自分をごまかさずに生きる

私たちは、生まれてすぐに親から生きて行くための最低限のルールを叩き込まれるのです。あれはダメ、これをやってはならない、もっとこうしなさい!と言う具合に。

最初のうちは、無邪気に反抗していたものの、そのうちにはある程度は言いなりになった方がよさそうだと気づいて、自分の自由さとルールを天秤にかけるようになるのです。

自分の好きなようにしたい気持ちとルールを守るべきという気持ちが、うまい具合にバランスがとれてくれるといいのですが、場合によってはひどくルールが勝ってしまうこともあるのです。

それは、たとえば子供の側がすごく頑固で意志が固く、お母さんが手を焼くことになって、しまいには激しく怒りを子供にぶつけるようになれば、子供は言うことを聞かざるを得なくなるかもしれません。

あるいは、元々極端にルールに厳しい親に育てられる場合にも、同じようにして子供はルールを重要視するようになったりするものです。

珍しい場合として、子供が親には見えないものを見えてしまったりすると、子供は無邪気にそれを主張するのですが、それが親の反感を強く買ってしまい、それが原因で親からひどい扱いを受けたりするのです。

このようなことがあれば、あるいはそうしたことが重なったりすれば、当然子供は自分は親にとって何の価値もない、元々生まれなければよかった存在なんだと思うようになるのです。

親の側に愛情がないわけではないのですが、他の兄弟と比較されて否定されたり、親の心の中にいるインナーチャイルドから問題視されて、ひどい扱いを受けるようになるかもしれません。

そんな子供が成長して大人になると、ありのままの自分を出しては絶対にいけないというルールを作り、人とうまくやっていくための仮面の自分を作り出すようになるのです。

本当の自分のことは地中深く沈めて忘れてしまうのです。そうなったら、何をどうやっても心は晴れることなく、常に欲求不満状態になるはずです。

元の素晴らしい自分を取り戻すためには、常に自分を見張って、できるだけ自分に正直に生きる練習をすることです。それがどれほど恐怖に感じるとしても。

その恐怖ごと、正面からしっかり見て、感じてあげることです。そうやって、いつの間にか本来の自分が顔を出すときがやってきます。それがどれほど清々しいものか、経験した者だけが知っていますね。

否定感を観る

とかく他人のことを否定したがる人というのがいるものですね。何かにつけて、芸能人やスポーツ選手などの有名人、あるいは政治家や著名人のことも否定するのです。

ご本人としては、理路整然と否定しているという思いがあるため、自分が他人のことを否定するには、それなりの正当な理由があると信じているのです。

けれども、自分の周りの何かや他人を否定する心の奥には、必ず著しい自己否定感を隠し持っているとみて間違いありません。

その自己否定を最初にしたのは、勿論本人も覚えていないような幼い頃なのですが、自己否定を感じながら生きているのは辛いものです。

だからそれを抑圧して、感じないようにしてしまうのです。自己否定に蓋をしても、それだけでは安心できないために、その蓋を頑丈にする工夫をするのです。

それこそが、外側への否定なのです。自分以外の何かや誰かを否定するとき、自分はそれとは違うということを自分や他人に対して言明しているようなものなのです。

だから、誰かを否定しているその瞬間、一時的な安心感を得ることができるわけです。当然、その安心感は一過性のものに過ぎないため、繰り返し何度も否定し続けることをせざるを得ない状態になるのです。

