可哀想な親とは対等になれない

幼い子供は、親に激しく叱られたら怖いのです。叱るというよりも、親自身の怒りをぶつけられてしまうために、そのエネルギーを恐れてしまうのです。

恐怖を感じれば、子供は自由な自己表現、感情表現を抑えるようになるはずですね。そうやって、親と子の間のエネルギーの流れは一方通行になってしまうのです。

ここまでは、誰もがごく普通に気づくことですが、実はその先には隠された真実があるのです。それは、親の怒りを恐れている子供は、同時に親を可哀想な人だと見ているということ。

なぜなら、子供は不当に自分へ怒りをぶつける親の心のその奥に、つまり怒りのその奥に惨めさを隠した幼い子供のエネルギーを感じ取ってしまうからです。

そもそも怒りというのは、惨めさを隠すために発生させる感情だからです。子供は親の心の中に潜んでいる、その惨めさを見抜いてしまうのです。

そのために、ある程度成長した子供は、それほど恐怖がなくなってきたとしても、今度は親を可哀想と思うために、結局自己表現ができずにいるということが起きるのです。

可哀想という思いは、恐怖よりもより強い力で子供の自己表現や怒りを抑えることになるからです。そして、可哀想は延々と続くことになるのです。

親が可哀想でなくならない限り、親子が対等にぶつかり合うことは難しくなってしまいます。もしもあなたの心の中に、こうした感情があるなら、それに負けないことです。

自分一人でそれが無理であれば、専門家のセッションを受けることをお勧めします。

相反する二つの欲望

私たち人間は、相反する二つの欲望を持っているのです。その二つを決して同時に満たすことができないがために、人は様々に苦悩するのです。

その一つ目の欲望とは、真実に辿り着きたいというものです。言葉を変えれば、本当の自分、真実の自分とは何なのかを知りたいということ。

そしてもう一つの欲望とは、消えたくない、死にたくないというものです。自分という存在が消えてなくなってしまうことを考えると、激しい恐怖に見舞われるからです。

ところで、この二つの欲望がどうして相反するものなのか、そのことについて説明してみますね。たとえば、あなたが太陽のことが大好きで、その太陽をハグしたいと思っているとします。

ハグするためには、太陽に向かってドンドン近づいていくことになりますが、当然のことですがハグする前にその高熱によって、あなたは溶けて跡形もなくなってしまうでしょうね。

その光景をイメージしてみて下さい。それと同じことが先の二つの欲望同士にも起こるのです。つまり、あなたが真実に近づけば近づくほど、あなたの存在が曖昧になるということ。

真実は思考を持ったままでは近づいていけないからです。そして、とうとう真実の扉のすぐそばまで到達したとき、思考で出来上がっているあなたは消えて行くことになるのです。

あなたというエゴそのものが、真実への道を閉ざしていた唯一のものだったからです。太陽に近づきすぎて、あなたが溶解して消滅したそのときに、あなたは自分こそが太陽だったと知ることになるのです。

これ以上に皮肉なことはありませんね!

逃した魚は大きい

「逃がした魚は大きい」ということわざがありますが、実は今日それをまんまと経験してしまいました。もう少しで手に入れられる寸前のところで、逃してしまうのですからなかなか諦めきれないのです。

もっと早く自分が決断しておけば、こんなことにはならずに済んだのに、と思っても後の祭り。もうそれは、誰かの手の中へと消えて行ってしまったのですから。

ちょうど、大好きな彼女に告白する直前に、誰かほかの男に持っていかれてしまったかのような、あの感覚。悔やんでも悔やみきれないあれですね。

ところが、よくよく自分の心の奥を見てあげると、そうなるにはなるだけの理由もあったのだということが分かります。というのも、そこには決断を先延ばしにさせてしまう恐れがあったのです。

恐れから逃げていると、大切なものを取り逃がすことになるということです。自分は一体どんな恐れから逃げようとして、決断を先延ばしにするのか?

そこをよ~く見てあげることですね。逃げなければ、それ相応の結果が自分の元にやってきてくれるのですから。

今更ながら、いい勉強になりました!

両極を同時に楽しむ

ルーフバルコニーとかテラスとか、ルーフトップ(屋上)などに殊更魅力を感じてしまうのは何でなのだろうって思ったのですが、その理由が分かりました。

それは、インドアの安全性とかプライベート感と、アウトドアの爽快感や解放感が同時に味わえるからなのでしょうね。

インドアとアウトドア、この相反する特徴を同時に兼ね備えているからこそ、ごく普通の生活ではそれほど役に立つわけでもないのに、妙に魅力があるということです。

寿司の醍醐味だって、ひと肌温度のシャリとヒンヤリとしたネタが、同時に口の中で混ざるからこそ病みつきになってしまうのです。

サウナで暑くなった身体のままに、水風呂に飛び込むのが気持ちいいのも同じこと。また、水風呂で冷やした身体でサウナの中に入った直後の気持ちよさも同じですね。

このように、人は両極にあるものを同時に味わうことができると、そこになんとも言えない恍惚を感じることができるということです。

そういえば、最近アツアツのホットケーキに、冷たいバニラアイスを乗せて食べるの、やってないなあと思い出しました。

みなさんも是非試してみて下さい。ただし、やり過ぎには注意してくださいね!

