病みつきになるほど面白い

今という質の中に身を置く練習をしていると、そのうち「あ、これこれ!!」という感覚になる。決してうまく言葉では表現できないのだけれど…。

敢えて言えば、すべてが完全に静止してしまったかのような感じ。勿論本当に静止しているのではないけれど、それに合わせて自分の身体やマインドも静止したかのようになる。

これって一体何なのだろう?と思っていたのだけど、たぶんこの動的な世界の背景に気づいた状態なのではないかと見ている。

この世界とは、その背景の上に起きている現象だと思えばいい。現象は常に動きがあり、だからこそそこには時間の流れというものがあるかのように見える。

けれども、その現象を支えている背景は何があっても微動だにせずに、ただそこに在る。その背景には時間というものがないのは当然のこと。

そしてその背景と一つになることができれば、完全に静止して、完全なる静寂がそこに在ることに気づくはず。私の場合には、まだ不完全極まりないけれど、それをほんの少し味わっているのかもしれない。

瞑想は面白いし、興味が尽きないのは、いろいろな面を見せて楽しませてくれるから。自分がいなくなる現象をあきらめたら、その代わり罪滅ぼしのように別のものを見せてくれるようになった。

今はこれに病みつきになっているところ。

「待つ」という質

男性性は攻撃的であり、女性性は受容的である。

「待つ」という質は、その受容性の中に含まれている質であるということができる。

古い時代を紐解いても、探究者の多くは男性であったような気がする。だからとても難しいのだ。

探究は男性性の中にある攻撃的な面を持ちながらも、土台の部分には「待つ」という女性性を欠くことができない。

それは、ちょうど眠ることと同じ質を持っている。私たちは、眠るための準備はあれこれとすることができる。

実際できることと言えば、準備だけであって、直接自分を寝入らせることはできない。

準備ができたら、あとは眠りが訪れるのをただ待つだけだ。

真理の探究にも同じことが言える。

私たちには、真理に対して直接的にできることは一つもない。ただ待つだけだ。

「待つ」という質を忘れるなら、探究が成就されることはない。

そうした探究そのものが、真理への障害となってしまうからだ。

実は、期待せずに待つということの中にこそ、真理への誘いが含まれているのだから。

一瞬一瞬を感じ切る

一瞬一瞬を感じ切る

何一つ逃さないように細心の注意を持って

考え事などしている暇がないくらいに

全身全霊でその瞬間を味わい尽くす

そうすると、まず始めに身体が死体のように動きが止まり

その後更にマインドの動きも止まる

マインドというのは、内面の動きのことなので

止まればマインドは消失してしまう

そうして、瞬間と瞬間のひだの奥深くへと

入っていく…

死んだら目が醒める?

私は子供の頃から、死んだらどうなるんだろう?ということをよく考えていました。子供らしくない子供と思われがちですが、子供は大抵そんなことを人知れず考えているものですね。

で、ある時から、死んだらきっと目が醒めるんだろうと漠然と思うようになっていました。子供の頃によく高熱を出していたのですが、うなされながらも汗をかきながら寝て起きたときに、親が見ていてくれたという印象があるのです。

「目が醒めた?よく寝ていたね。もう大丈夫だよ!」と言われたような気がするのです。その嬉しい安心感と何か同類のことが死んだら起きるような気がしていたのです。

「すごくうなされていたようだけど、もう夢から醒めたのだから、お前は大丈夫だよ」そんなことを言ってもらえるような気がするのです。

だからといって、この世界が丸ごと夢だとは言いませんが、何となくそんなニュアンスになるのではないかという感じがどうしてもしています。

そして、最近ではそれがある種の確信のようなものになってきたように思うのです。死んだら正気に戻るというのか、人格を持った個人だという自己像が一瞬のうちに死んだら崩壊するのです。

そうやって、誰もが例外なく本来の自分の姿へと戻っていくということです。肉体が死ぬ前に覚醒してそれを体験してしまう人もいるでしょうし、そうでなくても死ねば真の自己を思い出すということです。

輪廻しているように見えるのは、肉体が滅びた人たちのマインド(記憶の束)が拡散していく結果でしかありません。だから、もしもあなたが何らかの過去世を思い出すなら、それはあなたが受け継いだ誰かの記憶なのです。

あなたの魂が肉体から肉体へと移っていくということではありません。魂という微妙な表現があるのは、エゴが苦し紛れに作った想像上の自己としか、言いようがありません。

死ぬ前に覚醒するか、死んで覚醒するか、どちらでもいいということですが、どうせ覚醒するなら早めに覚醒して、少しでも苦しみを短くしたいと思うのは、当然かもしれませんね。

