思い通りにはならない

いつも夜11時くらいになると、ああブログを書く時間がまたやってきたなあと思うのです。それから、今日もネタがないなあと思いながら、しばし沈黙するのです。

で、何となくですがそれなりに文章を書いて0時0分にアップするように設定をして終わりにします。先日、セッションにいらしたクライアントさんがこう言いました。

ブログにする文章をストックしてあって、そこから毎日アップしてるのですか?と。実際そういうことができたらそうするかもしれませんが、そうもいきません。

書こうと思うことは、大抵その瞬間に思いつくことばかりで、前もってこれを書こうと思っていても、いざ書こうとするとすっかり内容を忘れてしまうのですから。

よし、今日のはなかなかいいじゃないの、と自画自賛しても、それほどの反応はもらえません。逆に、何の気なしに書いた大した内容じゃないね、と思えたものでも、思いのほか高評価をいただけることもあったりで…。

そういう意味では、自分がどう判断しているかということは、多くの場合に期待はずれで終わるのです。世のなか、そんなものなのかもしれないですね。

自分が気に入って書いたブログも中にはあるのですが、きっとどなたもそれを同程度に評価されることはないのでしょうね。不思議なものです。

けれども、本当に怠け者の自分が、何をやっても長続きすることのなかったこの自分が、こうして毎晩ブログを書き続けているのは、私にとっては奇跡的なことなのです。

きっと、どこかで好き勝手に書くことを悦びと感じている部分があるのでしょうね。そうでなければ、あり得ないことですので。

だからこそ、読んで下さる方が、一人もいなくなったとしても、きっと書くことがなくならない限りは、書き続けているのでしょうね。

思い通りにいかないことの苛立ちと、それを楽しむ両方を感じられるといいですね!

自分自身を直接見る

あなたは、あなた自身を直接見たことがないという事実に気づいているでしょうか?あなたは、本当には自分自身のことを何も知らずに生きてきたのです。

私たちが自分を知る唯一の術とは、鏡に映った自分を見るということです。勿論、その鏡とはごく一般的な手鏡のようなものかもしれないし、他人という鏡かもしれません。

生後2~3年の間は、手鏡はそれほど意味を成しません。私たちは、周りにいる家族という鏡を通して、自分自身を知っていくことになるのです。

その鏡が理想的な鏡であればいいのですが、それは100%期待することはできません。なぜなら、人はみんな自我という色眼鏡を使って生きているため、彼らが映し出したあなたの像はひどくでっち上げられたものだからです。

そのまさしく歪んだ鏡に映された自分の像を、そのまま自分だと想い込んで成長していくことになるのです。それが、自己イメージなわけですね。

私たちは、その自己イメージを本当の自分だと思い込んでいるだけなのです。だから、他人を通した自分の姿以外を知らないと言ったのです。

もしも一度でもいいから、直接的に自分を見ることができたとしたら、どうなるでしょうか?その前に、どうやったら直接自分を見ることができるのでしょうか?

五感という知覚を通して自分自身を見ることは不可能ですね。知覚が機能するのは外側にある対象に対してだけだからです。

鏡に映るあなたとは、本当のあなたでないのは明白です。鏡には映らない自分を求めて、深く深く探っていくしか方法はなさそうです。

そしてそこには、誰もいない!ということを知ったとき、それこそがあなたの本質、あなた自身を直接体験していることになるのですね。

感情と対面する

みなさんは、こういう経験をしたことはないですか?普段は黙って隠しているのに、その時には自分の本当の気持ちや想いを相手に言おうとしたら、冷静さを欠いてしまったということ。

ごく普通に穏やかに伝えたかったはずなのに、本音の言葉とともに隠していた感情、例えば怒りや悲しみが出てきてしまって、うまく伝えることができなくなってしまったという体験。

そのようになってしまう原因は、本当に言いたい言葉、相手にぶつけたい本音とそれに関連した感情の両方を、セットで抑圧しているからなのです。

自分にとって都合の悪い思い、言葉や気持ち、それにリンクされた感情というのはいつもセットになっています。だから、抑圧するときには片方というわけにはいかないのです。

そのために、言葉などの片方だけを表面化しようとすれば、私も出して欲しいとばかりに、感情も出て来てしまうというわけですね。これはごく当たり前の現象なのです。

ところが、あまりにも感情の方だけが耐え難かったり、命の危険があるような場合には、違った状態になることも例外的にはあり得るのです。

10年以上も前のことですが、セッションで子供の頃のことを思い出したあるクライアントさんが、自分でもびっくりしてこんなことがあったとお話ししてくれたことがありました。

