朝の穏やかなひととき

最近の私の朝食は、(朝食とは言えないかもしれませんが)ヨーグルトと青汁を飲むことにしています。青汁は家人より勧められてですが、ヨーグルトは自発的に食べるようにしています。

幼いころは、ひどい偏食で卵焼きとヨーグルトしか食べないというのがあって、年齢を重ねてきた末に、またそこへ戻ったような感じかもしれません。

朝食の後、大抵は30分以上瞑想の時間にしていますが、どういうわけか個人的には夜の瞑想ほどは深く入れない感じがします。サラリーマン時代の、「朝は忙(せわ)しない」というのが、どこかに残っているのかもしれません。

今朝は、その毎日の瞑想後にこのブログを書いています。普段は夜中寝る前に書くのですが、昨夜はどうしたわけかネットが繋がらずに、アップすることができませんでした。

こうして朝書いた経験が今までに一度もないので、ちょっと不思議な感覚です。朝は常にぼーっとしているという習慣があるからかもしれません。

思い返せば、子供や学生の頃、そして会社員の頃を通して、ずっと常に朝というのは気分が塞ぎがちになる時間帯だったなあと感じます。

慌ただしいというのか、何かに急き立てられている感じがして、休日を除いて本当に嫌いな時間でしたね。それが、今ではこうしてゆったりと落ち着いた時間を過ごせるようになったのは、ありがたいことです。

私の場合は、45歳で会社員を辞めたときに、もう人生をリタイアした気分になっていて、一応今でも仕事をしてはいるのですが、半分くらいは余生を送っている気がしています。

自分はのんびり生きることしか、所詮できない人間なんだなあとつくづく思わされます。子供のころから、達成感が欠落していましたので、頑張っても内的なご褒美がやってこないのでした。

今では、そのおかげでなるべく過去にも未来にも意識を向けずに、今日を生きることができるようになってきています。その代り、ものすごく刺激の少ない人生になっていますので、お勧めはできませんが…。

腰痛のために先週控えていた水泳を今日からまた再開しようと思っています。これから、プールとサウナで至福の時間を過ごしてきま~す!

真実は体験できない

精神的な探求、あるいは真の自己探求とは、他のどんな探求とも根本的に異なるものです。なぜなら、それ以外の探求とは何らかの体験をすることだからです。

私たちは、この世界に生れ落ちてからずっと体験をし続けています。人生とは、体験し続けることであると言ってもいいかもしれませんね。けれども、自己探求とはいかなる体験もそこにはありません。

なぜなら、自己探求とはその体験するものを探求することだからです。したがって、瞑想は体験ではないということです。瞑想を体験するということは不可能なことなのです。

それなのに、自分が瞑想しているときには、身体がずっしりと異常なくらいに重くなってみたり、逆にどこか重力が軽くなったかのような感覚になったりと、それこそ様々な体験がやってきます。

そうした体験をしている限りは、それを真の瞑想と呼ぶことはできません。とても気持ちがよかったり、ごく静かで深みのある静寂を感じることもあるのです。

が、それもすべてはそうした体験をしているだけなので、それは瞑想ではないのですね。残念ですが、私という体験者はどこまでも執拗に存続するのです。

私の本質は純粋な意識であり、その意識に浮かんでくるものこそが体験なのです。意識が一時的に纏うもの、それが体験なのです。

そして本当の自己探求とは、その意識そのものを探求することなので、そこには体験というものはないのです。体験が無くなったときにこそ、時間も空間も消え失せるのです。

真実を体験することはできないのです。真の至福は体験ではありません。真の静寂も体験することができません。真実とはそれそのものだからです。

「生」にお任せ

生まれたときからずっと、あなたはあなたの人生の主役の座にいます。正確には、そう思い込んでいるだけだということを、何度もこのブログでお伝えしてきました。

あなたがあなたの人生を生きているのではなくて、あなたの中で「生」があなたを通して体験しているのです。それなら、あなたは何をしているのでしょうか?

