるもの悪なるもの

次のoshoの言葉は非常に重要なことが記されていると思います。

『真の聖者はけっして罪人には出会わない。たとえ探してみたところで、罪人は見出だせない。それが真の聖者の定義だ。その人は存在にどんな醜いものも見出だせない。その人にとって全存在は変容されており、それに魅了されている。それは信じられないほどに美しい–完全な美しさ、まったき美だ。』

罪人に出会うことができないというのは、罪というものは本質的には存在しないという気づきを体感した人のお話しですね。

醜いものも見出せないということは、美醜が消えてしまったということです。物事の善悪もなくなり、完全に非二元性の世界へと戻った人の話しなのでしょう。

私の自我は、この世の中には善も悪もあるし、罪もあり醜さも当たり前のようにあると信じ込んでいます。

けれども、それとは別のマインドの部分では、確かに真実には善悪も美醜も正不正も何も存在しないということに気づいているのです。

だからなのか、どれほど高尚な内容のお話しであったとしても、どんなに心温まる愛が溢れる内容のお話しであっても、そこに善と悪が出てくると意気消沈してしまうのです。

これからの地球、今後の人類にとってこれ以上大切な内容の話しはないだろうと思っても、善悪に触れられた瞬間、嫌になってしまうのです。

善悪は物語の中でのみ意味をなすものです。もちろん我々は人生という物語りの中で暮らしているので、善悪は重要な概念には違いないのですけどね。

このブログで、一度も触れたことのない内容があるとすると、きっとこれが善であれが悪だと言った事柄なのではないかと。

隣の大国がいずれ日本を植民地化するために、日本の土地を大量に買い漁っていることなどを聞いて憤慨するのです。

あるいは、小さな隣国が人工的に地震を起こす装置を開発していて、それを日本に向けて使って大きな津波を発生させようと企んでいることなどは、やはり極悪非道と感じます。

けれども、そう言ったことも全ては深い深いところで夢だという感覚があって、純粋な意識からは単なる現象が起きているという見方しかないのです。

さあそれで本当にいいのかどうか、まだ私には疑う心の余地が残されているように感じるのですが、みなさんはいかがですか?

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過去より未来に興味あり

歴史が好きという人は多いですよね。私はそういう要素が全くないのです。かつて父親の実家に武田信玄の家臣から始まる家系図があって、ちょっとだけ武田信玄の歴史小説は読みました。

