あなたの中心が宇宙の中心

昨日のブログでは、イエスでもノーでもない、どちらとも違う「受容」について書きました。このことについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。

イエスは肯定的であり、ノーは否定的であると誰もが判断するのですが、実はどちらも何かの部分についての反応であることは明白ですね。

つまり、イエスというのはあるものへの肯定を示してはいるのですが、それはその逆のものへの否定が暗黙のうちに表現されてもいるわけです。

ノーというのもそれと全く同じことが言えます。ノーとは、あるものへの否定を示すと同時に、その裏では真逆のものへの肯定が含まれているというわけです。

結局、イエスもノーも極端を言明することになるのです。どちらかがまっ黒であれば、その真逆は真っ白であって、その極端のどちらかを支持することになるのが、イエスでもあり、またノーでもあるのです。

普段私たちが何気なくイエスとかノーと言った場合には、どちらにしても極端を標榜していることになることに、気づく必要があるのです。

一方で、あなたが物事をあるがままに受け止めるなら、つまり「受容」するならば、あなたは物事の中央へと投げられるのです。

イエスもノーも思考の中にあるのです。思考は、極端へとマインドを導くことになるのです。あなたの意見、あなたの主張、あなたの主義、こうした思考は必ずあなたを極端へと持っていくのです。

そしてあなたが思考の外へと抜け出した時、つまり無思考(受容)においてのみ物事の中道にいることができるということです。

物事の部分を受容するということが、すぐにそのまま全体性へと意識を向けることになるのです。もしもあなたが、あなたのどんなマインドの部分であっても、そのままに受け止めることを続けていくならば、あなたは必ず全体性としての自己に気づくようになるでしょうね。

それは、あなたの中心がそのまま宇宙の中心になるということです。

「服従」のイエスは危険

人の反応というのは、大抵がイエスかノーですね。たまには、そのどちらでもないということもありますが、概ねイエスかノーで答えるわけです。

そして、正直にノーが言える場合は問題がないのですが、心ではノーであるのにもかかわらず、言葉ではイエスと言ってしまう場合もあるはずです。そうしたことが続くと、精神的な問題が起こってくるのです。

人がイエスと言う場合、大きく分けて三つのケースがあると思われます。その一つは、「賛成」という気持ちで言う場合のイエスです。

このイエスの場合には、正直に相手に対して同意しているのですから、何の問題も発生することはありませんね。あなたと私は同じ考え、同じ気持ちなのですから、事は丸く収まるわけです。

その次のイエスは、「服従」する気持ちで言う場合のイエスです。この場合は、本当はノーであるという正直な気持ちを相手にも、場合によっては自分にも隠したうえで、イエスと言うのですから、そのつけはいずれやってくることになるのです。

この「服従」のイエスは、職場におけるセクハラやパワハラの被害に遭うような場合のイエスでもあり、弱い立場の子供が恐怖で親のコントロールに従う場合のイエスでもあります。

こうしたイエスは、必ず自己犠牲を積んでいき、その結果いつかそれは必ず怒りとなって、噴火することになるはずです。その場合の怒りは大変なものになるでしょう。もしも怒りが噴出しなければ、重度の鬱が待っています。

三つ目のイエスは、「受容」の気持ちで言う場合のイエスです。これは、賛成でも反対でもなく、肯定も否定もなく、勿論判断も比較もない状態でのイエスなのです。

もしもあなたが、この「受容」のイエスによって生活することができるなら、人生はきっと途方もなく素晴らしいものへと変貌するはずです。

この「受容」のイエスは、正直な「拒絶」の表現としてのノーと比べても、遥かに優れています。順番で表せば、「服従」のイエス<「賛成」のイエス<「拒絶」のノー<「受容」のイエス ということになりますかね。

