瞑想誘導 その1 by osho

by osho

さあ静かに・・・
目を閉じて・・・そして自分の身体がすっかり凍りついたと感じなさい
今こそ内側へと入るときだ
エネルギーのすべて 意識の全部を集め 自分の存在の中心へと突き進む
それはちょうど臍の下五センチの内側にある
深い切迫感がないと到達できないーーまるでこれが自分の最後の瞬間であるかのような
早く もっと早く・・・
深く もっと深く・・・
自分の存在の中心にだんだん近づくにつれて 大きな静寂が降りてくる
そして大きな光があなたの存在をすっかり満たすーー源のない光だ
あなたはこの光だ
この光の別名をブッダという
この光の中にくつろぎ 三つのことを見つめる
一番目 あなたは身体ではない
二番目 あなたはマインドではない
三番目 あなたはただこの見つめる意識

「ただあるがままを見ている」実践

皮肉なことに、私たちに大切な気づきがやってくるときというのは、決まって何かがうまく行ってないと感じるか、あるいは都合の悪い状態になっているときなのです。

けれども、考えてみればこれも当然のことなのだと分かります。物事がうまく行っていたり、都合のいい状態であるときに、それを変えようとは誰も思わないのですから。

今が幸せだと感じるときに、それを何とかしようなどと思う人は一人もいないのは、当り前のことですね。別に大切なことに気づかなくても、幸せならいいじゃないかとも思うわけです。

けれども、それもそう長くは続かないのです。この世界はすべてが一過性で成り立っているのですから。そしてまた、困った事態というものがやってくることになるのです。

人はそれを、どうしたものかと思い悩み、何とかしようと考えるのです。その時点で覚えておかねばならない大切なコツのようなものがあるのです。

それは、外側では何等かの行動が起きるかもしれませんが、内面では静観し続けるということです。見るという立場になっていることから意識をはずさずにいるということです。

これはいわゆる現実逃避とは根本的に違います。一歩も逃げずに、「ただあるがままを見ている」ということを実践するのです。上手くいけば、そこは完全に困った事態とは無関係だということに気づくことができるのです。

起きている事態に100%で巻き込まれてしまうと、見ることはできなくなってしまうので、日ごろから見る実践を繰り返して、いつでもそのことを忘れずにいられるようにする必要があるのです。

もしもあなたが今何か困った事態にはまり込んでいると感じているなら、気づきのチャンス到来というわけです。そのことに飲み込まれずに、内側で淡々と「ただ見る」を実践してみて下さい。

問題は解決するのではなく、ただ見ることによって、それは問題ではなくなっていくということを知ることになるはずです。

人生は壮大なドラマ

思考のない静寂の中に入っていくと、すべては完璧だということを感じることができます。すべてということは、この世界のあらゆる人物のどんな人生も、完璧だということでもありますね。

このことは、本当に普遍的な真実です。ただ、あまりにも現実離れしていると思われてしまう気がするので、普段はそのようには口に出して表現することはありませんが…。

現実はと言えば、人も羨む素晴らしい人生もあれば、どうにも見苦しい醜悪な人生もあると感じているのが普通ですね。私はセッションを通して、本当に様々な人生を疑似体験させてもらってきました。

そして、それがどんな人生であれ、1ミリもそれを否定する場所は見当たらないのです。なぜなら、その中に悪の要素を見つけることができないからです。

同時に、善の要素もありません。善悪も正不正も、何一つ見つけることができないのは、それがただあるがままの姿だと感じられるからです。

人生は壮大なドラマであって、それは体験を通して楽しむものなのです。勿論、その中にはネガティブな感情や、苦しみなども入っているのですが、それも全部含めてドラマの味わいだと感じるのです。