理性ごと乗っ取られる

今日もシンプルに…

理性が潜在意識に乗っ取られるとき

二つのパターンがあるのです

一つは理性を差し置いて潜在意識が優位に立つとき

この場合は、理性で自分が理性的でなくなったことに気づいています

一方、潜在意識が理性ごとすっぽり丸呑みするとき

この場合は、どこまでも自分は理性的だと信じてしまいます

後者の場合、よりたちが悪いのは当然のことですね

以上

本当は誰もいない!

今日もシンプルに…

この世界には誰もいない

地球を一つの球体と見るようなスケールでは、

そこに誰の姿も見ることができない

一方、分子レベルのスケールにしても

同様に誰の姿も見ることができない

誰かがいるというのは

ものすごく狭いスケール範囲だけで起きる

錯覚に過ぎない

以上

自分がいるという幻想を見る

誰もが2~3歳くらいの頃に、自我(自分がいるという思考)を作り出すのです。これは、人類にとって本当に画期的な思考だったわけです。

なぜなら、人類の苦悩がそこから生み出されることになったからです。自分がいるという思考は、他人も同じようにいるという思考をも生み出します。

そして、一旦出来てしまった自分はいるという思考は、それ以降の体験のすべてを、自分の体験であるとして記憶システムへとしまうことになったのです。

だからこそ、自分というイメージは日ごとに膨らみ続けて、あっという間に私たちのような人格のようなものとなっていくことになるのです。

そうです。人格(人物)としてのあなたは、幼児の頃に作り出した、たった一つの思考が基となって作り上げられた張りぼてのようなものに過ぎないのです。

つまり、あなたというエゴは存在しないのです。それはまるで影のようなものだと思えばいいのです。影はあたかも存在しているように見えても、それが実在の何かではないということを私たちは知っています。

影とは光の不在であるに過ぎません。あなたという人物の存在も、それと全く同じようにして、意識の不在だと思えばいいのです。

だからあなたが、より意識的に生きるようになれば、あなたという人物が単なる思考の連鎖からでっち上げられた実在しないものだと理解するようになるはずです。

この世界に誰かがいた試しは一度もありません。自分がいるという思考の解説を、ただ見ること。これができるようになったとき、ものごとはただあるがままにただ在ると知るのです。

遊び心をもっと使おう!

今日もシンプルに…

何かを選ぼうとするときに、様々な観点から判断するわけだけど

例えば便利さとか、合理性とか、堅実さとかね

でも自分はワクワク感とか遊び心で選びたい!

だって人生は一度きりだし

その瞬間は二度と戻ってこないのだから

以上

子供より大人がいい!

子供の頃、なぜ子供には長い夏休みがあるのに、大人にはそれがないのかが不思議でした。大人だって、同じ人間なんだから、夏休みがあってもいいだろうにと…。

夏休みがないということだけでも、大人というのは大変なんだな、という先入観のようなものが作られてしまったのではないかと思うのです。

子供の情操教育のためにも、大人になると子供の時以上に楽しいことが沢山やってくるのだといった教えが大切なのではなかろうか。

子供の性格にもよるだろうけれど、少なくとも私の場合はそんな感じがしてしまっていました。ただし、その一方で大人には宿題がないというのが利点だとも思っていましたが。

そして最近はつくづく思うのですが、子供ほど大変な時代はありません。子供には大人のような自由が与えれるわけではないからです。

子供全般に言いたい。子供こそは大変だと。大人になると、やりたいことがいろいろできるようになるし、自由にもなって人生を謳歌できるようになるよと。

全ての子供たちが、早く大人になってすべての束縛から解放されたいと考えるようになってくれたらいいのにと。大人とは、本当にいいもんだと。

より意識的に生きる

今日もシンプルに…

朝、特に読みたいわけでもないのに

ただ漫然と新聞を開いて目を通してしまう

心当たりありませんか?

これがどれほど一日のスタートを思考まみれにしてしまうか

一方朝起きて、静かに瞑想する習慣をつければ

一年後には、確実により澄み切ったマインドで

より意識的な人生を生きることになり

それはあなたの人生に

計り知れない変化をもたらすことでしょう!

以上