本質自身が本質としての自己に目覚める

昨日のブログの中で、「覚醒するということは、まさに人物としての体験の中で、その本質自身が本質としての自己に目覚めることを意味します。」と書きました。

ということは、つまり個人としての自分が自分なのだと自覚している自分、これをエゴと呼びますが、それが覚醒するということはないということです。

それにもかかわらず、私たち、あるいは私たちのエゴは、自分の本質を探究して、いずれは覚醒したいと願っています。エゴが何なのかということにはあまり興味を示さずに…。

これは本当にめでたい?見当違いなことですね。私たちの誰も覚醒することはできません。覚醒するのは、本質としての自己そのものなのですから。

このことは、寝よう寝ようと意識すればするほど、寝付けなくなってしまうあの現象と似ています。覚醒とは私たちエゴがコントロールできるものではありません。

私たちは自分の力で寝入ることができないことを知っているからこそ、自然に寝入るがままに任せようとするのです。

それと同じように、自分の力を放棄して、委ねることによってエゴという邪魔者の存在が小さくなって、その奥から本質が顔を出すことになるということです。

いつ寝入ることができるのか、誰にも予測できないのと同じで、いつ覚醒がやってくるのかは神のみぞ知るということですね。

人生をコントロールしたいという願望も、コントロールできるという信念もどちらも脇において、観念することにしませんか?神さえもコントロールしてはいないのですから。

自分という個人は本当にいるか? その2

昨日の続きです。

私たちは自分という存在が二人以上いるということを理解することができません。なぜなら、自意識とは自分は唯一だと信じているものだからです。

ところが客観的事実として、私たちは特定の誰かが複数人いたとしても、原理的にはそれを理解することが可能なのです。

昨日は、その矛盾は自分を連続した存在であると信じることから起こるのだということについてお話ししました。

そして更に、次のように考えることにより、自分という人物が複数いてもいいということにもっと明確に気づくはずです。

私たち一人ひとりの個人とは、私たちの本質からすると、この現象界を体験するためのただの機構に過ぎないのです。

真に唯一の本質が在り、順番にすべての人物の中に入っては、その機構を使ってその人物としての体験をするのです。

私の中に入っている間は、私という人物としての自意識によってこの世界を生きていると感じるわけです。その本質は、次の瞬間にはあなたという人物の中に入るのです。

そうやって、地球上では一瞬のうちに70億人の人物の中に入り込んでは、それぞれの人物として生活しているかのような体験をするのです。

覚醒するということは、まさに人物としての体験の中で、その本質自身が本質としての自己に目覚めることを意味します。

何だか楽しくなりませんか?

自分という個人は本当にいるか?

ips 細胞の発明によって、いずれは他人から臓器を提供されて移植するということが必要なくなる時代がやってくるのでしょうね。

あらかじめ、患者自身の臓器を ips 細胞から作っておいて、それと交換するだけで済むわけですから、これ以上の治療はありません。

その際移植する臓器は自分のものと全く同じものであるため、拒絶反応などを心配することもなくなるわけですから、本当にすばらしいですね。

さて、更に医学が発達した遠い将来には、今の自分とまったく同じコピー人間を作ることもできるようになるかもしれません。倫理上の問題はともかくとして…。

そのコピー人間とは、今の自分自身となんら違う部分のない、完全なるコピーです。肉体も精神も、記憶も性格にいたるまで、全く同じ自分自身です。

そうなった場合、オリジナルの自分とコピーされた自分の区別はつかなくなってしまいます。互いに、俺がオリジナルで、お前がコピーに違いないと言い合うことになるかもしれません。

なぜなら、自分がコピーされたという記憶がどちらにもないからです。そうなったときのそれぞれの自分とは何なのでしょうか?

私たちは、自分という個人が二人以上いるということを理解することができません。コピーはいくらいてもいいけれど、それはあくまでもコピーでしかないという立場です。

けれども、客観的にあなたを見る人からすれば、どちらもあなただと言うはずです。なぜなら、両者を区別する何のすべも無いのですから。

それでも、オリジナルのあなたとコピーされたあなたの二人は、ともに自分は一体どっちなのかということに延々と悩むことになるでしょう。

私たちが感じるこの不自然さは一体どこからくるのでしょうか?それは、自分という個人は過去からずっと連続して存在するという思い込みがあるからなのです。

もしも、一瞬一瞬自分という人物が新たに作られているとしたなら、オリジナルだろうがコピーだろうが、一瞬でリセットされてしまうのですから、何の違いも無いということに気づきます。

