あなたは何ひとつ経験していない

今日は少し過激な表現を使ってみたいと思います。あなたは、今まで一度も何かを経験したことがないという話です。

そんなはずはない。朝起きてから今まで、さまざまなものを見たり、聞いたり、考えたり、感じたりしてきたではないかと。

けれども、あなたが経験したというその出来事は、本当にあなたの外側で起きた何かなのだろうか。例えば、目の前にコーヒーカップがあるとします。

あなたはそれを見ていると思っている。しかし、実際にあるのは色や形という視覚的な表れだけです。そこに「カップ」という名前を与え、それが自分の外側に存在していると解釈しているのです。

同じことは、音にも、身体感覚にも、思考にも当てはまるのです。すべては、ただ現れているだけ。

そこには、経験される対象があり、それを経験する主体がいるという二つの構造さえ、本当は見つからないのです。

それなら、経験しているのは誰なのだろうか?答えは、誰でもない。もっと正確に言えば、経験という出来事が独立した誰かによって所有されているという事実が、どこにも見当たらない。

あなたは、世界の中に存在している観察者ではないのです。そもそも、観察者と世界という二つのものが存在しているという前提自体が、思考によって作られた物語なのです。

これは、あなたが何かを失うという話ではありません。むしろ、最初から存在していなかったものを、存在していたと思い込んでいただけなのです。

そして、このことを理解する誰かも、理解したという体験を所有する誰かもいないのです。非二元とは、何か特別な境地に到達することではないのです。

到達する人も、到達する場所も、実は最初から存在していなかったという、あまりにも身も蓋もない話なのですね。

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