思考が現実を作り出す

よく言われる言葉ですが、「思考が現実を作り出す」というものがありますね。こうなったら困ると強く思っていると、実際そのようになってしまった、という経験を誰もがしているはずです。

仕事というのは、楽しいものじゃなくて、辛く苦しいものだという先入観を持っていると、本当にそうした現実がやってきて、職を変えたところでやっぱりそうなってしまうのです。

こうしたことを何となく私たちは経験上知っているので、「思考が現実を作り出す」というのも、うなずけるわけです。けれども、宝くじが当たる、という思いをどれだけ強く念じても、実際には当たらないのはなぜ?と疑問になりますね。

実は、それは意識的なマインドで考えていることと、無意識のマインドで考えていることの二つがあって、どちらかパワーの強い方の想いが現実となるということです。

だから、いくら強く念じても、心の奥底では当たるはずなど無いと思っていれば、やはり宝くじは当たらないという現実がやってくることになるのです。

比較的思い通りの現実が起きるという人生を生きている人と、そうでない人の違いは実は無意識のマインドにこそその違いがあるのです。

ポジティブなことをいくら思考したところで、無意識の中にネガティブな思考が渦巻いているなら、それは間違いなく否定的な現実が起きる可能性が高いということになるのですね。

無意識のマインドから、ネガティブな思考をなくしていくためには、癒しが必要なのです。通常の頑張りと努力だけでは、無意識に働きかけることはできないからです。

無意識のマインドを直接変えることはできません。その代わりに、間接的な方法、つまり徹底的に受け止めるということを繰り返すことによって、徐々に無意識層のネガティブな思考、エネルギーはそのパワーを失っていくことになるのです。

自分自身でいるだけでいい

今日もシンプルに! (by osho)

自分を変えようとする努力をすべて落としなさい

代わりに、あなたの全エネルギーを、自分自身を知ることに注ぎなさい

以上

存在を信頼する

誰でも、できることなら都合のいいこと、嬉しいこと、幸運に恵まれたと感じられるようなことが起きて欲しいと思っています。そして、そういうことが起きたら自分は幸せなのだと感じるのです。

ところが、残念なことに、人生とはそうそう願い通りには行かないものですね。そればかりか、都合の悪いこと、辛く苦しいこと、いやなこと、不運だなと感じるようなこともやっぱり起きてきます。

ところで、自分のこれまでのそうした経験をあるがままに見るときに、都合のいいことと都合の悪いことで、本当に大切な気づきを得るきっかけをくれたのは、一体どちらなのかを考えてみるのです。

そうすると、驚いたことに、都合のいいことが起きているときは、ただそれが過ぎ去るだけで、自分にはこれといったものが残ることはあまりないと分かります。

一方、都合の悪い出来事、もう二度とあんな目には遭いたくないと思えるようなことは、自分がそのことから逃げないでいた場合には、必ず何かの気づきを得ることができたのです。

私にとってそれが最も顕著だったことがあるのですが、それは15年前に癌を患ったことです。それが発覚したときには、人生で最悪の事態になってしまったと考えたはずです。

けれども、自分の命がかかっていると思うと、人は追い詰められた分だけ気づきを得ることができるのですね。それがきっかけで、今の仕事を始めることができたのです。

人は嬉しくて有頂天になっている間には、貴重な気づきを逃してしまいます。その反面、もがいて苦しんで、なぜこんなことになってしまったのかと天を恨んだりしても、そこから逃げずにいることができるなら、必ず光が見えてきます。

だから人生は捨てたものではないのですね。でもでも、やっぱりもう二度と辛い目には遭いたくないと思ってしまうのは、人情というものですね。

今、出口が見えなくて辛くて絶望していると感じているあなた、どんな事態であろうとそれは一過性のものであるということと、いずれはそこにこそ大きな気づきのチャンスがあるのだということを忘れずにいて下さい。

存在を信頼するなら、あなたはその瞬間に苦しみから解放されるのですから。

インナーチャイルドに会える!

みなさんは、インナーチャイルドと聞いて、誰だか知らないけれどそれらしい言葉をよくぞ作ったものだと思うかもしれませんね。内なる子供がいかにも実在するかのような感覚になる響きを持った言葉なので。

けれども、それは比喩に違いないと思っているはずですね。大人になった人間の心の中に、子供が棲んでいるわけはないのですから。

とろこがです。数限りないセラピーを通じて分かったことは、インナーチャイルドは実在するということです。勿論、肉体を持っているわけではありませんが…。

思考や感情を伴った、記憶システムの中にしっかりと居残っているのです。そして、上手に隠されてはいるものの、何かの拍子に表面化したりするのです。

催眠療法の中では、場合によってインナーチャイルドはあたかも、ここにいるかのように、言葉や態度として現れてくれます。それはもう凄まじいものです。

一番驚くのはご本人かもしれませんね。私はそばにいて、できるだけ出てきてもらえるようにと促すのですが、そんなことは飛び越えて、当時のままの子供の自我が現れてきてくれたりします。