記憶にあるのはそのくらいで、日本の歴史はもちろん世界の歴史についてもほとんど無知を通してきました。

なぜだかわからないのですが、興味を持てないのですから仕方ないですよね。学生の時には、仕方なく試験の時だけ一夜漬けで勉強しましたが、その全てを忘れてしまいました。

今となっては、家系にも興味がなくなって、いわゆる自分のルーツというものへの関心も消えてしまいました。

今仮に、自分の本当の両親は別にいたと聞かされたとしても、驚きはするものの調べようともしないでしょうね。

つまり、過去に興味がないのです。過去への興味で唯一あるのは、今回生まれてからの自分の歴史のみです。

とはいえ、死んだ時に今生での自分の過去を見に行くことができたとしても、本当に行くかどうかは怪しいところです。

その反対に、未来については興味津々です。どんなものが発明されて、どんな住宅に住んで、どんな経済になっているのか等々、知りたいことばかりです。

だから私が死んだ直後にすることは、未来の地球がどうなっているのかを見に行くことです。それは今からちょっと楽しみにしています。

死ぬ時も清々しく

私は生まれた時から今に至るまでずっと、どんな宗教とも縁がありません。ところが、父親が亡くなった時に突然それはやってきました。

父親の実家の宗派を聞き、それに見合ったお坊さんを呼んでもらい、四十九日の法要をやってもらい、3回忌までやりましたね。

それが私が我慢できる限界でした。たまたま父親自身が、生前自分で戒名を作っていたので、それを葬儀屋さんに伝えたら、場合によってはお坊さんが嫌がることもあると。

その瞬間に、ああやっぱり大嫌いな世界だなあと思ったものです。法要の時に、お坊さんがどんな話しをされるのかと思って聞いていましたが、想像通りでした。

お寺のあらゆることが苦手です。代々の偉そうなお墓然り、お坊さんの袈裟や数珠や木魚の音、儀式というのは好きな人がやればいいのです。

興味がない人にとっては、洗脳された人がいかにも自分たちは正しいとばかりに強制してくる厄介なものでしかなく、勘弁して下さいなのです。

お寺、お坊さんの利益のためには今のシステムがとっても必要なのは理解できますが、それに踊らされている人の馬鹿馬鹿しさが透けて見えてしまいます。

故人を偲ぶのにどんなルールも必要ありません。どこへいく必要もないし、どんな格好をする必要もありません。

私が死んだ時には、残された家族たちがやりたいようにやればいいですが、私自身は一切の慣習を望んではいないということを明言しておこうと思っています。

そして今から断言しておきますが、死んだ瞬間にこの世界のことに興味を無くして、あっという間に別次元へと向かうと思います。

一ミリの執着も残さずに、清々しく広がって全体と一つになっていくといいなと思っていますね。

どちらでもなさに憩う

完全なるど真ん中というのは、次元が異なるのかも知れません。そこの一点のみが、二元性から非二元に変わる場所だからです。

心を静かにしばらくじっとしていると、いつも騒がしくしている思考が緩んで来るのが分かります。

そうすると、善なるものも悪なるものも消えて、過去も未来も同時に消えていってくれるのです。それが本当に心地いい。

そのどちらでもない地点にいられる安心感、実際両方とも思考が作り出していただけだったのだということの気づき。

それをただど真ん中と表現しているだけで、結局のところ二元性の世界というのは思考による作り物だったということ。

自我の癖でもあるのですが、自分自身の悪の部分をできるだけ善へと変えていきたいと願っているわけです。

ところが、その悪も善もともに幻想でしかなかったと分かるので、意味のない自己改善というものから解放されるのです。

そうなると、やるべきことがなくなっていくのですが、慣れないうちは困ったことになったと感じるかも知れません。

けれども、ただ楽しめばいいのだと、ただ戯れていればいいだけだと気づくのです。それが本当の意味での救いなのかも知れません。

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ユートピアに棲む方法

ユートピアという言葉で連想する世界ってどんな感じでしょうか?争いごとがなくて、貧困も差別もなく、誰もが幸せに生きられる世界ですかね?

そうだとすると、ユートピアはどこかにあるという場所ではないと気づきます。だってそうですよね、ある場所に行くと誰もが正直になって嘘をついたり、人を騙したりしなくなる。