せっせと誰かを否定する心の奥には、そうした本人にも気づくことのできない心のメカニズムがあるということですね。

私もよく誰かを否定したりすることがあります。ある種遊び感覚でやっているし、それほどしつこい否定でもないですが、そういう自分を見ているクセがついています。

だからなのか、深刻さを伴った否定をするということはなくなりました。本当は、否定も肯定もないというのが深い部分にデンとあるのです。

あなたの心の中にある否定的な想いを見てあげて下さい。否定するのをやめようとする代わりに、その否定感をしっかりと受け止めてあげればいいだけです。

そのうち、すべての否定がただの遊びになるはずです。

怒りを捻じ曲げて憎しみにする

子供の頃に、自分の気持ちや感情をストレートに表現できるなら、それはとても幸せなことですね。多くの場合は、自分の感情に何等かの制限を設けて、抑圧してしまいます。

たとえば、怒りを感じたとしても、親が非常に怖ければ、その怒りを直接親へ向けることはできないはずです。そうなると、子供はその怒りを処理するうまい方法を見つけるようになります。

その一つが、怒りを憎しみに変えるという方法です。怒りそのままを抑圧することもできますが、それだと何かのきっかけですぐにその怒りは表面化しようとするはずです。

そうならないために、怒りを一旦思考によって歪曲させるのです。そうして憎しみというエネルギーに変えてしまうのです。憎しみにしてしまえば、それは思考によって冷静さを取り戻すことができるからです。

つまり、怒りは火のように燃えたぎるエネルギーですが、憎しみはある程度の冷静さを兼ね備えたものになるのです。だから、本人は憎しみを感じても取り乱したりせずに済むのです。

憎しみとは思考によって捻じ曲げられた怒りなのです。それは、未来に成就させる復讐心へと繋がっていくことになるのです。

だから、怒りの言葉が、「殺すぞ!」という直接的で今をターゲットにするのに対して、憎しみからの言葉は、「今にみてろよ!」という未来志向の言い方となるのです。

今はまだ無力な自分だけれど、未来のどこかで徹底的に仕返ししてやるから覚えておけ!というわけです。こうなると、非常に困った事態になってしまいます。

なぜなら、怒りという純粋な感情を味わって解放しようと思っても、その表面には憎しみという思考が覆ってしまっているために、それが邪魔をするのです。

怒りを解放できなければ、本人の人生は闘いだらけの壮絶なものになっていくはずです。こうした場合、ただ怒りだけを味わおうとするよりも、周辺の感情である悲しみとか恐怖などをしっかり味わうようにすることが必要かもしれません。

親を助けたいという気持ち

親というのは、誰にとっても特別な存在ですね。特に幼い子供にとっては、親なしでは生きていけないことを知っているので、まさしく特別であるわけです。

その特別な親に愛されたい、気持ちを受け止めて分かって欲しいという思いを持っていない子供は、一人もいないはずですね。

けれども、どの親も当り前のごく普通の人間でしかありません。絵に描いたような理想的な親というのは、そうそう探しても見つかるものではないのです。

したがって、どの子供も100%確実に親に対して不満を抱えているのですが、どうやってもその不満を解消することができないと分かると、自分の気持ちを紛らす様々な方法を編み出すのです。

その一つは、親から欲しいものを与えてもらえないなら、自分が親を必死で助けることでその辛い気持ちを忘れようとする方法です。

この方法は実に画期的です。なぜなら、自分が親を救おうとすることで、親と子供の立場が逆転してしまうために、きれいさっぱり本当は自分が助けて欲しいと思っているその切実な想いを、忘れることができるからです。

もしもあなたが、子供のころに親のことを可哀想に思っていたり、何とかして自分が助けてあげなければいけないと感じていたとするなら、それこそが強力な防衛方法だったということを疑う必要があるのです。

大変そうな親、可哀想な親、苦しそうな親というのは、そうした子供の心をがっちりとつかんで離さないのです。その子供は、自分のことを後回しにしてでも、親を助けようとしてしまうのです。

それが結果として、多大な自己犠牲の蓄積を生み、未来に向けての負の遺産となってしまうことに気づくことはまずありません。

自己犠牲のつけは、怒りという感情のエネルギーに変換されて、いつかは爆発することになるはずです。そのときに、なぜ大切な親に自分はこれほどまでの怒りを感じるのか、きっと理解できないでしょうね。