この現実が作り物のドラマと同じだなどとは、とても考えられないというのも当然ですね。けれども、内面のどこかでだれもがそのことに気づいているのです。

現実と夢は真反対ではなく、どこか似た部分があるのです。どちらも同じような素材で作られているとも感じるときがあるのです。

現実は夢でも幻でもありませんが、<存在>からやってくるプレゼントであることは間違いありません。そのプレゼントの中には、あなたという存在も含まれているのです。

そのことに気づくと、何とも優しい穏やかな気持ちになれますね。

初回の方は、二枠分のご予約も検討して下さい

今日のセッションは、この仕事を始めてから実に7250回目でした。数だけを見ると、そんなにやったのかと思うのですが、正直それほどの実感は全くありません。

というよりも、未だに気づかせていただけることが多くて、セッションをどれほど続けて行ったとしても、常に新しい出会いがあるのと同じで、新鮮な驚きもなくならないのですね。

ところで、最近二枠分(4時間)のご予約をされる人が少しずつ増えてきました。ホームページ上でも記載しているのですが、一回2時間のセッションというのは、長いようでいて、意外と短いのです。

特に、初回の場合にはお聞きしたいことや、お伝えしたいことなどが山盛りあるので、どうしても2時間では時間が足らなくなることが多いのです。

それで、時間と経済的な余裕があって、じっくりと時間をかけてセッションを受けたいという場合には、二枠分のご予約をしていただくようにお勧めしているのです。

現在正規の約半額程度の費用でセッションをさせていただいているということもあって、個人的にはできたら二枠分のご予約をしていただけると、余裕を持ってセッションができるので、とても助かるのです。

ただし、前世を見たいというようなとても単純な興味などでいらっしゃるような場合や、もうすでに何度もセッションにいらしているという場合には、2時間の枠で時間的には充分ですので、ケースバイケースだということです。

また激しい感情の解放などが起きるようなケースでは、催眠のセッション後全身が痺れてしまって、正常には歩けなくなってしまうこともあるのです。

そういう場合には、危険ですので痺れがある程度収まるまで休憩していただく必要があるので、そういった時にも二枠分取ってあると、とてもあり難いということがあります。

あなたが今後、もしもセッションを受けてみようかと考えているのでしたら、一度是非、一枠分か二枠分かを検討してみて下さい。二枠連続(4時間)の効果はあなたが想像している以上に大きいかもしれません。

究極の不安の原因とは…

あなたの心の中に不安があるとするなら、その不安はどこからやってくるのでしょうか?その根本的な原因を知ろうとしたことはありますか?

大抵私たちが知っている不安の原因とは、経済的な不安であったり、健康上の不安であったり、人生の未来に対する全般的な不安であったりするのです。

勿論それ以外にも無数の不安の材料がありますが、そのどれをとっても実は後付で作られた不安感なのです。だからこそ、その一つひとつを安心に変えることができたとしても、またすぐに別の不安材料を見つけてしまうのです。

個別の不安を何とかして安心に変えようとする人生を、どこかの時点でしっかりと見直すべきときがやってきます。そして、それらの不安の根っこには何があるのかを探ることです。

その不安の大元は、自我が芽生えた頃の自己イメージに原因があるのです。自分のままではいけないのだという、理不尽な思い込みが作られることによって、漠然とした不安が残ることになるのです。

自分という存在への不信感とでも言えばいいのでしょうか?マインドの中に、存在否定が忍び込んできたために、ただここに居るということ自体が不安となってしまうのです。

その不安感を払しょくしてあげるためには、できるだけ多く自分を受け止めるということを繰り返すことです。可能な限り、思考を使わずにただただ愛を持って受け止めること。

それだけで、長い間謎だった不安感が減少していくはずです。けれども、それだけではまだ本当の意味での不安をなくすことはできません。残念なことに、不安は自我がある限りは消えないのです。

なぜなら、不安の究極の理由とは、それは私たちが自分とは本当は何かを知らずにいることからやってくるものだからです。自我とは自分の本質ではないからです。

自分のことを本当に知らずにいて、安心していられるはずなどありませんね。自我という仮面の奥に隠された自分の素顔と対面するまで、不安がなくなることはないということを憶えておくことです。