「自分は苦しくて仕方ないので、死んだふりをしていた!」と教えてくれた子もいます。クライアントさんの大人の部分が助けに来てくれたことを知って、喜んでくれることもあったりします。

インナーチャイルドがいない人は一人もいません。誰のマインドの中にも、しっかりと居残って、何等かの形で未来の自分へメッセージを与え続けているのです。

そのことに気づいたなら、決して放っておくなどということはできないでしょう。その子を救ってあげたくなるはずですから。

インナーチャイルドがそこそこ癒された暁には、瞑想も無理なくできるようになるはずです。そこからが、本当の癒しの始まりでもあるのです。

無意識はマインドの地下室だ

欧米ならいざ知らず、まだこの日本では地下室のある民家というのは、きっと少ないのだろうと思います。それとも、あなたの家には地下室がありますか?

10代の若い頃、ロックなどの音楽が大好きだったこともあって、周囲を気にせずに大音量でロックを聞いたり、ギターを弾けるような地下室のようなものがあったらなあ、と思ったものです。

光が差し込む窓などには全然興味がなくて、真っ暗でいいので遮音してくれて、狭くてもいいから完全に干渉されずに孤独でいられる部屋が欲しい!と思っていました。

いつのまにか、そういう穴倉生活は性に合わないという感じがしてきて、今では真逆になって、できる限り多く光の差し込むだだっ広い部屋が欲しいと思うようになりましたね。

もしもあなたの住居に便利な地下室があったとしたら、どんな使い道を考えるでしょうか?きっと、あなたの個性に合った有効な使い方を考え付くはずですね。

ところで、私たち一人ひとりのマインドの中にも、地下室が装備されています。それがマインドの無意識部分なのです。マインドがそれをどのように使うかは、知っておいて損はありません。

あなたのマインドは、都合の悪い記憶、都合の悪い感情、その他あらゆる都合の悪いモノを無意識という地下室へと放りこむのです。

そうやって、都合のいい部分だけを光の当たる部屋の中に残しておくのです。あたかも、それだけが「私」なのだと見せかけようとして…。

あなたの両親も、この社会も、余計なものはみんなマインドの地下室に投げこんで、一生なかったかのようにするようにと仕向けたのですから。

けれども、地下室に投げこまれたガラクタは、残念なことにいつかは勝手にその存在を知らしめようとして、地下室から出てこようとするのです。

何十年も前に、しかも無自覚のままに放り込んだものが、出てこようとするのですから、一番驚くのは本人でしょうね。そしてそれは、止められるようなものではないのです。

あなたのマインドの地下室に光を当てて、一体どんなものが放り込まれているのか、見てあげることです。そのためには、できるだけ自分に正直になることが必要です。

ことマインドに関して言えば、地下室がない方がいいのです。地下室に降りて行って、それをつぶさに観ようとすることこそが、催眠療法でやろうとすることですね。

何も知らないという自由

世のなかには、意外性のある人っていますよね。たとえば、筋骨隆々の逞しい感じの格闘家が、小さな虫が怖いとか、光明を得た人の身体が不健康だったり…。

なぜそうしたことを意外なことと感じるかと言えば、それは私たちがある先入観を持って物事を見ているからにちがいありませんね。

そしてその先入観が何処から来るかというと、それはこれまで私たちが経験した情報の中から、最もありそうなことを勝手に想定してしまうのです。

さらに、なぜそのような想定をしてしまうかと言うと、私たちのマインドはなるべく物事を知っていることにしたいという特徴を持っているからです。

そのことなら、きっとこうに違いないと思うほうが、恐怖が小さくなるのです。マインドにとって、知らないという状態は危険なことと感じるということです。

ところで、瞑想をしていると、自分は何も知らないということに気づくときがやってきます。それは本当に驚くべきことなのですが、そして最初は恐怖も感じるかもしれません。

けれども、そのうちには、その何も知らないということに、何とも言えない深い安堵を感じるようになってきます。本当は、何も分からないのだということに気づくと、心の平安を感じるのです。

そして完全に何も知らないということを受け容れると、これまで獲得した知識とは全く別のもの、手に入れることのできないもの、ずっと在り続けているものに気づくことになるのです。