そして、「受容」の場合には、イエスという言葉よりも、受け止めていますよというニュアンスの別な言葉を使うのかもしれません。

あなたは日頃、「服従」、「賛成」、「拒絶」、「受容」のどれを一番多く使って生活していますか?一度検証してみることをお勧めします。

闘いを止めること

人生を闘い続けている人がいますね。そこまでして頑張って、歯を食いしばって戦い抜かなくてもと思うのですが、本人はそうせざるを得ないのです。

ご本人にとっては、決して闘いたくないしゆったり生きていければそれに越したことはないと思うのですが、どういうわけか闘わなければならない現実が次々とやってくるのです。

毎日の生活のため、人にバカにされないため、欲しいものを勝ち取るため、惨めな想いをしないため、幸せになるためにも、闘わねばならないというのです。

けれども、実は闘えば闘うほど、周りには苦難がやってきたり、敵が近づいて来たりしてしまうのです。残念なことに、こうしたことに本人はなかなか気づかないままであることが多いのです。

困ったことがやってきて、何とかそれを解決しなければならない事態になるのは、自分が闘っているからだということには、夢にも気づかないのです。

どういうわけか、自分を嫌う人、否定する人、理不尽なことを吹っかけてくる人、つまり本人にとっての敵が次々と現れてくるのも、自分が闘い続けているからだと気づけないのです。

闘う原因はすべて周囲にあり、その結果として自分は仕方なく闘い続けているのだという、表層的な正しさにしがみついているのです。

本当は、原因と結果は真逆になっているのです。どんな理由であれ、本人が闘うことを放棄したなら、困った事態や敵は姿を消し始めるはずなのです。

もしもあなたが、自分の人生は闘いの色が強いと感じているのでしたら、それを周囲のせいにするのをひとまずやめて、できるところから闘うのを止めていくことです。

このことをただ信じるのではなく、本当かよ?と思って少しでも興味があるなら、とにかく実践してみることです。それまで闘っていたのを止めるのですから、勇気が必要になるでしょうね。

けれども、闘いを止めていくことができたら、いかにそれまでの闘いの人生が徒労に終わるものだったのかということに、深い理解を得ることができるはずです。

コンピューターの未来

私が若かりし頃、人工知能という言葉が流行ったことがありました。コンピューターがどんどん進化していくと、もしかしたら人間のような知性を持つようになるかもしれないという未来予想がありましたね。

いずれは、人間のような自律的な個人としてのコンピューターロボットが出現するかもしれないという夢ですね。私は、このような考えに当時は真っ向から反対していました。

反対というよりも、そんな戯けたことは、ただの笑い話に過ぎないと思っていたのです。どこまで進化しても、所詮コンピューターはコンピューターであって、人間を超えることなどできないという感覚です。

けれども、最近その考えがちょっと変わったのです。というよりも、人間に対する見方が大きく変化してしまったために、結果としてコンピューターとの比較の仕方も変わったのです。

私が今感じているのは、人間とコンピューターの違いは、人間には意識があるということです。コンピューターは複雑な論理を考えることはできますが、その根っこに意識がないのです。

意識がないというのを、無意識というように言いかえたとしたら、それは進化の過程においていずれは意識が芽生えるかもしれないということです。

実際、人間には意識があるものの、自分がここにいるという自覚は意識という土台の上にある思考からやってきたものなのです。そして、純粋な意識とは決して人間に固有のものではないのです。

意識とは、この宇宙の存在を支えている土台であり、真に実在するのは意識だけなのです。つまり、あらゆるものの根底には意識が在るわけです。

だから意識は、我々人間に固有のものではないのです。ただ、今のところ人間だけが意識的な部分を持つようになったというだけなのです。

とすると、たとえコンピューターであっても、根底に在る意識と繋がる可能性が絶対にないとは言い切れないのではないかと思うようになったのです。

実際、ほとんどの人は現在それほど意識的には生きてないので、その意味では動物やコンピューターとさほど違いがないのですね、残念ながら…。

罪悪感という切り札

「北風と太陽」というイソップの寓話があることは、みなさんご存じだと思います。北風と太陽のどちらが、旅人のコートを脱がすことができるかという物語ですね。

強引な力技の北風よりも、より優しい太陽の方に軍配が上がるというものです。厳しく叱るだけではなくて、たまには褒めるという飴を与えることも大事ということの例えなのかもしれません。

