普通であること

私たちの中にあると想定されているエゴというのは、いつも理想を掲げて持っているのです。その背後にあるものとは、断定的とも言える自己否定感なのです。

自分にダメ出しをしているからこそ、その真逆である素晴らしい存在に憧れもするのです。自分がそうなりたいと思うだけではなくて、そうした理想的な人物を無意識に探しもするのです。

そうして、この人はという人が見つかると、その人のことを勝手に理想的な素晴らしい人であると決めつけてしまうのです。そして、その人を崇め奉るようになるわけです。

けれども、その人のプライベートなどを知ることになって、おいおい、話しが違うじゃないか、その人はこんなことをするはずがないのに、というようにして裏切られた感にやられてしまうのです。

なんだ、ごく普通のくだらない奴じゃないかと思えて、尊敬の眼差しが一気に消えてしまうのです。それはきっと物凄く残念な体験になるのでしょうね。

ごく普通のセラピストである私ごときでも、クライアントさんによっては自分とは違う世界に棲んでいると勘違いしてしまうことがあるくらいです。

それを感じると、わざわざ時間を割いてでも自分はごく普通のおっさんですよ、と説明することにしているのですが、そうした内容はどうも耳に入らないようなのです。

私でもそうした経験があるくらいですから、この世界で活躍されている有名な方々のことを、勝手に高貴な人に違いないと勘違いしてしまうのも、当然かもしれません。

21歳のときに光明を得た osho であっても、大人になった彼はシャワーを浴びるときに床をビショビショにして、付いている女性に叱られてみたり、頭からすっぽり毛布に包まってしか眠れないなどということがあったのです。

どんな人も、近くで見ればごく普通の人たちなのです。その普通さがとても大事なのです。人格が高貴で、などという人は逆に危ない人です。禁欲的な人もダメです。

悪魔から天使までまんべんなく持っている自分、その自分を全的に生きているその普通さこそが本当に素晴らしいのだと気づくことですね。

マインドとは精神活動のこと

もしもある時に、ふと「何もやることがないなあ」ということに気づいたとしたら、あなただったらどうしますか?テレビもビデオも見たくないし、本や雑誌も読みたくない。

誰かと話しをするでもないし、家事仕事も終わった。さあ、たった独りでいてそうなったら、どうでしょうか?それでも、無理やり何かやるべきことを捜すでしょうか?それとも、何もせずにただその場でじっとしているのでしょうか?

そんな事態を経験したことがないから分からないという人もいるでしょうね。あるいは、やはり何もせずにいるということをしたことがないので、きっと何か捜してやり出すに違いないと思う人もいるはずです。

そして、ごくごくほんの少数の人たちだけが、ただ何もせずにいるということを選択するのかもしれません。私の場合、それが自宅か事務所であれば瞑想するでしょうね。

私たちのマインドは、常に活動していなければならないのです。表現を変えれば、精神活動というものこそが、マインドであるとも言えるのです。

したがって、活動していないマインドというものはありません。精神活動がとまったときには、マインドというものは存在しなくなるからです。

これこそが、あなたが何かをしていなければいられない理由なのです。何もすることがなくて、身体は動かさないとしても、きっとあなたは思考の中に入って、ああでもないこうでもないと始めるはずです。

マインドとは、固定しておくことができないものだからです。そしてこのマインド、つまり精神的な活動こそがあらゆる苦しみの根源なのです。

マインドの中で渦巻いている思考がなくなれば、そこに苦悩が残ることはありません。ただし、痛みはなくなりません。痛みとは、ハートで感じるものだからです。

苦しみと痛みの違いとは、マインド(思考)とハートの違いだと理解すればいいのです。話しを元に戻して、もしもあなたに何もすることがない状態がやってきたなら、それは絶好のチャンスです。

何もせずにいるチャンスです。肉体的な活動だけでなく、精神的な活動もストップして、常にマインドという主人に従属してきた仕返しをするチャンスなのです。

マインドは悲鳴を上げるはずです。その悲鳴をただあるがままにハートで感じてあげてればいいのです。少しでも手持ち無沙汰を解決しようとしてしまえば、マインドが活動を始めてしまうでしょう。