もがけば、もがくほど…

みなさんは、金縛りにあったことがありますか?あれは単なる体質の問題なのだろうと思うのですが、私は高校生の頃からひどく金縛りに遭うようになったのです。

不規則な生活をしていると、どうもやってくるようですね。高校生になってから、ラジオの深夜番組を明け方まで聞いていたりするようになったのが、原因だと思っています。

そして、酷い時には、一晩中金縛りに苦しみ続けるということもありました。一度、金縛りになってしまうと、そこから抜け出そうとして全力でもがくのです。

勿論、いくらもがいたところで身体は少しも動かすことができなくて、本当にしんどいわけですね。悪くすると、誰かがやってくるような気がしたり、何か得体の知れない存在が近くに来るような錯覚まで起きるのです。

だから、本当に怖くてそれで必死になってもがいてしまうというわけです。唐突に目が醒めて、何かゼイゼイしているような感じで、疲れ果ててしまうのです。

ところが、大人になってからは、慣れたせいもあるのでしょうけれど、次第にもがくことが減ってきたのです。ああ、またなってしまったな、と冷静に考えることができるようになったのです。

自分の力では、もうどうすることもできないということが分かるので、金縛りが解けるのをただ待つようになったのです。もがかなくなったおかげで、ずいぶんと楽になりましたね。

そうこうしている間に、自動的に解けて(目覚めて)、ああ自由になれたとなるのです。で、ふと思ったのですが、この現実の世界で生きるということも、何かそれと同じようなものではないのかと…。

私たちは、問題が起きれば、その現実の苦しみから何とかして抜けようともがくのです。そして、もがけばもがくほど、悪循環にはまってしまい、クタクタになってしまうのです。

何とかして…、という気持ちを見つめ、人生と闘うことをやめること、もがけばもがくほど人生は肘鉄をくらわしてくるということに気づくことです。

そして、どんな問題も所詮は一過性のものであることを思い出し、解けて(目覚めて)いくことをただ待つことです。そうすれば、最短で問題は消失して、自由の身になれるということです。

自称守護霊からのアドバイス

長年催眠のセッションをしていると、時としてなかなか不思議なことが起きたりもするものです。たとえば、催眠療法中に、クライアントさんの守護霊と称する存在が出て来ることがあります。

私のこれまでの記憶では、4~5回はあったように憶えています。セッションの数からいえば、ものすごく稀なことだとも言えるのですが、結構憶えています。

興味深いので、私はそのときにはその存在の言葉をじっくり聞くようにしています。よ~く聞いていると、かなり的を得たことを言っていて、みな本人に伝えたいのだけれど聞いてくれないと訴えてきます。

だから、催眠のセッションで表舞台に出ることができて、嬉しがっているのです。本人にもバッチリ伝えることができるので、あっという間に30分~1時間もしゃべり続けることもあります。

その存在が、本当に守護霊なのかどうかは別として、私自身がクライアントさんに伝えたいと感じることと同じようなことを大抵は言ってくれるので、それもあって喋りたいだけ喋らせてあげるのです。

場合によっては、クライアントさんご本人も決して知り得ないような、ご家族の一人ひとりの潜在意識の中身について、話してくれるようなこともあって、結構参考になるのです。

ただし、その存在が私たちのマインドと同レベルであるということも明らかなのです。なぜなら、話す内容がやはりこの世的なことばかりだからです。

私たちの存在の本質について、気づいて欲しいといったことを訴えてくることがないのです。それに、自称守護霊という存在が抱えている、人格のようなものを感じてしまうのです。

とはいうものの、何であれクライアントさんのその時点での癒しの力になってくれるのなら、大歓迎であることは間違いのないところですね。

心の拠り所が消える?

クライアントさんとお話ししていると、「落ち込む」という表現が出て来ることがよくあります。あの時期は、ひどく落ち込んでいた、などという具合に使われるのです。

勿論、私も落ち込むという意味は分かってはいるのですが、ただ本当にはそれらしき体験をしたことがないのです。気分が悪いというのはあるのですが、落ち込むということがない。

機嫌が悪くなるということもあるのですが、ことこの落ち込むということになると、どうにも経験不足は否めないのです。ところが、この数日なのですが、もしかしたらこれがそうなのかもしれないと感じることがありました。