親を助けようとばかりしていたはずの自分が、心の奥では親を憎んでいたということが多々あるのは、こうした心の働きがあるのです。

どんな感情が見つかったとしても、それをそのまままずは認めてあげることです。そのうえで、じっくりと過去を見つめて、癒しを進めていけばいいのですから。

自分自身でいるだけ

今の私がサラリーマン時代と比べて、一番大きく変わったところと言えば、それはどんな「自己改善プログラム」にももう興味がなくなったということです。

もう少し正確に言えば、自分のマインドの中にあるものは一切変わっておらず、当然以前からあった「自分をもっとよくしよう!」という思いもそのままに実は残っているのです。

けれども、それすらそのままにして、そうしたマインドを見る立場になれるようになってきたということなのです。極端な言い方をすれば、人のマインドの中身がそうそう変わることはありません。

マインドに手を付けて、それを何とかしようとするのがマインドど真ん中のやり方なのです。自分を改善しようとするどんな思いにも乗っ取られることなく、それをあるがままに見ることができるようになったということです。

こうしたことを、ものすごく的確に表現した osho の言葉があったので、以下に紹介します。あ~あ、何でこんな上手な表現ができるのか、無駄がないんですよね!

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まず必要なのは、変えようとする努力ではない。最初に必要なのは、自分の実存をよく知ろうとする努力だ。あなたのなかにいるのは誰だろう?あなたを訪れた、この客に目を向けなさい。

あなたの身体は、客をもてなす主人だ。その身体には、見知らぬ客が滞在している。彼方からの客が、身体に降りてきている。

それがあなただ!ただ目を向け、見守り、瞑想し、それに気づいていなさい。自分を変えようとする努力をすべて落としなさい!あなたの全エネルギーを、自分自身を知ることに注ぎなさい。

するとその知ることから成長が生じ、その成長があなたの本来(オリジナル)の面目(フェイス)をもたらす。自分自身でいるだけでいい。あなたはすでに自分であるものでいればいいだけだ。

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「すること」と「在ること」

この世界を見ると、二つの要素から成り立っていることに気づきます。それは、「すること」と「在ること」です。「すること」とは、あなたの言動であり、あなたのマインドによって支援されているものです。

一方、「在ること」は、あなたの実存を感じることであり、それはハートを通して感じられるものです。「すること」が動であるとするなら、「在ること」は不動であるとも言えます。

その両方が互いに補い合って、この世界は成立しているのです。あなたが何かを達成しようとするなら、それは「すること」に属することになりますね。

もしも、あなたが自分の存在価値にしっかりと気づかずに大人になってしまったとしたら、きっとあなたは「すること」ばかりに関心を向けることになるはずです。

なぜなら、存在価値の代わりになるものを探して、それを手に入れて何とか安心しようとするために、それは成果主義にならざるを得ないからです。

そのような場合、あなたは「在ること」の方に目を向けたことがないかもしれません。「在ること」、つまり自分の存在について見る眼が養われていないのです。

「在ること」に意識を向けるためには、瞑想が一番手っ取り早い方法です。「在ること」とは、人物としての自分を離れて、この世界の実存にハートを開くことです。

人物としてのあなたが、人生の中で何をしようと、どれほど闘って自己防衛をしようと、何かを達成して幸せになろうとしようが、その背後には常に「在ること」が広がっていることに気づけばいいのです。

「すること」は円の円周上をグルグルと回っていることだとするなら、円の中心こそが「在ること」なのです。この相補的な関係に気づくことです。

円周だけの人生では、何の深みもありませんし、決して満たされることがありません。あなたという人物は、常に円周上で活動しているのであって、それは本当のあなたではないのです。