もしも、日ごろから瞑想を習慣にしているなら、そんな時に困ることもありません。退屈は、マインドにとっては恐怖そのものですから、それもそのままに感じていられるといいですね。

ブログを書くメリット

今このブログを書きだそうとしてパソコンに向かっているのですが、実際毎日ブログを書くのは面倒だなという感覚があります。ところが、今日もこうして書き出しているからには、何か魅力があるに違いありません。

不思議なのですが、面倒だと思わない日はないにもかかわらず、今日は何を書こうかと思って、パソコンに向かうと頭の中が空っぽになって一種の瞑想状態のようになれるのです。

その時間が結構な至福感をもたらしてくれるのです。瞑想するぞ!と思って瞑想を始めるよりも、かえってこうして瞑想のことなど何も考えずにパソコンの前にいるのが、とても気持ちいいのです。

そして静かに座っていると、きっとそのうちに今日のネタになりそうなものが、浮かんできてくれるのです。自分の努力を使っている感じはありません。

そして、たぶん意外に思われるかもしれませんが、つたないブログであっても読んで下さる方がいらっしゃるから、こうして書き続けているのは確かなのですが、他にも理由があるのです。

それは、結局のところ自分のためになるからなのです。どこからともなくやってきてくれる、ブログのネタをタイプしながらも、実は「ほう!」という思いを持って眺めている私もいるのです。

その証拠に、一度書いたものを後で読み返すこともあるくらいです。それは、出来がいいか悪いかをチェックするためではなくて、内容を再度自分のものにするためなのです。

書いているときには、あまり思考を働かせていないために、あとでもう一度読む方が自分にとっても分かりやすいという面があるのでしょうね。

文章表現の未熟さとか、そういったところを見だしたら、悲しい気持ちにもなってしまうので、もうそのようなところはまったくスルーすることができるようになり、以前よりも楽になりました。

物事は何でも、まず第一に自分のためになることが大切ですね。充分に自分のためになるという自覚があればこそ、それが副次的な効果を外の世界へと広げることになる可能性が出てくるのですから。

自分のためであればこそ、面倒であっても継続させることもできるというものです。でもやっぱり、読んでもらったらそれはそれで嬉しいというのも本音です。

頑固さに見切りをつける

クライアントさんと向き合っていて、邪魔だなあと感じることの一つは、クライアントさんのマインドをギューっと締め付けて離さない頑固さなのです。

頑固さとはどこからやってくるかと言うと、それは自己防衛がその原因なのです。恐怖から自分の身を護るためには、それこそ頑なに命がけで防衛しなければならないのです。

したがって、本人にとってその恐怖が圧倒的に大きければ、どんな人だって頑固にならざるをえないのです。生まれつきの頑固さというものは存在しないと私は思っています。

つまり、頑ななマインドとは生後の環境によって仕方なく作り出されたものだということです。勿論そこには、本人の敏感さという要素が非常に強く影響するのは間違いありません。

頑固さとは、初志貫徹という面から見ると、とても素晴らしいことでもあるのですが、最初に決意したその状況はもう消え去っているにもかかわらず、大人になった今でもその決意を頑なに守るからこそ、生きづらくなるのです。

頑固さとは、少し前にこのブログでも書いた、「しがみつき」と同じものでもあるのです。かつての決意にしがみついていることこそが、頑固さの根っこなのですから。

人は自分が幼いころに決意してしまった頑固な想いに対して、どこかで見切りをつける必要があるのです。もういいよと言ってあげる度量が必要なのです。

マインドの中にいるインナーチャイルドにとっては、決意した当時のままに在るので、現在はその決意はもういらないということを知らないのです。

大人のあなただけがそのことに気づける唯一の存在であることを忘れないことです。そうして、多少の勇気とともに過去の頑固な思い込みを手放すことです。

手放すことができたなら、あなたは今までどれだけ重く苦しい毎日を送って来たのかを、思い知らされることになるでしょう。それだけ、突然生きることが楽になってしまうということです。