それは知識のような対象物ではなく、主体である我々自身なのですね。何も知らないということを徹底的に体験すれば、マインドはもたないでしょう。

そのうち、崩れ落ちて行くことになるはずです。それこそが本当の自由ということですね。

瞑想に水を差すモノ

何だか身体が微妙に熱を持っている感じがして、耳の奥にも少し痛みのようなのがあったので、おかしいなと思って血圧を測ったら、かなり上がっていました。

以前にも血圧が高くなっていたことがあったので、またかという感じなのですが、自分の健康が害されるとホントいやな気持ちになりますね。

そして、追い討ちをかけるように、突然昨日クルマのヘッドライトが点灯しなくなるというアクシデントに見舞われてしまいました。それも左右両方です。

結局、調べてもらったら不思議なことに左右ともに同時に球切れしたという、何ともあり得ないような事態になっていたのです。そしてふと思ったのですが…。

ここんところ、ちょっと瞑想が気持ちいいので調子に乗っていた節があって、そういうときにこうした出来事が起きて水を差してくるんだなと。

だいたい瞑想して血圧が上がるなどという話しは、聞いたことがありません。むしろリラックスすることで血圧は下がるはずなのに。

ムカついたので、夕べ3本立て続けに映画を観てやりました。勿論、ネットでですが。でもやっぱり、瞑想しないと気持ちが悪いんですよね。

血圧の高い何とも気持ち悪さと、瞑想の気持ちよさが相まって、もうそれをどう感じたらいいのか訳が分からない状態になってしまいましたが、瞑想はやめられません。

どんな邪魔が入ろうと、死ぬまでやりつづけてやる!!っと、ほどほどに思ったのでした。

「個人病」という病魔

昨日のブログで、誰のマインドも正常に狂っているというお話しをしました。正常に、という真意は、それが私たちのマインドの通るべき当り前の状況だからです。

マインドが患っている病気とは、自分という個人がここにいるということを固くかたく信じてしまった、そういう病態です。それは誰もが一度は罹って、多くの人たちはそのまま死んで行くのです。

その病気は、太古の昔から脈々と伝わってきた伝染病のようなもので、何人と言えどもそれに抵抗することはできなかったのです。そしてそれは、決して悪いことではありません。

その「個人病」に罹らなければ、私たちはこの社会の一員として生きていくことすらできないのですから。仮に、この個人病を免れた人がいたとしたら、彼は精神病棟行きになるはずです。

彼は誰よりも真実を訴えることでしょうけれど、そんな言葉は誰にとっても戯言にしか聞こえないのですから。だから個人病はマストなのです。

ただし、この病気があまりにも現代の人類にとっては、荷が重い状態まできてしまっているようです。もっともっと素朴な時代には、その病魔から抜け出せる人が沢山いたのです。

それが今は末期的状態まできてしまって、人類は追い詰められてしまった感がぬぐえません。どのニュースを見ても、神は人類についてもうあまり期待していないのかもと思わざるを得ない状況です。

インドで産声をあげて、中国を経由して日本にやってきた禅は、この私たちの国で花開くことになったのですが、それも今となってはほとんど消えかけてしまいました。

それを挽回する意味で、私のようなド素人でも、瞑想をするような状況がやって来ているのかもしれません。そんな大そうなことを考えなくても、自分ができることをコツコツしていくしかありませんね。

マインドは正常に狂っている

あなたは、この世界を見る。この世界において、誰が誰よりも素晴らしいのか、誰が誰より劣っているのか、どちらがより美しいのか、より醜いのか、どちらがより価値があるのか…。

ところで、このようにあなたが見ている世界とは、実はあなたのマインドの中にあるこの世界の像を見ているに過ぎないということには、気づいていない。

実際の世界には、あなたが見ているようなどんな比較も存在しない。比較が存在するのは、あなたのマインドといういかにも小さなその世界の中だけの話しだ。

だからあなたのマインドは狂っている。あなたのマインドが正気になることは決してないと言わねばならない。なぜなら、マインドとはそうした世界の像をネタに比較することでしか、存続できないものだから。

それがマインドのやり方だし、マインドはそれでしか生きることができない。だから、あなたのマインドは正常に狂っているとも言えるのだ。

その狂ったマインドこそが、人類の長い戦争の歴史を生み出し続けている張本人なのだから、いくら戦争反対を声高に叫んだところで、お門違いというものだ。

そして、この世界のすべての人のマインドが同じように狂っている。どれもこれも、独自のやり方で世界を歪んで映したうえで、そこに比較を持って来る。

それがマインドの本来の姿だということに気づく必要がある。この社会に組み込まれて、ごく普通に人生を生き抜いているすべての人のマインドが正しく狂っているという事実に…。

だから、もしもあなたが本当に正気に戻りたいのなら、あなたのマインドから抜ける必要があるし、実際そのことこそがこの生で課せられた私たちの唯一の命題なのだ。

それ以外の何かに欲望があるなら、マインドは生き続け、結果として人類の殺し合いはなくならないと思わねばならない。

瞑想しながらのブログ

今日は、伝わらないだろうけれども実は特別なことをしています。

それは、瞑想しながらこのブログを書いています。

文章を書くということは、勿論思考を扱うことなので、

瞑想をしていても、それを中断してからブログに取り掛かり、

書き終わってからまた瞑想をするという習慣がありました。

けれども、今日はその習慣を破って、瞑想のさなかでありながら書いています。

これ、自分としては初めての経験。ちょっと油断すると、瞑想からぬけてしまいそうになります。

だから、すごくゆっくりと書いているのです。

今朝、サウナの中でもできたので試してみたくなったのです。

注意深くやれば、できないことはないと分かりました。

ただし、内容はやっぱりつまらないものになっちゃいました(笑)。

以上、ご報告!