いることは緊張だ

osho の講話録を読んでいたら、とてもシンプルで素晴らしい言葉を見つけたので、おすそ分けです。

いることは緊張だ。

いないことは安らぎだ。

あなたが消えたとたん、存在全体がその姿をガラリと変える。それゆえ、あなたこそが唯一の問題だ。もし自分の問題を溶かし去ることができたら・・・。それはつまり、自分自身を溶かすということだ。

だからあなたに救済は存在しない。ただ<究極>へと自分自身を溶かすしかない。そして、それほど偉大で、それほど尊く、それほど奇跡的なことはない。

輪廻のからくり

私たちが日々利用しているケータイにしても、テレビやラジオにしても、どれも電波と呼ばれる波動を使って情報を送っていることはご存じだと思います。

残念ながらというか、幸運にもというか、電波自体を私たちは自分の感覚ではどのようにしても感じることができないですが、この空中も自分の身体を貫通しながら、縦横無尽に電波が行き交っているわけです。

勿論電波は人工のものですが、それとは異なる波動もあると考えているのは、私だけではないはずです。それは今の所まだ科学では証明されてはいないのですが…。

たとえば、表面的には穏やかで笑顔の人であっても、対面しているとどこかで違和感を感じるということがあります。それは、相手の発するエネルギーの波動を感じているのだと思われます。

内側にしまってある怒りだったり不安だったり、そうした感情が発する電波のようなエネルギーを、私たちは確実に感じているのですね。

それは感情だけでなく、その感情とリンクしている思考にも言えることです。誰かの思念のエネルギーは、眼には見えないものの、空間をものすごいスピードで伝わるのだと思います。

人間が死ぬと、つまり身体が死ぬと、その人のマインドの持っているエネルギーは残存して、新しい身体を目指して飛んでいくのでしょう。

その人がどんな惨めな人生を生きてきたのかということと密接なエネルギーが、それに見合った二人の間に誕生する胎児の空っぽな記憶システムへと伝送されるのです。

それが輪廻と言われるものですね。あなたが死んで、あなたの魂がまた生まれ変わるように見えるのですが、実は魂というような個別の自己というものがあるのではないはずです。

私たちは肉体の死によって、あるいは光明を得ることによって、存在の中へと溶けていくのです。だから、あなたのこの生はとても貴重だということが分かりますね。

死後、二度とあなたがこの世に戻って来ることはないのですから。

後ろの正面だ~れ♪

昨日のブログで、「私」というエゴは人との関係性の中にのみあるのだということをお伝えしました。つまり、「私」は、自分を円だとすれば、その円周上にのみいるということになるのですね。

しかもです。対外的な世話をするのが仕事ですので、常に外側を向いているのです。ほんの少し前に、このことに気づいてちょっと驚いてしまいました。

常に、自分の内面を見る、内側を見るようにと意識していたのですが、そうしようと心がけている「私」はいつも外側を向いていたということです。

いくら頑張っても、「私」が内側を見ることができない理由はここにあったのですね。深く見れないだけかと思っていたのですが、単に外を向いていたために内側を見ることができなかったということです。

そして本当に都合がいいのですが、円の中心が見れないことをいいことに、そこには「私」がドッカと居座っているのだと思い込もうとしていたのです。

もしかしたら、円周上にいる「私」であっても、練習次第では外側に向いていた向きを反対にして、内側を向くこともできるようになるのかもしれません。

ただし、そうすると中心には誰もいなかったということがバレてしまうことを恐れて、向きは変えられないということにしてしまっているのかなとも思うのです。

実は、「私」がいなくなった経験をする直前に、自分の後方(といっても通常の後ろというニュアンスとは違うのですが…)にわずかに意識を向けるようにしたのを憶えています。

それが、もしかしたら中心を見ようとすることに偶然なったのかもしれません。見えた瞬間、そこには誰もいないと気づくだけでなく、自動的に「私」も消えてしまうということだったのでしょう。

「私」にとっては、後ろを向くことは命取りになると思っているのかもしれません。でも怖いもの見たさというのか、見えないと思うとどうしても見たくなるのが人情ですよね。

あなたの中心に「私」はいない

あなたが持っている自己イメージというのは、他人という歪んだ鏡を通して反射した自分の姿から出来上がっているのだということは、何度かお伝えしましたね。

そして、その間違った自己イメージを統括しようとの試みによって、でっち上げられたのが「私」(エゴ)というわけです。つまり、「私」というエゴは実は人との関係性の中でのみ生きることができるのです。

あなたという存在のまさに中心に「私」がいると思っているかもしれませんが、それは真っ赤なウソだったということになりますね。

あなたの本当の中心には、「私」はいないのです。「私」の唯一の居場所とは、自分以外の誰かとの関係の中にしかないということです。

だから、もしもあなたが長年無人島でまったく一人で暮らし続けるとしたら、そのうちにはあなたの中の「私」は薄れて行って、終いには息絶えることになるでしょうね。

理屈的にはそうなのですが、ところがその「私」とは非常にしぶといのです。何十年にもわたって、独りでヒマラヤで修行をして、有名になった行者がいたのですが、彼は自分のマインドに一点の曇りもなくなったと思ったらしいのです。