そうやって、一つずつ防衛を手放していくことで、より無防備になっていくことで、あなたは本来のあなたを取り戻すことになるのですね。それは、なにものにも代えがたい素晴らしい体験になるはずです。

対処しようとしない

時々クライアントさんから、「○○になってしまったのですが、どうしたらいいですか?」という質問をいただくのですが、私もつい、「こうしたらいいんじゃないですか?」と答えてしまうことがよくあります。

けれども、本当は何もしないことですよと伝えたいのです。私たちは、何かが起こるとすぐに、それにどう対処したらいいのだろうかと、考えてしまう根深いクセを持っているのです。

その問題解決主義こそが、次なる問題を生み出すということに気づくことです。「癒し始めてから、どうも怒りっぽくなってしまったのですが、どうしたらいいのでしょう?」

勿論答えは、「そのままでいて下さい。」なのです。怒りが出てくるようになったなら、何も特別なことをせずに、ただその怒りを味わえばいいのです。

こうした方がいいんじゃないのか、ああした方がいいのかもしれないという、果てしない問題対処主義が繰り返されて、その結果どんなことも解決することはないのです。

物事は解決するのではなく、ただそれを見ることによってのみ、その問題は自然と消滅することになるのです。これを一度でも体験することができれば、まるで生き方が変わってしまうはずです。

何が起きても、さあどうしよう?という思考に乗っ取られる代わりに、ただそれを見つめることです。そのとき、もしもあなたが何か思考を使って考える必要があるなら、あなたが考えるということが起きるはずなのです。

そのときに、不要なのは唯一あなたがやってきた、「さあどうしよう?」という思考だったのです。好きな人に振られて悲しくて仕方ないとき、私はどうしたらいいのだろう?と思うのです。

そんなときも、どうするでもなく、ただその悲しみを見ることです。ただ見ていれば、あなたは悲しみの中に深く入っていくことができ、いずれはその悲しみから解放されるはずです。

誰かに電話をして話しを聞いてもらおうとしたり、自分を振った相手のことをクヨクヨ思い返していたり、やけ食いしたりしても、何も問題は解決されないのです。

何が起きても、あなたはただそこにいるだけでいいのです。ただそのままにいて下さい。一過性の物事は、あなたが何も対処しようとせずにいてくれれば、それだけ早く通り過ぎるのですから。

「それもよし!」

この世界には、何一つ否定できるものはない、という感覚を持っていると、もう何があっても大丈夫という気持ちになれます。

大丈夫というよりは、「○○でもよし!」という感覚ですね。勿論、人物としての表層においては、これは好きであれは嫌い、あれはいいけど、これはダメでしょ!というのがあります。

そういう自分がいるということについても、「それもよし!」となっているのですから、これはオールマイティなのです。これは、自己改善とは真反対な生き方なのです。

人物としての自分は、いつまでたってもちょっとしたことに腹を立てるし、下らないことで惨めな気持ちにもなるし、強そうな人がいれば怖いし、ずっと以前から何も変化してないのです。

ところが、その変化などしていない人物としての自分を、あるがままで「それもよし!」とやれるようになれば、自己改善の必要すらなくなってしまうのです。

ありのままで~♪という唄がこれほど人気を得た理由は、多くの人が自分自身のことを、あるがままでいいと思っていないからに違いありませんね。

エゴは、決して今の自分のままで満足してはいけないと、常にあなたに訴え続けてくるのですが、そんな声に耳を貸す代わりに、そのエゴの声に対してすら、「それもよし!」とやっていればいいのです。

今日から、いつでもどこでも、どんなことがあっても、「それもよし!」とやってあげて下さい。そして、それもよし、などとはどう考えたって思えない!という声に対しても、「それもよし!」とやればいいのです。

とてもシンプルです。簡単でしょ?え?こんなことやる気になれない?ならば、その気持ちについても、「それもよし!」でOKですよ。

しがみつきについて

溺れるものは藁をも掴む、という言葉がありますね。自分の命が危ない危機的場面ですから、そうなるのも当然です。だから、溺れている人を助けに行く場合には、しがみつかれてしまい、両者とも危険な状態になったりするのです。