それは、夜寝る前に布団の中で両親がどうやったら死ぬんだろう?ということを毎晩のように冷静に考えていたというショッキングな内容でした。

当時の本人は、そのことを不思議とも何とも思っていなかったというのです。それこそ、思考と感情が完全に分離された状態だったのですね。

つまり、殺意のような激しい怒りの感情を親に対して持っていると知ることは、子供にとっては過酷過ぎることだったのです。それは生きていくことを難しくしてしまうことだからです。

だから、感情だけを抑圧してしまったということです。催眠のセッションにおいても、過去に抑圧してあった本音(言葉)だけが出て来て、感情が抑圧されたままになるということがあるのです。

どれだけ感情を厳密に封印してしまったかが伺い知れるというものです。本当に人の心というものは不思議なものですね。

私の経験では、言葉だけであったとしても一度でもそれが表に出て来てくれさえすれば、後は感情が出て来るのは時間の問題だということです。

ひたすら隠してきた感情と対面することは、それは辛いことなのでしょうね。けれどもそうした場面は、表現は変かもしれませんが、本当に美しい姿なのですよ!

何かを否定する本当の理由

私たちは「否定」の世界で生きています。どんなものでも人でも、否定することがかなり好きなのです。互いに否定しあって一体何がそれほど面白いのか、考えたことありますか?

イエスというより、ノーと言った方が、相手に対して何だか優位に立ったような気がしませんかね?どうもイエスばかり言ってると、相手に支配されているような気になるというのもありそうです。

イエスよりも、ノーの方が負けてないというのか、自分をそれだけ守れたような気がするのです。何かを否定する本当の理由は、物心つく前の本当に幼いころに、周囲から否定されたからなのです。

なぜ幼い子供を親は否定してしまうのかと言えば、彼らも幼い頃にその親などから否定されたことがあるからです。周囲からの否定は、そのまま否定的な自己イメージが作られることへと繋がるのです。

その否定的な自己イメージを丸ごと信じてしまえば、その人は自分を肯定しようと頑張ることになるのです。けれども、否定的な自己イメージにさからって、単に自分を肯定することは至難の業です。

そのために、回りくどいやり方ではあるのですが、相手を否定することで自動的に自分を肯定しようとするのです。つまり、何かを否定する本当の目的とは、自分を肯定するがためだったというわけです。

そのことにしっかりと気づくことが先決ですね。そして、理不尽に作られてしまった否定的な自己イメージを客観視することで、自己イメージへの自己同化から抜けるのです。

そしてどんな自分であろうとも、あるがままを受け止めることができれば、わざわざ何かを否定しようとする原動力そのものが消えて行くことになるのですね。

もしもあなたが、誰かや何かを否定せずにはいられないのなら、否定的な自己イメージから解放されるように努力することが最も得策なのです。

間違っても道徳的な自分を目指そうなどと画策しないで下さいね。

自然とともに流れる

素晴らしい osho の言葉を、シンプルに受け止めちゃいましょう!

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受容とは、「それが何であれ、全体の意志があなたを通してなるものになるように」ということだ。

戦わないこと。

全受容の法は、単純に自分自身を受け容れること、そして自然があなたをどこに導こうと、自然とともに流れることだ。

外側の成長、発展は不満足に由来し、内側の成長は満足に由来する。

「自分は膨大なる全体の一部に過ぎない。だから全体に従う。自分は全体と闘わない」それが満足なのだ。

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すべては繋がっている

今日もシンプルに書こうかな。

地球も含めて、この太陽系にあるすべての惑星は実は太陽から作られたということをご存じでしょうか?つまり地球は太陽の子供なのですね。

その地球上で生まれた生命体は、みんな地球の子供のようなものです。最初は水の中の藻のようなものから進化して、植物、動物、そして私たち人間が生まれました。

つまり、あなたの先祖は地球であり、太陽だということ!!

あなたの細胞の一つひとつは、太陽から出来ているということ。そりゃ、太陽の活動が私たちに重大な影響を与えるのも当たり前ってことです。

占星術がいろいろなことを当てるのも、そこから来ているのですね。あなたが生まれた瞬間の星々の位置などが、あなたのもっとも深い部分に刻印されたのですから。

で、一番言いたかったことは、すべてが繋がっているということ。自分はこの世界の中で孤立した存在だというまことしやかなでっち上げを信じているなら、それを放棄することです。

私たちは、そのことを「思い出す」必要があります。英語の remember とは、re-member ふたたびメンバーになるということ。つまり、あなたはこの宇宙の大切なメンバーだということを思い出せばいいのです。

今、自分は孤独だと思って落ち込んでいるあなた、この宇宙の大切なメンバーだということを思い出して!!

シンプルな主張

今日はとにかくシンプルに書きます。

自分を変えようとする努力をやめること

代わりに、自分を知ることに全力を傾けること

以上!!