つづく

私はあなたの目の前にいたことはない

あなたが目の前にいる誰かとお話ししているとき、その人の意志はその人の身体の辺りにあるように感じているはずですね。そのことに異論のある人はほとんどいないはずです。

なぜなら、私たちは幼い頃より人物というものを身体と結びつけて見てしまう習慣を与えられて育ってきたからです。

けれども、私と対面して会話をしたことのあるすべての人にお伝えしたいのですが、私自身の本質はあなたの目の前にはいませんでしたし、これからもいることはありません。

私が特別に目をかけているこの身体だけは、確かにあなたの目の前にありましたが、その身体の中には私と言える何者も入ってはいませんでした。

私の身体をどのように切り裂いて、解剖していただいたところで、私の本質を見つけることができないのは明白です。

なぜなら、私の本質である純粋な意識には大きさがありません。どこからどこまでが私なのかという境界も見つけることができないのです。

つまり、本当の私はどこにもいないと表現するか、あるいはすべてであるとしか言いようがないのです。それが全体性ということです。

このことは、そのままあなたという本質についてもまったく同じように言うことができるはずです。ただし、私たちの思考は時空を発明して、自分がどこにいるのかを知っているつもりになっています。

それに騙されないでいることができれば、ここで私が言っていることに気づくはずです。何も難しいことはありません。ただ、当たり前のこととして信じきってきたことを一度脇に置いてみる勇気があればいいだけです。

私である意識と、あなたである意識は同じ一つものであるということ。それが、あなたは私、私はあなたということです。

宇宙にはどんな意図もない

子供の頃、何でこの宇宙なんだろう?ということを思って、どうしても不思議で、腑に落ちない変な気分になっていたことがありました。

なぜこの宇宙でなければならないのか?なぜこの宇宙が在るのだろう?今もわざとこの思考にはまってあげると、同じような気分がやってきます。

けれども、子供の頃と今との大きな違いは、疑問が起きることそれ自体には疑問を感じなくなったということです。

つまり、思考というのは疑問がつきものであって、疑問を持たない思考などあり得ないということが分かったのです。

結果として、そうした疑問に対して思考が納得できる答えを得ることができないとしても、そのことでじくちたる思いになっても、それも思考の持つ特徴に過ぎないことも分かったのです。

思考の範囲で解説するとするならば、この宇宙であるための理由は特別何も無かったということです。思考が求める、「目的」、「意味」、「価値」などは架空の作り物だからです。

宇宙という現実においては、私たちは何一つコントロールすることはできません。本当は、コントロールしようとする主すら思考の産物なのです。

私たちが大自然を目にしたときに感じる、あの自然の神秘にはそうなるどんな目的もありません。この宇宙という自然には意図がないからです。

科学者は、いまだにこの宇宙の中になんらかの秩序を見つけようと躍起になっていますが、たとえ秩序が見つかったとしても、それはただそれだけのことで、そこには神の意志も何もないのです。

ただ一つだけ、私たちの本質である純粋な意識からやってくる現象としての宇宙を、大きな驚きを持って観ることに徹していればいいのだと思います。

どんな情報も真実とは無関係

子供の頃、どんな疑問や質問にも的確に答えてくれる存在が一人いてくれたらどんなにいいだろうと思ったものです。

それが、その頃の自分にとっての神に相当するものだったのかもしれません。そうした存在を夢想すると、何だか安心できたのでしょうね。

今では、コンピュータとインターネットの発達によって、桁違いに物知りの友人をいつもそばに置いているのと同じ状態が実現されました。

世界中の図書館の蔵書とまではいかないまでも、それとは別の時々刻々のリアルな情報も苦も無く手にできるようになりました。

また、聞きかじりですが、宇宙のどこかにはアカシックレコード?と呼ばれるところがあって、そこには宇宙の全歴史が刻み込まれて保存されているらしいとのこと。

私の身体には今何本の毛が生えているか?なんてことも書いてあるっていうことなんでしょうか?それは本当に恐れ入ります。

けれども、そうした情報というのは一体何の目的なのかということも一度は考えたほうがいいように感じます。

なぜなら、情報としての知識を利用するのは、思考以外にはないからです。思考だけが、そうした情報を食べて肥えて安心したいのですから。

そんな情報がいくらあったところで、真実とは何の関係もありません。真実には情報などありません。情報は、真実という源泉から流れ出てきた現象の一部であるだけだからです。