それで、下界に降りて来て、人々に教えを説いて欲しいと誰かに頼まれて、いざ下界に降りた途端に彼の中の眠っていた「私」が復活して、ただの怒れる人に戻ってしまったという話しを聞いたことがあります。

そのくらい、「私」が完全に落ちることは難しいことなのですね。独りで過ごしているときに、一時的に「私」が落ちる経験をするよりも、他人との関わりの中にいるときに、それが起きる方が難しいというのもうなずけます。

あなたの中の「私」が、どのような状態にあるのかを知るためにも、あなたは人と関わっていく必要があるということです。

そして繰り返しになりますが、「私」があなたの中心にあるわけではないということを、忘れないことです。あなたの真の中心は、空なのですから。

感じよくしようとするマインド

学生のときに、一人暮らしをしていたことがあったのですが、きっと時間はあるけどお金がないという環境のせいなのか、アパートの殺風景な部屋の中で、時々いろいろなことを考えていたのです。

その一つに、人と接するときに感じのいい人として振る舞うことに、どれほどの価値があるのかということを考えていたことがありました。

結局、自分が感じのいい人と思われようが、感じが悪い人だと思われようが、どちらにしても大したことではないということに気づいたのです。

単に、肯定的に思われた方が一過性の安心を得ることができるだけだと…。それは、誰かにとってトマトが好きか嫌いかという程度のことだと分かったのです。

それからというもの、他人にどう映ったかは別として、自分の意識の上では殊更に感じよく接するという努力を放棄してしまいました。

でもこれが意外に難しいのです。しばらくして気が付くと、また放棄したはずの気の使い方が戻ってきたりするのですね。とはいうものの、そのことに意識をむけて気づいていられるようになったことは大きかったかもしれません。

そうして自分の行いに注意深くいれば、過度になることは決してありません。その前に気づいて、適宜加減する余裕ができるようになるわけですね。

必要以上に感じよくしようとしてしまうマインドを見張っていることは、大切なことですね。毎日を爽快に過ごすためには、是非とも必要なことです。

そしてその先もありますよ。それは、そうした自分を丸ごと放っておくというやり方です。愛を持って放っておかれた自分というのは、私の経験上あまり変な方向には行かないようです。

よかったら、是非試してみてくださいね!

私」という思考の特別さ

もしもあなたがテレビを見ていて、おいしそうなスウィーツの紹介をしているのを知って、そうだ、明日私もそれを買って食べることにしよう!と思い立ったとします。

その思い立った内容というのは、思考であるということは明白なことですね。きっかけが何であれ、そのことを考えたわけですから。

で、瞑想というのは、そうした様々な思考(雑念などとも言いますが)を落としていくことなのです。たとえ、そうした雑念が浮かんできたとしても、それに捉われないでいようとするわけです。

毎日コツコツと瞑想を続けて行くうちに、気が付くとそうした雑念が湧いてこなくなるようになります。そうなると、マインドの中は本当に静かになってくれますね。

ところが、そんな感じでマインドが静かになったとしても、そこにはやっぱり私がいるのです。「私」という思考だけは、しぶとく残ってしまうのです。

瞑想に究極の目的があるとするならば、その「私」という思考も落ちて行くことなのです。ではなぜ、「私」という思考はそれほどまでに他のどの思考とも違うのでしょうか?

これは、私自身が感じていることなので正しいかどうかは定かではないのですが、「私」という思考が作られたときには、まだそれが充分に言葉と繋がっていなかったからではないかと思うのです。

ご存じのように、通常思考というのは100%言葉と連携しています。私たちが思考するときには、間違いなく言葉を使っているという事実があるのです。

思考は言葉であり、言葉は思考なのです。ところが、「私」がでっち上げられる頃の人間の状態では、まだ言葉を上手に使いこなすレベルにまで成長していないのです。

それが、「私」という思考がそれ以外の思考との大きな違いなのだと思うのです。だからこそ、「私」という思考はただ考えているというような感覚とは異なるのですね。

どちらかというと、考えることというよりも、「私」がここにいるという感覚になってしまっているはずです。だから、思考が静かになるというレベルでは、「私」はなくならないのです。

こうなったら、「私」を根こそぎにするためには、すべての希望、あらゆる欲望を落とすしか方法はないようですね。「私」が一過性に消えるような体験では、ほとんど何の変化も起きません。

かえって、「私」の防衛が厳しくなってしまうように感じています。切ないですね~。