スマホの病院、初体験

二年前に事務所を移転してから、とても手狭になってしまったためにそれまで使っていたパソコンを置くスペースがなくなってしまい、クライアントさんからの予約のメールはスマホに頼るようになったのです。

そういうわけで、今の私にとってスマホは仕事に欠くことのできないアイテムとなったのです。メールの授受だけでなく、カレンダーの更新その他なんでもスマホが必要になったのです。

それがとても便利なだけに、不具合が生じたときの打撃はとても大きなものだろうというのは、想像にかたくなかったのですが、実は数日前にそれが現実となってしまいました。

OSに付属のメールアプリが立ち上がらなくなってしまったのです。そうなると、考えられるどんな手段を試してみたところで、どうにかなるものでもありません。

仕方なく、生まれてはじめてスマホの病院のようなところに行ってきました。OSを再インストすることでどうにか問題は解消できたのですが、治るまでのドキドキ感は結構なものがありましたね。

スマホの病院で待ち時間40分ですと伝えられて、その時間スマホでもいじって待っていればいいやと思ったのですが、そのスマホを持っていかれてしまったときには、何もすることがなく、さりとて瞑想するような気分でもなく。

自分が毎日いかにスマホに頼って生活しているのかが分かって、ちょっと面白かったですね。これだけ頼っているのですから、普段からもう少しスマホに対して感謝の念を伝えておくことも大切なのかなと思ったのです。

人は何か問題が生じたときに、初めてその大切さを身に染みて味わうことができますね。日ごろ、いろいろな人に、そしていろいろなものにも支えられて、生活ができているということを再確認できました。

スマホを治してくれたお兄さんにも、ありがとう!

「桁外れな何か」を見る

注意深く、今この瞬間をとらえようとしていると、それに比べて普段のごく当たり前の過ごし方が非常に粗いものだということが分かります。

粗いというのは、意識レベルが低いということです。とても雑に瞬間瞬間を生きているということが如実に分かってくるのです。ああ、勿体ないなあと。

そうやって反省するのですが、またすぐにいつもの自分に逆戻りしてしまうんですね。そこには、無限とも言える言い訳が横たわっているのです。

誰かと一緒にいなければならないし、仕事をしなければならないし、食事をしなければならないし、運動をしなければならない等々、いくらでも出て来るのです。

だからこそ、一人静かにいられるときには全力を上げて、今この瞬間にいられるようにしなければいけないということです。意識は、私たちが思っている以上にもっともっと鋭敏に研ぎ澄ますことができるのです。

身体のあらゆる感覚を感じつつ、マインドの動きを監視しつつ、周りからやってくるあらゆる音に耳を澄まし、自分の呼吸のリズムを体感し、虚空を見つめるのです。

そうすると、周囲に見えているものの奥底に、隠された何かを感じるようになるはずです。それは、大きさも位置も形もなく、ただ在るという桁外れな何かなのです。

そこが目立ってくるのです。目の前に実際に見えているものはそのままにして、ただ在る何かにしっかりと注意を向けていると、粗雑な意識から何とも精細な意識へと遷移します。

瞑想するのとは違う、こうした方法もたまにはいいですよ。興味があれば是非試してみて下さいね。

自分の中心が降りて行く

確定申告の季節がやってきました。毎年一回、書類を作るという慣れない作業をした後は、どうも調子がおかしくなってしまうのです。

きっと、普段使わない頭の回路を使うせいで、瞑想もあまり心地いいものにはならないようなのです。だから、こうしたことに毎日携わっている方が、もしも瞑想ができないという状態であっても当然だと感じます。

エンジニアとして会社で働いていた時には、頭が論理的なものにフィットしていて、少し難しい文章でもそれほど苦労することなく読むことができたはずなのです。

ところが、会社員を辞めてすでに15年が経ってしまった今、自分の頭が論理に向かなくなってきているのをヒシヒシと感じるのです。

ちょっとした文章でも、読んでも読んでも理解できなくなっていて唖然とさせられるのです。どんどん白痴のようになってきてしまったと感じます。

普通に生きていくには特別不自由はないはず?なのですが、以前と比べた場合にはちょっと自分でも驚いてしまいます。

ルシッドというのは、実は頭脳明晰という意味もあるのですが、名前負けしてしまっているんです。その分、ハートは以前と比べて随分と開いた感じは確かにありますね。

クライアントさんとお話ししていても、ご本人はニコニコしていたとしても、何かが伝わって来て思わず涙が出て来ることもあるくらいなので。何?って顔されてしまうのですが…。

思考からハートへ、そしてもっともっとハートが開けば、瞬時に真のセンターへと落ちて行くはずです。それはちょうどお臍の辺りにあるようですよ。

つまり、頭から胸へ、そして胸から下腹部へと自分の中心が降りて行くということです。どんどんバカになり、どんどん無邪気になり、無垢でしかも意識的な状態へと遷移するのが理想なんですね。