本当は、あなたは何もしていません。ただただ自分が生きてここにいるという思考、思い込みを続けているだけなのです。あなたにできることは、ただそれだけなのです。

あなたという思考には、どんな力もありません。それなのに、自分の人生は自分の意志で切り開いていくべきと信じて奮闘しているのです。

当然、あなた固有の意志などというものと、「生」が起こす現象とが一致することなどありません。時には、あなたの意志通りに物事が起きることもあるかもしれませんが、それは一時の偶然に過ぎません。

次には、必ずあなたの希望は「生」によって裏切られることになるのです。だからこそ、私たちは常に苦悩と身近でいることになってしまうのです。

あなたがこうしたい、こうなりたい、こうであるべき、などを強く思っていればいるほど、いずれは「生」によってその傲慢な主人ぶりの鼻っ柱を折られることになるのです。

「生」はあなたという思考がどんなことを画策していようと、そんなことには一ミリも影響されることなく、ただ一瞬一瞬現象が創造される中に在るのです。

「生」のこの壮大な神秘を思考で解き明かすことなど、まったくの不可能なことです。私たちに唯一できることと言えば、その神秘にただ圧倒されつつ、それに明け渡していればいいのです。

「生」と闘えば、必ず負けることになるからです。闘うのを今すぐやめて、少しゆっくりしませんか?あなたが何をどう頑張ろうと、「生」は永遠の創造を続けるだけなのですから。

あなたには、どんな義務も責任も役割もあるはずもありません。あなたに与えられる手柄もなければ、どんな罪もあるわけではないのです。すべては、「生」次第なのですから。

それなら、あなたは「生」のお手並みをただ驚異の眼差しで見ていればいいのです。深刻になることもないし、もっと気楽にいればいいのですね。

反応と感応の違い

みなさんもご存じのとおり、コンピューターというのは非常に高速に様々な処理ができてとても便利なものですが、所詮はあるデータを入力してあげると、それに見合った一定の出力を出す単なる装置なのです。

最近のロボット型のコンピューターはもっと賢くて、同じ質問をしても次々と違う答えを返してくれて飽きない、ということもあるかもしれませんが、それでも厳密に言えば入力と出力の関係は完全に予想できるのです。

つまり、結果は100%予め決定しているということです。そこが私たち人間とは違うところだと考えられますね。なぜなら、今日あなたのことが好きと言われても、明日は嫌いと言われる可能性があるからです。

もっと言えば、人間のマインドの中には好きであると同時に嫌いであるという状態があり得るし、ほとんどの人のマインドは間違いなくその両方の要素をいつも抱えているのです。

少し話しがそれましたが、私は先日自分自身もまったくコンピューターのように一定の反応をしているに過ぎないのだということに気づいたことがありました。

ある人とある会話をしていて、この話しは以前にもしたことがあって、そのときと全く同じ反応を今回もしてしまったと気づかされたのでした。言葉も全くだったと思うのです。

このように、私たちの反応の仕方というものは、かなり予想がついてしまうものなのです。この話しをあいつに伝えたら、きっとこのように反応するに違いない、などと言ってバカにすることもあるくらいですから。

なぜそうなるのかというと、私たちの反応のほとんどは過去の蓄積がベースになっているからなのです。自分では意識していなくても、それまでのあらゆる経験や知識、あるいは考え方などを総動員して反応しているのです。

だから、1年前の反応と全く同じ反応をしたとしても、それほど驚くことではないのです。このように、反応が過去からやってくるとするなら、その人は過去に捉われて生きていると思って間違いありません。

それに対して、過去を一切使わずに、今この瞬間に応答が創造される場合、それを感応と呼ぶのです。だから感応はまったく予想することができません。

日々を感応しつつ流れていくなら、その人は生に逆らってはいません。闘うこともなく、生に明け渡しているとも言えるのです。

あなたの反応は、文字通りの反応ですか、それとも感応でしょうか?常日頃から、その違いに注意して自分を観察してみるといいと思います。

人を3派に分類する

血液型によって人を分類する占いのような方法は、世界的なものではなくてどうも日本などのほんの一握りの国で行われているだけのようですね。

血液型でも4つの種類があるので、人を3つの傾向に分類する方法があるとしても、結構大雑把だと思われるかもしれませんが、それでも以下のような分類が確かにあると思われます。