不動の円の中心こそが、あなたの本質なのです。いつからでもいいので、円の中心の方向を見る練習を始めることです。「在ること」はあなたを静寂へと導いてくれるはずです。

トータルに見る その2

私たちはなにかと比較をしてしまいますね。自分と他人、あるいは他人と他人を比較するのです。比較をすると、惨めになることが分かっていても比較をやめられません。

なぜなら、比較すれば、たまには優越感によって喜ぶこともできるからです。そのほんの一瞬のために、比較することを止められずにいるのです。

比較するということは、物事の全体ではなくて、常に部分を見ているということですね。ある部分を見るからこそ、比較することが可能になるのです。

全体を丸ごと見るなら、どうして比較などできるでしょうか?エゴは、どうしても自分は特別な存在なのだと思いたいのです。けれども、その目論見は失敗します。

なぜなら、私たちの誰もが元々において特別な存在だからです。始めから特別なものを、特別にしようとするのですから、うまくいくはずはありません。

あなたという存在は、宇宙ができてからこれまで一度たりとも居た試しはないし、これから先どれだけ宇宙が続いたとしても、同様ににあなたの存在と同じものは生まれないのです。

だからどれほど努力したところで、特別さに磨きをかけるなどということは不可能なことなのです。あるがままで、本当に類まれな存在なのですから。あなた自身が一つの類なのです。

その一つの類を別な類とどうやって比較するというのでしょうか?あなたの本質は、決して部分ではありません。あなたがトータルな見方をするなら、このことは理解できるようになるはずです。

生をトータルに見れば、その部分である幸も不幸も気にならなくなるのです。それらは、コインの表と裏なので、どちらか一方だけを、つまり部分だけを手に入れるということはできません。

そのどちらも含めたトータルに気づけば、そこには幸不幸を超えた至福がやってきます。至福こそが静寂であり、その全体性を比べるなどとは、誰も思わないはずなのです。

トータルな見方をする

小さな子供というのは、成人よりも無力なので、より自分を守らねばならないという状態にあるのです。それが元となって、子供は白か黒かという極端な物の見方になりがちなのです。

向うから歩いてくる人が、自分にとって危険な人なのかそうではないのかと、なるべく素早く判断しなければならないのですから、そのどちらでもないという中間では困るのです。

いい人か悪い人か、安全な人か危険な人かを咄嗟に判断する必要があるわけです。だからこそ、大人のようなグレーゾーンでは生活ができないのです。

大人になっても、そうした子供のころの防衛が色濃く残ってしまうと、やはり白か黒かといった極端な見方というものをし続けることになるのです。

この世界には、まっ黒や真っ白といった極端はなくて、黒を含んだり白を含んだりといった中間の状態がすべてなのです。したがって、部分的な見方から全体的な見方へと変える必要があるのです。

例えば、あなたにとっての命の恩人がいるとします。その人にセクハラやパワハラをされたとしたら、どうするでしょうか?はっきりとした態度で、「ノー」を言えますか?

もしも言いづらいということなら、それは部分を見ていることになります。人をトータルで観る目があるなら、その人がいかに恩人であろうと、そのことといやなことをされたこととは十分に両立するということに気づくはずです。

物事をトータルに見ることができるなら、大切な人に対して、愛すると同時に憎むこともできると理解できるはずです。それは一つのマインドの中に共存できるのです。

人生に起きることも同じようにトータルに見ることができれば、幸福なときがあれば不幸なときもやってくるということを、そのままに受け止めることができるはずです。

そして、トータルな見方で生きることができれば、それだけ幸福か不幸かという極端から解放されて、そのどちらでもない、淡々とした人生へと向かうことになります。

幸せにしがみつこうともせず、不幸から逃れようともしないで、やってきたものをそのままにしておけばいいだけです。そうすれば、両極端はすぐに流れていってしまうでしょうね。

目覚めなさい!