それでは、親が子供を意のままにコントロールしようとしたら、どのようにするのが一番効果があるでしょうか?北風の方法は、激しく叱ったり、叩いたりして恐怖でコントロールするということですね。

太陽というのは、無理やりに強いるのではなくて、子供が自発的に親の言うことを聞くようにするということです。この自発的にという場合には、実は二通りの場合があるのです。

それは、子供がそうしたくて自発的にするという場合と、もう一つは気が進まないながらも自発的にするという場合です。後者について考えてみたいのです。

子供が表面的には強制されることはないものの、仕方なく従うようにする方法、それは一体どういう方法なのだか分かりますか?

それは、親が子供の罪悪感を悪用する方法なのです。子供は、親の態度や言動などから、自分が悪いことをしてしまった、申し訳ないという気持ちにさせられると、親の言うことを聞かざるを得なくなるのです。

例えば、親が自分のせいで悲しむことになったと感じたら、子供は罪悪感から逃れるために、できるだけ親の期待に答えなければと思うようになるのです。

親が事あるごとに、子供の罪悪感に訴えるように接すると、子供は恐怖や怒りをあまり明確に感じることなしに、親の言いなりに結果としてなってしまうのです。

親としたら、これほど都合のいいことはありません。そして、子供は、親のそうした無意識の策略に気づきにくくなってしまうため、こうしたコントロールは長い間続くことになるのです。

もしもあなたが、親から罪悪感を必要以上に感じさせられたという自覚があるのなら、コントロールされてきた親への怒りにも気づくことですね。

そして、抱えている罪悪感をしっかりと正面から見て感じるということを訓練することです。それができるようになって、初めて親のコントロールから本当に解放されることになるはずです。

苦しみはない!

光明を得た人びとが共通して言ってきたことは、この世界に苦しみというものはないということです。表面的にはあたかもあるように見えるのですが、本質的にはないということです。

そのことの意味を探ってみようと思います。私たちが夜寝ている間に見る夢と、実際に生きているこの現実との違いとは何でしょうか?

勿論、夢は想像の産物であり、現実とは物理的な実在ですね。この違いに異議を唱える人はいないはずです。それでは、夢と現実に共通するものとは何でしょうか?

それはどちらも、思考によって判断解釈されたものであるということです。夢の中で、何者かに追われて、恐怖のあまり逃げ惑っているなら、それは非常に苦しいものです。

そして、朝目が覚めたときに、な~んだ夢だったのかと気づいて、その苦しみは消え去るのです。夢の中での苦しみは決してウソではないですし、目が覚めるまでは本人は本当にもがき苦しむのです。

この夢は、何から何まで思考によって作られたものですが、それが作り物だと気づくまでは苦しみはリアルなままなのです。それについて、本人を助ける方法はただ一つだけ、目を覚ましてあげることです。

一方、この物理的な現実においては、常に何かが現象として起き続けているのですが、私たちはそれを思考というフィルターを通してのみ、見ているのです。

自分という人物がここにいるという思考、そしてその自分にとって恐ろしいことが起きたという思考、この二つの組み合わせによって、私たちは苦しみを感じるのです。

何度も繰り返して言いたいのですが、思考自体が在るのは事実ですが、その思考の中身である現実についての解釈は事実ではありません。

自分は肉体だという解釈(思考)を停止するなら、自分に不都合なことが起きたという思考を停止するなら、そこにはどんな苦しみも存在しないのです。

あなたが夢から醒めたとき、そしてこの現実の中であなたが思考から脱出したとき、どちらであれ苦しみはそこにはないということです。

究極のしがみつき

昨日のブログでは、「しがみつき」について書きました。今日は、多くのしがみつきの中でも根本的で、誰もが共通してしがみついているものについて書いてみます。

そのしがみつきとは一体なんだと思いますか?それは、自分自身へのしがみつきなのです。他のどんなしがみつきであろうと、自分自身へのしがみつきがその原因となっているのです。