それは、肉体派、ハート派、マインド派の3つの傾向に分類する方法です。勿論、3つのうちのたった一つの要素だけの人はいないわけで、その3つの要素を持つ比率の違いが重要だということです。

なぜこんなことを言うかというと、私がブログでいつも瞑想がいいと書いている割には、クライアントさんの多くが、それほど瞑想を実践していないということがあるからです。

実は、瞑想を好むのはマインド派の人の場合ではないかと感じるのです。理屈好きでいつも思考によって知性的に生きていたい人は、その対極としての瞑想が適しているのでしょう。

また、ハート派の人たちと言うのは、常に感じやすい状態であって、理屈よりも感性を大切にするタイプなのです。彼らにとっては、瞑想よりも祈りが合っているかもしれません。

仏教では祈りのようなものがないのは、ブッダがマインド派だったからだし、キリスト教に祈りがあるのはイエス・キリストがハート派だったからなのです。

ハート派の人たちは、その感覚を研ぎ澄ませば、鳥や木々などともハート同士でコミュニケーションができるようになるのかもしれませんし、実際に動物と会話ができるセラピストもいますね。

そして、もう一つのタイプである肉体派の人たちは、既存のどの宗教にも興味を示さない代わりに、肉体を使いきることで素晴らしい境地へと行けるのです。

彼らはあまりじっとしていることを好まないかもしれませんが、肉体に没頭することでエゴが落ちる経験をすることができる人たちなのだと思うのです。

この3つのタイプのうち、自分がどのタイプに属するのかは、自分である程度判断するしかないでしょうね。そして、タイプが判明した段階で、それぞれ自分に適した方法を利用すればいいということです。

自己改善よりも自己受容

人は誰でも自分について、どこかしら不満を抱いているものです。それが、外面的なものであろうと、内面的なものであろうとです。

セッションで、自分の性格を直したいと訴えてくる方は結構多いのです。あるいは、今抱えている不自由さを少しでも直して、生活全般を改善したいと思っているのです。

そうした欲求がなければ、誰もセッションを受けになど来ないはずですね。ところが、この自分を何とかして改善したいという思いは、まさしくエゴのものだと言えるのです。

エゴとは、決して満足することのないマインドの性質なのです。いつも何等かの不満を抱えて、今日よりも明日、明日よりも明後日に何か変化があるかもしれないと期待しているのです。

つまり、エゴの「自分を改善したい」という欲望があるからこそ、このセラピストとしての仕事が成立するということになるのです。その意味で、エゴは私にとって必要なのです。

私は、エゴの欲求を用いて、クライアントさんの癒しをヘルプするのです。そうしたエゴの意欲をうまく利用することで、クライアントさんは癒しを継続してくれるからです。

けれども、どこかの時点で、自分を癒して改善していこうという思いこそが、エゴの中心的な欲望に違いないのだということをお知らせしなければならないのです。

この世界で唯一不要なものがエゴだからです。エゴを用いて癒しを進めている間はいいのですが、それはいずれは収束させていかなければならない運命にあるのです。

それがいつになるのかは、クライアントさんごとに違ってくるのでしょう。それは私が判断するようなものではなく、自動的にそのような流れがやってくるのです。

癒しの本質は、自己改善ではなくて、自己受容なのだということに気づくことなのです。それに気づいて、自分を徹底的に受け止めることができるようになれば、あなたは自分を観照することができるようになるのです。

それこそが真の癒しであり、真実に気づくことこそがあなたに与えられたこの生での役割なのです。

弱さの勧め

辛いぎっくり腰の痛みを少しでも緩和できたらと思って、ハリ治療に行ってきました。以前にも二度ほど行ったことがあったのですが、フットワークの悪い私が、比較的早めに行動できた最大の理由は、事務所と同じマンション内にあるからなのです。