また、秋田の伝統に「なまはげ」というのがありますね。「なまはげ」がやってきて、幼い子供らを嚇すと、子供たちがお母さんなどに泣きながらしがみく姿がお馴染みです。

個人的には、あの風習は好きではありませんが、それは別として、子供はあまりにも怖いために親にしがみつくのです。つまり、しがみつきとは、防衛に違いありません。

自分がどんな自己防衛をしているのかということを、冷静に見ることはとても大切なことです。なぜなら、自分の自己防衛に気づかぬうちは、それをやめることはできないからです。

あなたは何にしがみついているでしょうか?例えば、絶対に幸せになってやる、と強く思っているとしたら、それはもうしがみつきなのです。

しがみつくという防衛は、溺れる人の例でも言いましたが、せっかく助かるチャンスを逆に台無しにしてしまう可能性もあるのです。

つまり、何かにしがみつくと、その真反対がやってくる可能性が高くなるということです。したがって、絶対に幸せになると思っているなら、不幸が忍び寄ってくるということです。

かつては暴力的だった親のようには決してならない、と幼いころに決意したとしたら、絶対に怒らないということにしがみついていることになるのです。

そうしたら、その真反対である怒りを沢山溜め込んでしまい、いずれはその怒りが爆発することになるかもしれません。爆発しなくとも、常にイライラしている状態がやってくるはずです。

自分は性的な不純なことから離れている、考えもしないようにするとしたら、その人はいずれ必ず性的な妄想に悩まされるか、性的倒錯者になったりするのです。

しがみつきとは、極端な状態を維持しようとすることです。それも強烈なまでに。それは、いつか必ず真反対の極端を招くことになるということです。

どんな自己防衛にも言えることですが、しがみつきも、その効果はその一瞬だけであって、いずれはその逆がやってくることを覚えておくことですね。

「生」があなたの中で生きている

私が感じている真理の一側面について書いてみます。何かの気づきのヒントにでもしていただけたらと思います。ただし、勿論言葉を使う限りは、あくまでも一つの方便であることを忘れないで下さい。

私たちは、夜寝入る時に、必ず明日の朝目が覚めたときには、昨日までの自分の人生の続きが始まると思っていますね。というより、当り前過ぎて、そんなことは考えたこともないかもしれません。

朝起きたら、別の誰かになっていたとか、同じ自分であっても過去に戻ってしまったり、、未来に飛ばされたりするなどということはないわけです。

けれども、なぜ目覚めたときには確実に、自分の人生が再開すると言えるのでしょうか?たとえば、魂というものがあって、それは人間の核のようなものだと考えてみて下さい。

あなたの魂と私の魂が突然入れ替わったとしても、どのようにしてそのことに気づけるのでしょうか?あなたという人物とは、単に思考と体験に基づく記憶の束で出来ているのです。

だから、私の魂があなたの中に入ったとしても、それまでのあなたの記憶や思考などのすべてを受け継ぐのであれば、その瞬間にその魂はあなたとして生きることができるわけです。

今仮に魂という言葉を使いましたが、「生」でも「存在」でも何でもいいのです。あなたの中に在る「生」は、あなたという人物を通してあなたの人生を生きているのです。

私の中に在る「生」についても、全く同じことが言えるわけです。それは、無数の海面上にある波とたった一つの大海原の関係のようなものです。

大海原は一つであり、それが「生」というわけです。ここで生きているのは、私たち一人ひとりではなくて、この「生」こそがあらゆるものの背後に在る正体なのです。

人間の場合に限って、思考によって「生」に気づかないようにしているのです。勿論、動物や植物も無意識の状態であるために、「生」には気づくことができません。

私たちの思考は、私が歩いている、私が考えている、私が生きている、というように解釈してしまうため、「私」こそが人生の中心なのだと感じてしまうのです。

けれども、真実は、「生」が神羅万象を現象化させているに過ぎません。「生」にとっては、道端の石ころとあなたの人生には、何の違いもありません。

「生」にとっては、あなたは一つの現象に過ぎないのです。だから、もっと気楽に毎日を過ごせばいいのです。何が起きても、「ただ、それだけ」と済ませましょう!