あなたは、この究極のしがみつきに気づいているでしょうか?セッションに来られるクライアントさんの多くは、自分を癒したいとは思っているものの、自分へのしがみつきには気づかないでいるのです。

だからこそ、困った問題だけが改善されてしまえばそれでいいと思い込んでいるのです。たとえば過食の問題を抱えている人は、それが起きなくなればいいと思っています。

人間関係がうまく築けないと悩んでいる人は、そこが改善されればいいと思っているのですが、そうした問題の原因となる部分にメスを入れられることは望んでいないのです。

その原因とは、その本人自身にあるからです。自分はそのまま手つかずの状態で隔離しておいて、問題だけを治してもらえればいいと願っているのです。

たとえ自分の性格を治したいと訴えてくるクライアントさんであっても、心の奥底には自分のままでいたいと願っているのですから、驚くしかありませんね。

癒しがとんとん拍子で進んで行かないとしたら、その理由は自分自身でいることへのしがみつきがあるからなのです。あなたは決して、あなたの根っこを変えたいなどとは思っていないのです。

あなたがしがみついている自分自身とは、具体的には何でしょうか?それは、これまでにあなたが培ってきた様々な価値観なり正しさなり、主義や信条などです。

あるいは、溜め込んだ体験や知識なども含まれるでしょうね。つまり、あなたの人格を形作っているあらゆる要素を決して失くしたくないのです。

けれども、そうしたものの一切合財があなたの苦しみの原因を作り続けているという事実に気づき、それらを潔く手放していくことができるなら、エゴは自動的に落ちていくことになるはずです。

あなたがしがみついているあなたとは、本当はエゴであり、それは実在しない架空の作り物なのです。そこを真に見抜く(光を当てる)ことで、エゴという影は消滅するのでしょうね。

しがみつきを点検する

私たち人間は、動物と違って心理的な恐怖というものを持っていますね。ライオンに追われたシマウマも、恐怖によって全力で逃げるのですが、この場合の恐怖は本能的なものです。

人間だけが、本能的恐怖に加えて知性的な恐怖というものも感じるのですから、動物よりも何百倍も恐怖を感じて生きているということになりますね。

その恐怖から必死に逃れようとすれば、人は何かにしがみつくことになるのです。たとえば、溺れそうになっている人は、死の恐怖から逃れようとして藁にもすがりつこうとするのです。

「しがみつき」はきっと誰の心の中にもあるはずです。あなたは、何にしがみついていますか?少し時間をとって、ご自身の心の中を見つめてみて下さい。

緊急時だけでなく、平常時であってもやっているしがみつきを見つけることです。なぜなら、緊急時のしがみつきは、一過性のものなので、あなたの人生を悪化させる心配はあまりないからです。

問題となるのは、常日頃継続的にやっているしがみつきなのです。そのしがみつきには、必ず副作用が発生するのです。それも、本人が望んでいないものが起きるのです。

仮にもしもあなたが、いい人であるということに必死でいれば、そのいい人の仮面へのしがみつきが強ければ強いほど、人といることを嫌うようになってしまうはずです。

せっかく人から好感をもたれようと頑張っているのに、自ら人間関係を壊したくなるくらいにエネルギーを消耗させることになってしまうからです。

底知れぬ寂しさを拭うために、いつも一緒にいたいと恋人にしがみつくなら、相手はいつかそのしがみつきの重圧から逃れたくなって、結局は孤独がやってくることになるのです。

しがみつきとは、ある種の狂気なのです。極端な飽くなき欲求とも言えますね。それは必ず、期待とは裏腹の結果を導くことになることに気づくことです。

自分の心の中を点検して、何等かのしがみつきを発見したら、真反対の副作用がやって来る前に一刻も早く、癒しを進めて行くことですね。

マインドの外に出る

自分のことをダメ出ししている人はいませんか?そりゃ当然いるでしょうね。自分をダメ出ししてない人など、この世界には一人もいないのです。勿論、私もしてますよ。

もしも本人にはそうした自覚がないとしても、潜在意識の中には必ず自己否定をする部分があるのです。それは、人間として当り前のことなのです。

で、次にもう一つ質問があります。そのダメ出しを何とかやめようとしている人はいませんか?これもきっと沢山いるはずです。

ダメ出しせずにいられるような理想的な自分になろうとするのも、今言ったようにそのダメ出し自体をやめようとするのも、どちらも不要なのです。

結局どちらも自分を改善しようとしているわけです。なぜ人は、AをBにしよう(A→B)とするのでしょうか?なぜそれが際限のないやり方であるということに気づかないのでしょうか?