そのハリの先生に以前から言われていたのですが、「大澤さんは非常に敏感なので、一番細い針を使ってるんですよ~。それでも、そんなに痛いのですね~。」

いいえ、ただ痛いだけではなくて、次にどんな痛みがやってくるだろうという恐怖感が大きくて、体中に冷や汗がたっぷり出てしまって、結構カッコ悪いのです。

先生も半ば笑っている感じで、しかしこっちとしては本当に奥深い痛みがズシッとやってくるので、自然と身体に力が入ってしまうのです。ただし、痛い方が確かに効いている感じはしますね。

自分でも弱いなあと思うのですが、でも弱さとは言いかえれば大切な感性が豊かであるとも言えるのです。弱さとは柔らかさをも伴いますね。

身体が固くなっている人には、もっともっと太い針を使うそうです。それでも、痛がらないのだそうで、自分とのあまりの違いにびっくりしてしまいました。

身体が固くなっている人は、人生と闘っている人です。身体の固さは、内面の固さにも影響しているはずです。闘っていればそれだけ恐怖も大きくなるので、防衛も強力になるのです。

そうなれば、それだけ心の鎧は固くて重いより頑丈なものが必要となって、安全ではあるけれど軽快な人生とは言えなくなってしまいます。

弱くて柔らかいということは無防備で受容的であるということであり、強くて固いのは防衛的で頑なであるということです。もしもあなたのハートがフルに開いているなら、きっと多くの痛みを感じるはずです。

それが自分のものでも他人のものであっても。それが、肉体的な痛みであっても、心理的な痛みであろうとも。だから、痛みそのものは決して悪ではありません。

でもやっぱり、早く痛みが去って行って欲しい!今、これを書いていたら痛みを忘れてました。それと、大分楽になってきた感じがしてます。やった~!

エゴは成し遂げ屋さん

無邪気に遊んでいる子供の心には、何の目的もありはしませんね。子供には、何に価値があるとか、明日どうなるなどの思考が明確にはないのです。

ところが、人は成長するにつれて、何をするにもそこに理由が必要になるのです。つまり、何かのため、何かを成し遂げるため、目標を達成するためなど…。

その成し遂げたことにどれだけの価値があるのか、どんな素晴らしい意味があるのかということを常に気にするようになるのです。それがエゴなのです。

エゴは成し遂げ屋さんなのです。人の心の中にある野心とは、まさにこのエゴの成し遂げ屋のエネルギーが活発な状態であるということなのです。

その野心が、俗物的であろうが、流行りのスピリチュアルなものであろうが、そこには何の違いもありません。株で大儲けしようとすることと、崇高な人格になろうとすることは、どちらも成し遂げ屋のパワーなのです。

まだ野心が俗物的な欲望の方に向いている場合には、本人もそこにエゴが見え隠れしているという自覚があるので、自体は単純なのです。

一方、スピリチュアルに目覚めた人が成し遂げ屋として活動している場合には、なかなか厄介な状態であると言えるのです。なぜなら、本人は一向に自分の原動力がエゴであるとは気づかないからです。

スピリチュアルな欲求は清いものだと思ったり、気高い志しで人を助けようと画策してみたり、自分は愛の塊りだとばかりに、人類の救世主になろうとしたり…。

逆に、あなたがどんなことをしようとも、あなたの日々の活動の中心にあなたがいなければいいのです。自分の活動をただ見ている自分であればいいということです。

もしもあなたが人生の牽引者であったり、リーダーシップを発揮しているのなら、要注意なのです。自分の中に潜んでいる、成し遂げ屋にいつも気を付けていることですね。

成し遂げ屋として生きて、満たされるということは原理的に不可能であることを忘れないことです。

一生の不覚かも

実は数日前にぎっくり腰になってしまい、ちょっと辛い毎日を過ごしています。スポーツクラブのお風呂の中にある、水風呂からあがった瞬間にそれはやってきました。

最近ちょっと疲労気味だなという自覚があったし、若いころから腰はあまりよくない状態だったので、それとなく注意はしていたのですが、やはりやってしまいましたね。

中学生の頃、部活でバスケットボールをやっていたからなのか、時々腰痛の自覚があったのです。高校に入ってそれが悪化して、医者でレントゲンを撮ってもらったら、背骨の中のどれかが一つ足りない?的な言われ方をしたことがありました。