子供がすくすくと育って大人へと成長していく過程では、沢山の知識を身に着けていくのですね。知識は、立派な大人になるためには、欠かせないものだと誰もが信じています。

常識的な社会生活をつつがなく送るためには、それなりの知識が必要となるのは当然のことです。そうした知識と気づきの違いについて書いてみようと思います。

知識の増加というものが、時間の経過とともに進んで行く水平方向の変化だとすれば、気づきとは一瞬で起こる垂直方向の変化なのです。

気づきには、原因があってその結果としての気づきがあるというような、明確な因果関係が見いだせない場合が多いものです。

実際、気づいた本人としても、なぜ今まで気づくことができないままでいたのか、その理由が皆目分からないということだってあるのです。

つまり、気づきには知識を得るような脈絡がないのです。知識を得るためには、本を読むとか、とにかく外部から情報を獲得することによって達成することが可能です。

一方、気づきは突然やってきます。それは、本人の努力の成果というわけでもありません。ある日ある時それはやってきます。そして、気づくと、それまでの自分の延長上にはいないことが分かります。

それが垂直方向の変化なのです。気づきを予想することもできません。気づきとは、神からのプレゼントなのかもしれません。

知識を得るのと同じような努力では、気づきを得ることはできません。それなら、何もできないのかというとそうでもないのです。

大切なことは、できるだけ多くの気づきを得たいという、渇望のようなものが必要なのです。その渇望が強ければ強いほど、気づきはやってきやすくなるように感じるのです。

気づきへの渇望によって、どんなものに対しても目を見開いているようになるからかもしれません。逆に気づいていない状態とは、目を背けているか、眠っているかのどちらなのです。

どれほど知識を沢山詰め込んでも、気づきがなければ、その人はグーグー眠っているようなものだということです。だからこそ、目覚めなさい!と賢者が言ってきたのですね。

私の中心も宇宙の中心

世間では、一本筋の通った人物というのが好まれますよね。その人の主張することには、常に一貫性があり、周囲の意見に左右されず、つまり心がぶれない状態であるということです。

こういうタイプの人物が、大勢の人たちのリーダーになる資格があるのかもしれませんね。けれども私は、若いころからこれと言って自分独自の考えというものを、持ったことがありませんでした。

誰かがこういうから、ああそうなのか、それは尤もだなと思うのですが、また別の賢い人が違うことを言えば、やっぱりこっちの意見の方が優れていると思ってしまうのです。

つまり、周りの人たちの意見にいつも影響されて、確固とした自分の意見というものがなかったのです。それは、学生の頃には、かなりの劣等感になっていたと思います。

社会人になって、それではみっともないという自覚があったので、自分の色を出そうと思って頑張ったあげく、そのふりをしたこともありましたが、結局長続きしませんでした。

なぜなら、自分の主張することが本当に自分にとって大切なものかどうかすら、自信がなかったのですから。結局、自分という人物は、どこまでもこれといった意見など持っていないのだと気づいたのです。

これは社会人としては失格なのです。だから、本当のことは誰にも打ち明けたことはなかったのですが、当の本人が気づいてしまっているので、もうどうしようもなかったのです。

何かについての議論をゲーム感覚で楽しむことは、ある程度はできるのですが、真に興味があるかといえば、絶対的にないというしかないのです。

したがって、この際はっきりと告白しますが、私には独自の主義なり信念といったものがかなり欠落してしまっているのです。しかもずっと以前から。

だからこそ、サラリーマンを辞めてこの仕事をするようになって、本当に楽になれたのです。それまでの偽りの社会人の仮面を、もう被る必要がなくなったからです。

そして今となっては、主義も信念もいらな~い!と明言できるようになったのです。一貫性もなく、一本の筋も通っていなくて結構。自信などなくても、楽しく生きて行くこともできるのです。

闘いから手を引けば引くほど、そうなって行かざるを得ないのです。私という人物には、頼りになる中心など必要ないということです。

なぜなら、私の真の中心はそのまま宇宙の中心に違いないと気づいたのですから。(ただし、時々、人物の中心が戻ってくることもあって、そのときには人生にうんざりしている自分を発見することになるのですが…。)