そんな場所などないのですから。ユートピアとは、場所のことではなくてそこに棲む人々の心の状態にかかっていると言うことです。

もしもあなたが考えたことや感じたことが、他人に筒抜けだとしたらどうでしょう?つまり、隠し事ができない状態です。

隠せないのですから、あるがままでいるしか方法がないのです。それがどれほど、心を安らかな状態にしてくれるか、イメージしてみて下さい。

人はなぜ隠し事をするようになるのかを考えてみると、自分の否定的なところを気付かれて否定されるのが怖い。

あるいは、相手を傷つけたり、落胆させたり。相手の怒りや悲しみを誘発させて、罪悪感を感じてしまうのが怖い。こんなところでしょう。

もしも自分自身でいようと志すなら、こうした恐怖に負けずにいる必要がありますね。そして隠し事をせずにいられたら、あるがままの自分で生きることができるのです。

そういう人が一人でも増えれば、この世界は一歩一歩ユートピアへと近づいていくことになるのでしょう。

もしくは、私たちの深いところでは、他人と互いに繋がり合っているということに気づいて、それを体感することができたなら、その瞬間から隠し事が不可能となるのです。

そうなった人にとっては、その人がどこで暮らそうとその場所が全部ユートピアとなるのでしょうね。

底辺をウロウロする人生

20数年前にこの仕事を始めてまだ間がない頃、とある霊能力者のところでいろいろ学んでいたことがありました。

と言ってもその人とのご縁は数ヶ月で終わってしまったのですが…。その人が言うには、私は1万年くらいまえに地球に来たのだとか。

だから地球では非常に古い魂なんだとか。急にそう言われても、ああそうですかと納得できることでもなかったのですが、だからと言って絶対違うとも言えず。

ただ1万年もの長期に渡り、何度も何度も生まれ変わってきたとしたら、ちょっと考えれば相当に学べているはずですが。

ところが少しも人格者になってはいないですし、宇宙の真理に近づいたという気配もありません。この世界の底辺あたりをウロウロしている感じです。

ところが、この底辺をウロウロしていると言うことに関して、これまでとちょっと違った見方をするようになったのです。

それはどう言うことかというと、この世界の支配層の人々というのは、私が思うにきっと悪のエネルギーによって洗脳されてきたのではないかと。

権力を持ってしまうと人間は欲深くなり、人を不当に支配したり、自分に都合のいいように他人を搾取したりを繰り返してきた歴史があります。

でも本当に権力を持つと、そう言うことをしたくなるものなのかどうか。そういう立場になったことがないので、想像でしか言えないのですが。

私が権力を持っても、人を支配したくはならないだろうと容易に想像できるのです。それは他の人も同じなのではないかと。

つまり、権力を持ってしまった人もそのままであれば、悪の道に行くはずもなかったのに、地球全体を陥れようとする悪のエネルギーに洗脳されただけなのかなと。

私も間違って支配層の人間になっていたなら、洗脳されていたかも知れないと思うと、ああよかったと思うのです。

底辺をウロウロしている人間を洗脳しても、地球レベルで見たらなんのメリットもないですからね。だから悪のエネルギーのターゲットにならずに済んだのかなと。

今日の話は私の他愛のない独り言だと思ってスルーして下さいね。

この身体は借り物、大切にしないと

以前にも書いたことがあるのですが、中学生くらいの時にすごく気に入ったLP盤のレコードを持っていたのですが、姉が貸して欲しいと言ってきたので貸したのです。

しばらくして返してもらった時に、レコード面を見て愕然としてしまったのですが、大切にしていたのに、ガジガジにキズが付けられていたからです。

悲しいやら怒りやらで苦しくて、もう2度と貸さないと誓ったのを覚えています。どうやったら、あんなにひどい傷をつけて返せるのだろうと。

今でも不思議に思うのです。誰だって、人から借りたものは普通以上に気を遣って丁寧に取り扱うのが当たり前ですから。

図書館で借りた本や人から借りた本を読んでいる場合も、自分の本を読む場合に比べて少し丁重に扱うものだなと。

そして借りたものはなるべく早めに返したい衝動が起きてくるのです。なぜなら、借りている間に損傷でもしたら嫌だし、無傷で返したいからでしょうね。

じゃあこの人生が始まった時から、気付かぬうちにお借りすることになったこの身体に対しては、どうなのだろうかと。

私たちはこの身体を自分の一部だと思い込んでしまっているので、借りているものだという感覚を無くしてしまったのですね。

だから、食べ過ぎたり飲み過ぎたり、あるいは運動不足になってしまったりして、身体が嫌がることを平気でやってしまうのです。

本来の自分自身でいるというところから、離れてしまえばしまうほど身体に対してもそのストレスの影響がおよび、身体は悲鳴をあげるのです。

大切な借り物を傷つけてしまったという意識がないというのは、恐ろしいことですね。死ぬときに綺麗な状態のまま返す必要があると思ってないから、雑に扱ってしまうのかも知れません。