何でも構造的に、腰痛持ちになりやすいのだとか。けれども、ぎっくり腰を初めてやったのは、45歳を過ぎてから。つまり、今の仕事をするようになってからなのです。

それがある程度はもう、クセになってしまっているのかもしれません。一昨年の12月にもなった記憶がありますし、その少し前にもなって、結構つらかったのを覚えています。

あの時には、ちょっとストイックなくらいに自分に意識を向ける作業をしていたので、心理的な原因はそこにあったと思っています。

今回ももしかしたら、心理的な要因は瞑想をやり過ぎているからなのかもしれないと思っています。あまりにエゴが嫌っていることをやり過ぎると、しっぺ返しを食らうのです。

まだまだエゴの力はそれほど衰えてはいないようです。とはいうものの、腰が痛いくらいで大好きな瞑想をやめるわけにもいきません。

勿論、それなりに続けてはいるのですが、やはり?と言うのか、いつものあのフワ~っとした感覚がなかなかやってきてくれないのです。

私的には、あれはきっと脳内に快感物質がドバっと分泌された瞬間なのだろうと推察しているのですが、もしかしたら腰の痛みを緩和するために快感物質が使われてしまって、脳の方に回ってこれなくなっているのかなと。

いずれにしても、何があっても瞑想は続けていくのです。あれほど全的にくつろげるスペースは、他にはないからです。あの暗闇に溶けていく感覚は、なにものにも代えがたいのです。

よく酒飲みが、お酒を飲めない人に向かって、それは一生の損だとうそぶくことがありますが、同じように瞑想の習慣のない人に向かって、瞑想の静寂を知らないなんて、一生の不覚だと言いたいですね。

ルールをそっと脇に置く

私はこうして毎日ブログを書いているくせに、他の人のブログやホームページその他のものを読みに行くということがほとんどないのです。傲慢というのか何というのか…。

ミクシィにしてもフェイスブックにしても、はたまたツイッターにしても、自分にとって都合のいい記事だけを拾い読みする程度で、他の人がそこでどんなことに興味を持ち、何を伝えたがっているのかということに無頓着なのです。

結局のところ、自分のブログをアップするためだけに使っているわけで、早晩そうしたSNSやツイッターなども、そのうちにはまったく使わないようになるのだろうと分かるのです。

マメさが欠けていると言ってしまえばそれまでなのですが、どうも元々が人との関係性について、あまり貪欲なものを持っていないのだろうと感じています。

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、友達があまりいないということを否定的に捉えている人がいますが、私も特別に親しい友人というものがいません。

仕事を絡めずに会う人がまずいないと言った方が当たってるのです。それでも、少しも不自由を感じているわけでもないですし、恥ずかしくも感じません。

年賀はがきを自分から出すということもほとんどしなくなっていますし、人の関わりの希薄さに今更ながら驚きます。けれども、人生にはこうでなければならない、というルールなどはないのです。

この社会のルールを無視していいのかとか、人との間の義理を欠いていいのか?など、勿論全く考えないわけでもないのですが、結局そういうことをいくら考えたところできっと長続きしないのですから仕方ありません。

最終的には、自分がどうしたいのかということに行きつくわけです。自分の自由をできるだけ尊重したいのですから、あとのことは何がやってきても受け入れるということですね。

最期に息を引き取るときにも、誰かに看取られる必要も感じていないので、どこかで野垂れ死にすることになっても、いいのかなと思っています。

あなたの人生がいくら価値あるものだとしても、究極的には一つの物語でしかないのです。そのことに深い理解があれば、きっと人は孤独を愛することができるのだと思うのです。