自分独自の思考はない

あなたが今、どんな考え方をする人物になっているのか、どういう信念を持っているのか、常日頃どんなことを考えて生活しているのかということは、あなたの環境に大きく依存しています。

もしも違う国に生まれていたら、違う両親、違う宗教の信者になっていたら、あなたの思考は今とは違うものになっていたはずですね。

つまり、あなたが独自に生み出した思考と言えども、それは純粋なオリジナルではないということです。外の世界のどんな影響も受けない思考というものがあれば、それこそはあなたの思考だと言えるかもしれませんが…。

けれども、実際にはそんな思考を持つことはできないのです。あなたが日本人であれば、日本の文化に強く影響された思考を持つことになるのです。

あなたの両親が持っているルールが、あなたの潜在意識の中に組み込まれて、自動的にその影響を強く受けた考え方をするようにもなるはずです。

もしもあなたがキリスト教徒であれば、その影響があなたの思考に及んでくるのは当然のことですね。このようにみてくると、これは自分の考えだと胸を張って言えるような思考は一つもないと分かります。

あなたの思考は、これまで生きてきたあなたの人生の結果であるとも言えるのです。自分は完全に自由に思考できると思っているかもしれませんが、それは大きな間違いだったということです。

結局、あなたの頭の中にある思考は、あなた独自のものではないということです。「これは自分の思考だ」と言えるようなものは一つもないということです。

これは重大なことですね。なぜなら、そうだとしたら、あなたとは一体ナニモノなのでしょうか?どう思いますか?その答えがあなたの正体なのです。

一度じっくり考えてみて下さい。もしかしたら、いやな感覚になるかもしれませんが、逆に何とも軽やかな気持ちになれるかもしれませんよ。

究極の癒しとは無目的に生きること

セラピストとしての私の立場から言うのも何なのですが、心理療法などによる心の癒しというもの自体が、エゴの力を借りて行うものなのです。

なぜなら、困っている自分を何とかしたい、という思いそのものがエゴだからです。エゴは常に、自分をもっと改善したいと願っているのですから。

その強い気持ちがなければ、誰もセッションになどやっては来ないのです。このままではダメだというエゴの思いこそが、人を癒しの道へと誘うのです。

ですから、癒しの原動力はエゴということになるのです。そのエゴの力を借りて、セッションでは強力なエゴの力を弱めようとするのですから、若干矛盾している話しなのです。

強力なエゴの代表は、いい人、真面目な人、とにかく自分を何とかしたいと思っている人、人の評価が気になる人、野心家、苦悩している人、闘っている人、などが挙げられます。

一方、癒しによって弱ったエゴがどうなるかというと、自分を優先できる人、わがままを言える人、自己表現ができる人、のような感じの人になるのです。

要するに、癒しが進むと強い自己防衛が弱ってくるということです。それまで防衛に費やしてきた労力を他のことに使えるようになるのですから、それは当然楽な生き方ができるようになるということです。

そして、エゴの力が緩んできたら、今度はようやくエゴの力を一切借りずに癒しをするように変えていく必要があるのです。そうでなければ、それ以上の癒しの進化は期待することができないのです。

ここからは全く異なる癒しが待っています。それが、無目的に生きるということ。癒しのことも忘れ、自分を改善することも忘れ、そうして未来への期待を一切手放すのです。

目的があれば、そこには思考が入り込み、エゴが生き延びるチャンスを与えることになってしまいます。もしも、何かの目的のために瞑想するのであれば、エゴは健在であり続けるでしょう。

人生に何の目的も設定せずに、ただ生きることそのものが目的となるということです。それ以外にどんな目的も持たなければ、エゴは持ちこたえられないでしょう。

その成り行きとして、覚醒することになるのでしょうね。