人類が、とうとう宇宙のすべてを解き明かしたとしても、あらゆる事象のすべてを解明できたとしても、それ自体が真実であるということではありません。

そうした理解は思考の産物だからです。そんなことを期待する前に、きっとすべての人が自分の本質に気づくときがやってきてしまうのだと思います。

「今」という真実

昨日意識していた「今」も、一時間前の「今」も、そして今この瞬間である「今」も、実はすべて一つのモノなのです。それは時間ではないからです。

私たちの思考が作り出している時間という概念と、この瞬間に意識を向けることのできる「今」とは、何の関係もありません。

それは、事実とか現実ということとはまったく別物の、真実です。「今」を思考で捉えようとしても不可能なのは、思考が真実については一切理解できないからです。

私たちにとって、最も近いところに常に在り続けているもの、誰の人生にも同様に貫いている「今」こそが、絶対的な真実です。

こんなにも近いところに真実はその姿を見せ続けていてくれたのですね。それなのに、人類の真実への探求の歴史は、どこか遥か彼方に見出せるとして挫折してきたのです。

「今」という真実に意識を向けていさえすれば、どんな理不尽な思いも、耐え難い人生の苦しみも、すべてがその中へと消滅していくのが分かります。

私たちの思考が生み出している人生という物語は、その「今」というバックグラウンドによって支えられているのです。

そして、「今」という真実こそが本当の私たちの姿なのですから、言葉では表現できないくらいの深い平安に委ねればいいのです。

事実とは思い込みの産物

私たちは、時として自分に対して嘘をつくことがあるということを知っています。それは、都合の悪いことから目を逸らすためです。

けれども、そうしたことは人生のごく一部に過ぎず、大半は自分に正直に生きていると思い込んでいるのです。

ウソも方便と言う言葉がありますが、場合によっては何でもかんでも本当のことを言えばいいというわけではなく、悪気のないレベルで人にウソをつくことはありますね。

誰かが新しい車を買って有頂天になっているときに、自分なら絶対こんな車買わないと思っても、その気持ちをそのまま言うことはあまりありません。

でも自分自身の気持ちに、そのような見え透いたウソをつくことはできないと思っているので、自分は自分に正直だと信じているのです。

しかし、徹底的に正直でいられるかということをきちんと検証してみると、かなり怪しくなってくるのが分かります。

自分に正直でない、つまり自分を騙すときに一番多く使われるテクニックは、思い込んでいることを事実だとすることです。

実は、私たちが事実に違いないとしていることのほとんどが、信じていること、思い込んでいることに過ぎないのです。

徹底的に正直になるとは、そのことをしっかりと見抜くことなのです。ひとたび、このことに気づいてしまうと、あれもこれも事実ではなくて自分の思い込みの産物だったと分かります。

そうやって、真に自分に正直になることによってのみ、自分とは一体なんなのだという深遠な謎にせまることができるのです。

癒しのパラドックス

あきらめの悪い人っているものですね。そう表現すると、あまりいい感じがしませんが、要するにいつまでも自分の願望を自分に都合よく実現しようと粘るということです。

この世界の常識では、簡単にはあきらめないということは、肯定的なこととして受け止められています。何でもすぐに駄目だとあきらめるのは、何も成就しないと考えられるからです。

職を転々と変えてしまうことや、人間関係が長続きしないというのも同じですね。こらえ性がないというように思われてしまうのです。

けれども、ある程度やってみて、やっぱり違うと感じたり、思うような結果が出ないと判断できたときには、潔くあきらめるということも必要なことです。

忍耐強いということと、いつまでも執着してしまうということはまったく異なる心の有り様です。その違いをしっかり見極めることです。

心の底から潔いというのは、都合の悪いことから目を背けていては実現しません。本当のことをしっかり見据えることができたなら、人はおのずと潔くなるのです。

自分の心を癒していこうとするのなら、今までに手に入れたものをそのままにしながら癒しを進めるということは不可能なことだと理解することです。

なぜなら、それまでに獲得したものこそが、自分が癒されることを妨害している本当の原因だからです。

もっと単純にいえば、殊更癒そうとしなくても、それまで培ってきた自分や自分の周辺にあるものを、手放していく方向に意識を向けていれば、自動的に癒しはやってくるということです。

自分を癒そうとするのは、自己防衛であり、実はそれ自体が真の癒しを妨害するものなのです。このパラドックスにいつか気づいて欲しいものですね。

記憶が心に足跡を残すことが問題を作る

by Papaji

もし対象物が意識の中の現れにすぎないことを知っていれば、しがみつくことなしにそれと戯(たわむ)れることができる。

だが、たいていの場合そうはいかない。たいがいは欲望が起こり、快楽が続き、そしてその記憶が続く。問題はこうして起こる。快楽自体に問題はない。

ただその後でそれを回想することが問題をもたらすのだ。快楽は終わっても、記憶は残る。その残された記憶が同じ対象物から快楽を求めようとする欲望を起こさせるのだ。

そのようにして、それは無限に続いていく。

快楽に耽溺(たんでき)することは、何度も繰り返しそれを楽しもうとする欲望を生み出す。これがあなたの問題なのだ。

これがあなたに苦しみをもたらす。快楽が不在のとき、苦しみが起こる。なぜなら、その楽しみに戻ろうとする満たされない欲望がまだそこにあるからだ。

対象物を来させるがいい。それを楽しみなさい。そして忘れてしまいなさい。ひとたびそれを楽しんだなら、心から棄て去るがいい。それはもはや必要ないからだ。

レストランに行くとき、あなたは食べ、それからそのレストランを出ていく。あなたの空腹、食べ物の必要性は満たされたのだ。

なぜその後で食べ物のことやその楽しみについて考える必要があるのか? 精神的に快楽の体験を想い起こすことは、同じものをもっと得たいという欲望をもたらす。

記憶が心に足跡を残すことが問題をつくりだす。これが起こってはならない。それは欲望と苦しみをもたらすだけだ。