実は、現状を変えなければならないという強迫観念は、私たちが幼少の頃に、エゴに毒された親や社会などから仕込まれたことなのです。

この、「お前のままではダメなんだぞ!」という、悪魔(エゴ)の囁きをそれこそ何万回も聞かされて育ってしまうため、誰もが心の奥底に自己否定感を持ってしまったのです。

それがあまりにも強烈だったために、大人になってもダメ出しを自覚している人もいるし、あるいはダメ出しを自覚できないように抑圧して、自分を好きという自覚で生きている人もいるのです。

本当はどちらも同じように、自分のままではいけない!という惨めさを持っているのです。したがって、癒しにとって最も大切なことは、マインドの外に出ることなのです。

マインドの中には、必ずこの「自分のままではダメだ!」があるのですから、マインドの中にいる限りは、あなたは自分を改善しようとする人生から抜けられないのです。

自分のマインドの中には、一体どんな思いや感情が詰まっているのか、それをマインドの外から見ることです。戦場にいれば、生死がかかっているので冷静ではいられませんが、戦場を上から俯瞰するなら落ち着いて戦況を見守ることもできますね。

それと同じことをすればいいのです。マインドの外からマインドの内側を冷静に見ることです。どんなに努力してもあなたがマインドの内側にいる限りは、必ず元々のマインドの内容物に汚染されてしまうからです。

そして、マインドの外に出る唯一の方法とは、マインドの中にある声の一つひとつを受け止めることなのです。受け止め続けている間に、マインドの外から自分を見ることが容易くなるのです。

そうなれたら、あなたはもう自己改善には興味がなくなります。その先にこそ、今流行りの「ありのままで~♪」が現実のものとなってくるのです。

死の体験が生を体験させる

この二元性の世界においては、常に対立するものがあって、それが存在するのです。つまり、夜があるからこそ昼があり、闇があるからこそ光があるということです。

もしも、一度も具合が悪くなったことのない人がいたなら、その人は健康というものを実際に理解することはできないのです。知識として健康を知ることは可能ですが、それを体感することができないのです。

同様にして、もしもあなたが不幸せな状態を経験していなければ、どれだけ頑張っても幸福感を味わうことはできないということです。

谷があるから山が存在できるのです。ということで、少し不思議だなと思ったことがあるのですが、それは私たちは誰も死んだ経験(記憶)がないのに、生きていることを経験しているということ。

なぜ、生の対極である死の体験がないのに、生について分かっているのでしょうか?なぜ自分は今人生を生きていると理解できるのかということです。

それで思ったのですが、もしかしたら私たちは誰も本当には「生きている」ということに気づいてはいないのではないかということです。

「生きている」と思い込んでいるだけなのかもしれません。かつて、テレビ番組か何かで臨死体験をした人の特集をやっていたことがあったのですが、臨死体験をして生き返った人は、その後の人生の生き方が変わるということでした。

ということは、彼らは一度ある意味では死の経験をすることができたために、生き返ったあと、本当に生きるということの実体験ができるようになったのかもしれません。

臨死体験に限らず、まさに死の淵まで行ったような、とても危険な経験をした人たちは、その後の人生において何かが変わるということを聞きますね。

これこそが、死の体験があって初めて、生を体験できるということなんだろうと思うのです。自己防衛に明け暮れるだけで、死に際の経験がない人は、どう頑張っても煌めくような生の経験ができないのです。

それはまるで眠っているような人生と考えられるかもしれません。少しでも、死をリアルなものとして感じることができれば、生をより豊かに生きることができるのではないかと思うのです。