自分の身体を借り物だという目で今一度見つめてみると、かなり謝罪しなければならないことがあるように感じます。

身体に対する謝罪とそして感謝、そうした素直な思いをたとえ少しの時間でも身体へ伝えるようにしたいなと思うのですね。

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いろんな生き方があっていい

ツイ最近ですが、悪魔とか悪霊と戦ってきた人を知りました。知ったと言っても個人的な知り合いになったわけではありません。

動画を見て大変な人生の人もいるものだと思ったのです。いわゆる霊能力が飛び抜けて優れているらしく、それだけ悪魔、悪霊などから攻撃を喰らうのです。

決死の覚悟がなければ到底やっていけるものではないなと。そんな人の日常を知ってしまうと、どれほど自分がのほほんと毎日を生きているのかと。

霊の話しではないにしても、全世界のために多忙を極めて戦い続けている人もいますね。私が知らないだけで相当数の人々がいる気がします。

人知れず、日本列島のどこかに結界をはってみたり、とにかく常人には理解できないようなことを命懸けでやってくれている人々もいます。

あるいは、自分の仕事をごく普通に続けていくことで一生を有意義に終えていく人もいるのです。その逆もいます。

犯罪や極悪非道なことに明け暮れて、愛のない人生を生きていく人もいるでしょうね。一生を戦争の中で過ごす人もいるはずです。

心の癒しを中心に据えて、毎日自分を見つめる作業をする人もいるし、癒しとは無縁にただ楽しいことを追い求めて生きる人もいます。

どんな人生が正解ということもないし、間違った人生というのもないように思います。その多くは、あらかじめ人生の設計図に記されているのでしょうから。

人の人生を見て色々参考にすることはできますが、それを真似する必要もないし、比較する必要もないのです。

誰もがそれぞれの設計図に沿って、淡々と進んでいくことになっているからですね。

分離というゲーム

もしもこの世界に自分一人しかいなければ、自分を知ることはできません。知る手立てが何もないからですね。

万物の大元は唯一無二の存在、二のない一、それを不二と呼ぶのですが、その状態では己を知ることができません。

そのために、分離という技(幻想ではあるけれど)を生み出したのです。そうやって他者というものを作り出すことで、それを通して自らを知ることになったのです。

それは一種のゲームみたいなものですね。なぜなら、真実は一つで決して揺るぎようがないのですが、分離といういたずらを考案することで楽しむことができるからです。

ところが、ゲームであるはずだったものが、次元の末端まで行ってしまうと、これが本当に思えてきて、真実を忘れてしまう羽目にまでなったのです。

それが人間がいる場所(次元)です。それはあまりにも忘れ過ぎてしまって、ゲーム感覚が全くない苦しみの世界になってしまったのです。

その深刻さは半端ではありません。あらゆる経験、あらゆる感情を味わい尽くした先に、もうそろそろ本当のことを思い出す時期に来ているのかなと。

みんなで作った常識や凝り固まった正しさ、そう言ったバカバカしいものから脱して、己の本当の姿を見つける時代がやって来たのかなと感じています。

あなたがこれが自分だと信じているものは、肉体だったり自我(心)だったりするのですが、そう言った石頭を一旦脇に置くこと。

そして少しでも幸せになるために、あらゆる可能性について探求していく必要があるのではないかと思いますね。

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自我のやり口に騙されないこと

『私はあなたがたになんの期待も持っていない。あなたがたがただ、自分自身であってほしい。』短いoshoの言葉ですが、決して忘れないことですね。

それと、誰かの言葉ですが、『あなた方にはどんな義務もない。もしあるとしたらたった一つ、それは自分自身でいるということ』

どちらの言葉も、全く同じことを言わんとしていて、それは誰もがあるがままでいること、自分自身でいて他の誰かになろうとしないこと。

自然体で無防備でいるということを意味しているのです。そうなると、自ずと防衛を命綱のようにして生きている自我は困るのです。

自分自身であるということは、防衛できなくなってしまうからですね。その結果は、自己犠牲も消えてしまい、人生の苦しみからも解放されることになるのです。

問題を見つけてはそれを解決しようとすることによって生き延びようとするのが、自我の常套手段であることを思い出すことです。

困ったり、焦ったり、落ち込んだり、我慢したり、憎んだり、嫉妬したり、こういった否定的なエネルギーを自我はうまく利用するのです。

それによって、活力を失わずに済むのです。はっきり言いますね。自我は真から幸せを望んではいないのです。

いつも、より幸せになることを生きる目的としているはずなのに、最も奥深いところには上記のような仕掛けが施されているのです。

だから、自我のやり口に騙されないことです。できる限り、自我を見張り、ただ見続けることでそれから離れていることができるようになるはずだからですね。

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