ただし、それはフワッとやってきたかと思うと、あっという間にどこかへ消えて行ってしまうのですが、それでもこれまであまり味わったことのない感覚がやってきたのです。

それは言葉で表現するなら、心の拠り所がなくなってしまったというのか、基盤が消えてしまって何とも心もとない感じとでも言えばいいのか…。

その状態が長く続くなら、それはもう十二分に落ち込んだ状態になるであろうと分かるのです。そんなの絶対にいやだし、二度と経験もしたくないと思うのです。

だからこそ、あっという間に消えてしまうのかもしれないのですが。今自分のマインドの中で、確実に何かが起きているということは分かるのですが、実体がつかめないのでもどかしいのです。

そして、その気分が沈む理由が皆目見当たらないのです。マインドの内側深いところでは、もしかしたら孤独ではいられない幼い自分がまだまだしっかりと居座っているのかもしれません。

どういう理由かは分からないのですが、今頃それが騒ぎ出してきているのかなと。それなら、せっかくですから思い切り表舞台に出して光を当ててあげたいなと思うのです。

<存在>を信頼する

究極の生き方があるとすると、それは<存在>を信頼するという生き方。<存在>とは、この現象界を支えている背景、あるいは私たちの本質としての純粋な意識とも言えます。

<存在>を信頼するなら、自分に何が起きようと、それをあるがままに受け入れるということです。ところが、残念ながら私たちは起きていることを必ず思考によって解釈してしまうのです。

解釈すれば、それは自分にとって都合のいいこと、悪いこと、善悪、正不正などの評価をしてしまって、ただあるがままを見ることができなくなってしまうのです。

3.11で起きたことは、人の感性としては悲しいことだし、酷(むご)いことだと感じるのは当然のことです。それはそのままにしておいて、でも一方ではただそれを受け止めるのです。

この一週間くらいの間に、実は私自身にとってはあまり好ましいと感じないことが、連発で起きています。それも不思議なほどに重なってやってきます。まだ続いています。

勿論それが一過性のものであるということは分かっているのですが、早く好転して欲しいと思ってしまうのです。それも当然のことですが、その一方でそれをただ見ているという態度があればいいのです。

自分の内面がいつになく騒がしくなっているのですが、それを愛を持って放っておくことを忘れずにいれば、巻き込まれてしまうことがなくなります。

不都合な出来事には、そういった練習ができるという利点もありますね。ちょっと強がって聞こえてしまうかもしれませんが(笑)…。

超意識への道を見出す

by osho

東洋では一万年も前から――精神分析は百年の歴史もない――精神分析に似ても似つかぬ、誰一人したこともないような方法でマインドに働きかけてきたのは、驚きに値する。

彼らは全く異なる方法で試みた。彼らは決して、無意識層にかまわなかった。無意識層に注目するのは、終わりのない森に入るようなものだからだ。戻る道を見つけられなくなるだろう。

東洋は、反対方向に試みてきた。上昇して、土台のことなど忘れることだ。あなたの意識の上にも三つ階層がある。意識を活用して超意識に入りなさい。超意識を使って集団的超意識に入り、それを宇宙的意識に入るために使いなさい。秘訣は、この三つの意識に入る瞬間に、多くの光を得る。カビールはこれを、「幾千もの太陽が突然昇ったよう」と表現した。光があまりに強いので、無意識の抱えるものはすべて燃えてしまう。無意識層の闇は、消滅してしまう。

もし長い道のりを行きたいなら、無意識を掘り下げなさい。道は長く、ゴールに至ることもない――誰も至ったことはあるまい。

だが二番目の、存在のより意識的な領域に入っていくなら、事はとてもシンプルだ。それこそ私が教えてきたものだ。

瞑想はあなたを、より意識的な領域に連れて行く。あなたの全存在が目覚めたとき、そのまさに臨在が幾千もの生で溜め込んできた闇を消し去る。

単純な事実だ。部屋が暗いなら、闇と戦うのをやめて明かりを持ち込みなさい。たった一本のろうそくで闇は消え去るだろう。もし闇と争い闘い始めたら、複雑骨折で勝利すらおぼつかない。

最も簡単で知的な方法は、超意識への道を見出すことだ。それはより高いドアを開く鍵を、あなたに与えるだろう。